平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年8月7日 目に見える頼りにならざるものに(平和の日礼拝)

2017-01-06 18:17:51 | 2016年
列王記上17章1~16節
目に見える頼りにならざるものに

 平和の日礼拝を捧げている今日、私に与えられた聖書の箇所は、列王記上の17章です。今日はここから、平和を作り出すことを考えるようにと示されましたので、ここから致します。
 まず、北イスラエルの王、この時にはすでにイスラエルは、北のイスラエルと南のユダに国が分裂しておりましたが、その北イスラエルの王アハブは、異邦の民シドン人の王エトバアル(バアルはいますの意)の娘イゼベルを妻に迎えました。当時、異邦人の女性を妻に迎えることはよしとはされていませんでした。それは、その異邦人である妻の国では、別の偶像の神々を神として拝んでおりましたので、その影響は、自ずと夫であるイスラエルの王にも及ぼされるからでした。
 まさに、アハブ王も、妻イゼベルの影響で、進んでバアルに仕え、これにひれ伏すことを行いました。また、アシェラ像も造ったと言います。アシェラ像というのは、豊穣の男の神がバアルならば、女神がアシェラと考えられていました。また、このイゼベルは、悪名高い人物で、のちに北イスラエルの預言者を大勢殺害させたことで恐れられました。バアルというのは、当時、農耕の豊穣の神として信仰されておりました。雷や嵐をもって雨をもたらす神と信じられていました。片手にあの稲妻のぎざぎざの棒を持っておりました。
 アハブは、都のサマリアにさえバアルの神殿を建て、その中に祭壇を築きました。彼は、それまでのイスラエルのどの王にもまして、主(真の神ヤーウェ)の怒りを招くことを行ったとあります。預言者エリヤは、アハブ王に「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」と言いました。
 ちなみに、「主は生きておられる」という言葉は、神に誓って言いますが、という意味です。これから飢饉が訪れるのです。バアルの力などなく、バアルという偶像の神はそもそもいないことが証明されようとしておりました。これは、アハブ王に与えられた神様の裁きでした。このことをエリヤはアハブに告げたのち、神様の導きによりヨルダン川を見下ろすところ、ケリトの川のほとりに身を隠すことになりました。これからのち、飢饉が訪れるのですが、そういった状況のなかでエリヤはアハブ王の圧力を受けることになるかもしれません。命を狙われるかもしれません。神様は、預言者エリヤを世間の目の届かない場所に移し、守られました。しかし、その庇護の仕方は、一風変わったものでした。
 初めに神様がなさったことは、烏にエリヤを養わせることでした。神様は、エリヤに、「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」と言われました。烏は賢くはありますが、例えば、鷹のように取り立てて、強くもなく、格好もよくなく、威厳に満ちた鳥ではなく、そこらにいくらでもいる黒く見るからに不気味で愛されにくい鳥です。農作物を荒らしたり、およそ人間が作ったものを持っていくことはしても(私も何度も釣り場で、エサを烏に持っていかれたことがあります)、あちらから人間のために何かを運んできたなど、聞いたことはありません。
 ただし、レビ記の11章に食物規定について述べられている箇所があって、そこでは、鳥の中でも汚れた鳥として、鷹などの猛禽類などは汚れたなかに含まれていて、蝙蝠や烏も汚れたもののなかに含まれています。神様は、鳥の中でも汚れたものと考えられていた烏にエリヤを養わせるというのです。エリヤは、まさか、そのような話はとても聞けるものではありません、とは言いませんでした。彼は、神様の言われるとおりにしました。
 ケリトの川のほとりに来たとき、数羽の烏が現れて、エリヤに朝と夕方にパンと肉を運びました。70人訳(ヘブライ語で書かれた旧約聖書を72人の選ばれた学者が、ギリシア語に訳したと言われるもの)では、朝にパンを、夕に肉をとなっています。まさに、荒野でイスラエルの民が、神様によって、朝はマナを、夕にはうずらをいただいたことと重なります。あのとき、神様は、イスラエルの民をじきじきに養われました。
 それでは、いったい烏は、どこからそれらのものを手に入れたのでしょうか。それは書かれていません。聖書が伝えんとしているところは、神様が、烏をとおしてそのようにエリヤを養われたということなのです。烏そのもが養ったのではなく、神様が烏をとおして養われたということなのです。そして、エリヤは、この間、誰とも会わずに、誰にも居場所を知られずに過ごすこととなりました。
