平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年9月14日 あなたがたはキリストの体

2006-05-29 13:40:08 | 2003年
IIコリント12章12~28節
    あなたがたはキリストの体

 本日は、敬老の日礼拝ということで、ご高齢の皆さんを特におぼえ、礼拝を守っています。今日のこの礼拝に、T姉が出席できるのではないかと、先週の初めには、思いました。岡兄の勤められている病院から専用の車を借りられるように準備もしてもらっておりました。月曜日に娘さんのS姉とお電話をしましたときに、最近、随分とお元気になられたということで、何とか車いすにも30分くらいは座れるのではないか、ということでした。
 病院の先生も外出の許可を出してくれたということでしたし、喜んで、楽しみにしていました。T姉は、S姉にも、14日は行くと言われていたそうです。S姉も、一緒に行くようにしていたそうです。ところが、その日くらいから、今度は、おなかの具合がよくないということで、病院を変わられ、今日は来られなくなりました。ただ、寺沢病院で、教会の近くになりましたから、私たちもちょいちょいいけますから、それはよかったのですが、引き続きお祈りにおぼえていただきたいと思います。
 私たちが、月曜日、病室を出るときに、T姉は、K姉のところにも行ってください、と言われました。前の病院にいるときには、一緒の階に、K姉も入院されていましたから、私たちも、T姉とK姉とお二人、お見舞いをしていましたので、今いるところが、まだ、同じ病院と思ったらしく、K姉のところへも行ってくださいと言われたのでしょう。あるときは、T姉の病室に、K姉も御越しくださり、一緒に賛美歌を歌い、祈りを合わせたこともありました。ご自分の状態もたいへんなのですが、K姉のことをT姉が、祈りにおぼえられていることに胸打たれる思いでした。
 T姉が教会のことを頼みますよと、私が行くたびに言われるのです。前の「平和1丁目」の欄に書いたとおりです。私たちが、支えているつもりになっていても、実際は、支えられていることが多いということを教えられます。教会の歩みも、T姉の祈りに支えられていたりするのです。祈祷会の席で、確かに私たちは、祈ります。教会の課題や人のことを祈ります。
 そして、そこでは、知りえた情報に基づいて、多くのことをもれないように祈っているのです。祈祷会は、教会の原動力、船で言うと、機関室のようなものですから、是非、時間を作って出席していただきたいと思います。しかし、祈祷会には、或いは、礼拝には来られないけれども、T姉のように、祈ってくださっている方々が幾人もいて、教会は、支えられているということも一方においては、あるわけです。
 さて、今日の箇所は、パウロが、教会というものについて、語っているところです。体を比喩の材料として使っています。当時の社会にあっては、一致を求める演説で、体を比喩の材料として使うことは、よくあったようです。身分や階層の低い者たちが、自分たちが置かれている社会秩序に留まって、上位の者たちに反逆しないで、社会秩序が維持されるために、大方は、そういった目的で体を使っての比喩がなされたようです。
 パウロもこのような体の比喩を用いて、話をしましたが、内容にはかなりの隔たりがありました。パウロは、教会員の多様性が重んじられるように、或いは、弱い者へ敬意が払われるように、話をしたのでした。決して、支配階層にとって都合のいいような、社会の身分や階層が固定されることをねらっての話ではなかったのです。もっと、もっと積極的な話でした。
 ここで語られているたとえの話自体は、とても分かりやすいと思います。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」。教会の場合も同様である、ではなくて、キリストの場合も同様である、とキリストに喩えられていることにまず驚きます。
 後の方を読みますと、ここでは、キリストというのは、教会全体をさしているように理解されますし、その部分です、とは、信徒ひとりひとりをさしているように理解されます。なのに、教会とその群れの一人一人をまず「キリストの場合も同様である」と、キリストに喩えたところにすごさを感じるのです。パウロが、「体のすべての部分が多くても、体は一つである」というのは、「皆一つの体になるためのバプテスマ(洗礼)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」からだと言います。洗礼を受けた者たちは、「一つの体になるために」だったと言われます。
 つまり、教会の群は、キリストのひとつの体だと、いうことになるわけです。ユダヤ人、ギリシア人というような民族的な区別や奴隷あるいは自由な身分の者、という身分の差などが越えられていることを述べています。それらの壁が壊されて、一つになっているのが教会です。
 ですから、「足が『私は手ではないから、体の一部ではない』」というようなことは成り立たないというのです。これは、ある信徒が、自分は他の信徒と違うから、教会の一人としては扱わないでくれ、と言っているようなものです。キリストにつながっていなくてもいいと言っているようなものです。ひょっとしたら、自分はもっともっと高尚な者なのだ、というような意味にも読み取れますし、逆に、自分など、何のとりえもないと卑下しているようにも読みとれるのです。足は、足の働きがあり、手には手の重要な働きがあるのです。それぞれの肢体が、ぞれぞれの機能を持っていて、それぞれの機能を果たすことで、全体が動いていくのです。
 つまり、「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか」とあるように、それぞれの個性が大切にされるべきであって、もしそれが同じであれば、その人が生活していくことに、いろいろと支障がでることでしょう。そうした多様性こそが、教会では、大切なのだと言っているのです。他の人の賜物や能力をうらやむ必要はないし、自分の賜物や能力を卑下することもいらないのです。それぞれは、皆一つの霊を飲ませてもらっているのでして、そのままで十分にキリストの体の一部なのです。
 「目が手に向かって、『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前はいらない』とも言えません」。ここには、自分自身がどう他の人々を意識し、自分の位置を定めていくかというよりも、もっとよろしくない考えが働いております。不必要と思われるところを排除するという思いがあるのです。目や頭が、上で、手足は下という思いがあるのです。目や頭が重要なのであって、手足はいらないというような考えがあります。
 しかし、実際そのようなことをすれば、その人はどうなるでしょうか。動くことができなくなります。キリストは、それぞれを必要としているのです。キリストの体なる教会は、互いが、支え、支えられて存在しているのです。
 さらに、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです」とあります。その理由は、「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。
 教会においては、どなたも必要とされているわけですが、必要不可欠とされる人々が強いているとすれば、それは、御言葉を借りて言うならば、「他よりも恰好が悪いと思われる部分」であり、「見苦しい部分」であり、「見栄えのよくない部分」であり、「見劣りのする部分」です。つまり、一般社会では、それは弱い部分であり、負としてしか、映らないような部分と言えるでしょう。そのような部分こそが、教会では必要なのであります。
 キリスト、キリストの体、教会は、むしろ、それらの人々が重要な働きを担っているという点で、大きく価値観を異にするのです。それは、神様のご計画のなかにある事柄なのです。「神は見劣りのする部分をいっそう引き立てて、体を組み合わせられました」。体が組み合わせられるとき、神様が一番何を要と考えられたかが語られているところです。弱い部分を要として考えられているのです。
 そうすれば、「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」という事態になるからだというのです。教会に分裂が起こるときには、弱い人々への視点が失われているのです。弱い人々への視点が失われているときキリストの体は、そこでちりじりに裂かれるこになっていると理解してよいでしょう。弱い部分を大切にするということによって、各部分が互いに配