 そのうちに、そのケリトの川も涸れました。飢饉がいよいよ厳しくなってきたのです。神様は、エリヤに「シドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」と言いました。シドンは、イゼベルの土地でした。今度は、そこに住めと神様は言われました。しかも、そこでエリヤを養うのは、一人のやもめだというのです。決して、土地の権力者で、富もあり、彼をしっかりと保護できる、そういう力のある人物ではありません。
 シドンというイゼベルの土地ですから、あたかも敵地といってもいいようなところです。彼に恐れはなかったのでしょうか。そして、保護してもらえるというのが、一人のやもめです。エリヤの中に、ほんとうに躊躇がまったくなかったとは、信じ難いことですが、そのような不安におののくそぶりは、聖書には、描かれていません。彼は、このときもまた、言われるとおりにしました。
 しかし、案の状、このやもめに、エリヤは少々の水とパン一切れを所望しましたが、彼女は、自分のところには、一握りの小麦粉とわずかな油があるだけで、それがなくなれば、息子とふたり死ぬのを待つばかりだということでした。エリヤは、そのように言うやもめの話を聞いてどう反応したでしょうか。それは、気の毒に、それじゃあ、私はいいですから、あなたとあなたの息子さんで残っているものを食べつくしてください、と答えるのが普通ではありませんか。エリヤは、そのようには言いませんでした。もし、そのように言うならば、神様の言われることをないがしろにすることになります。
 エリヤはやもめに「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい(残りの粉と油でパンを焼くということです)。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後、あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、甕の油はなくならない」。
 やもめは、エリヤの言うことを聞きました。その結果、幾日食べても壺に入っている粉も甕の油もなくならなかったのでした。それは、言われたとおり、雨が降ってくるその日まで続いたと思われます。エリヤもこのやもめによって日々のパンをいただくことになりましたが、それは、神様がそのようにやもめを用いてなさったことでした。同時に、やもめもまた、そのままではおそらく最後の食事を終えたあとは、食べる物がなくて、息子とともに餓死したかもしれないのです。エリヤの言うことを信じて、神様の御言葉にかけたそのことが、飢餓からこの親子を救ったのでした。
 今日の招詞の御言葉にありましたように、「だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31-33)、私たちがまずなすべきことは、神の国と神の義を求めることです。
 これが順番です。そうすれば、衣食住のことも加えて備えられるから心配は何もいらない、ということです。この列王記上の17章1節から16節のところで、神の国と神の義を求めるというのは、まず、御言葉に聞き従うことです。そうすることで、エリヤの命は守られることになりました。エリヤだけではなく、このやもめと息子の命も守られました。飢饉のなかで、餓死することをしないで、過ごすことができました。
 ルカによる福音書の12章の13節からのところには、イエス様のなさった愚かな金持ちのたとえ話が載っています。ある金持ちの畑が豊作で、作物をしまっておく場所がありません。それで、それまでの倉を壊して、新しい大きな倉を建て、そこに穀物や財産のすべてをしまって、自分に言い聞かせるのです。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。この気持は、往々にして私たち人間の偽らざる一般的な思いではないでしょうか。
 しかし、神様は言われるのです。「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」、自分のために富を積んで、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ、と。私たちは、目に見えるもので事柄を判断しがちです。多くのものを持ち、蓄えますとそれで安心だと考えるのです。ただし、命のことは、神様の領域ですから、明日はどうなるかわかりません。病気だけでなく、事故や事件も起こります。自分がしばらく生きていくつもりで、ことを計画したとしても、それもまた確かなことではないのです。否、まったく不確かなことだと言ってもいいくらいのものです。
 聖書が私たちに教えてくれることは、神様により頼むことなのです。自然と、私たちは、目に見える確かなもの、強いもの、力のありそうなもの、豊かなものに頼ろうとします。しかし、神様は、神様をより頼むことをお望みです。どんなに、それが汚れているように見えても、まったく力のないものに見えたとしても、その背後に神様がおられ、力を与えるならば、十分に私たちの力にそれらはなりえます。否、十分それ以上に、私たちの命をしっかりと守ってくれます。
 さて、今日は、平和の日礼拝を守っています。私たちの国には、決して小さくはない、あるいは、少なくもない戦争をする道具があります。そして、今度の防衛大臣も、核兵器を持つことにも賛成するほどの人物です。より殺傷能力のある強く大きな武器を手にすることを願っています。そして、同時に戦争ができる国になることを押し進めようとしています。今のこの国の憲法は、国が戦争をすることを認めてはいません。国の交戦権は、これを認めないとはっきりと謳っています。今の憲法のありようは、立憲主義に立っておりますので、戦争についても、国の責任でかつてのように戦争することがないように縛りをつけています。そのために、当然、戦争のための武力を持っていないことになっております。
 戦争をしない、そのために武力を持たないというのは、力という点では、まったく非力という印象を多くの人々は、もつのではないでしょうか。日本以外の多くの国々は、国家間の利害が対立すると、武力をちらつかせて、威嚇をすることがあります。そして、何かのきっかけを作り、戦争に突入したりするのです。平和を願っているからこそ、という大義名分を振りかざして、他の国の多くの一般人を殺害したり、他の国の領土を犯したり、ということをやっていきます。
 今は、その戦争状態が、テロといった形態で、延々と続いております。平和を掲げての戦争こそ、平和とは真逆の自体を生み出してきたことを歴史は私たちに教えております。また、力に対しては力を、これが私たちの目に見える社会の構造です。しかし、聖書は、私たちにまったく別の視点を与えます。目に見える、一見頼りにならないものに、神様の力を見よ、ということです。
 誰も気に留めることもない、否、むしろ忌み嫌われている烏が、あなたの命を守る、あなたを支える、そういうことがある。地方の名士であって、力のある強力な後ろ盾によって、あなたは守られるのではない、否、むしろその人物は今飢餓の一歩手前まで来ている、その人によって、あなたは守られるのである、そして、守られるという視点からは、確かにそこは、ケリトの川、渓谷ですから他人からの危害を加えられる恐れもないほどの安全性が確保されたところです。また、名も知らぬやもめですから、人目につくこともありません。あなたは安全に守られるのです。よくよく考えてみますと、神様は、実に完璧な形で、エリヤを守られたのでした。
 神様のお使いになられるものや人は、私たちが想像するような力あるものではありません。そういうことでいうなら、力ないものなのです。しかし、だからこそ、神様のお力が十全に働かれるのです。パウロが言ったコリントの信徒への手紙二の12章10節の言葉「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。
 私たちの持っている憲法、特に平和ということでいうなら憲法九条は、最大に弱い位置に私たちを強いるものです。しかし、これこそがもっとも強力です。戦争がなければ、いかようにもで、平和を保ったり、作ったりすることができます。私は、神様は、一向にこの日本には、たくさんのキリスト者を与えてくださらない。この日本におけるキリスト者の数は相変わらずの比率だし、否、むしろ減少傾向にすらある、救いのみ手を差し伸べてくださってはおられないと思ってきました。
 しかし、戦後の平和な日本を思うとき、否否、神様は、この日本を守ってくださってきた、この弱く見える憲法をとおして、日本を守ってきてくださった。この70年余り、かつてのような過ちを犯さないですんだ、悲惨な体験をしなくてもすんだ、そう思えるのです。なんと恵まれた国でしょうか。この神様がくださった弱い弱い平和憲法、憲法9条を大切にしながら、この日本にさらに救われる方々が起こされますよう、祈り続けていきたいと思います。


平良 師

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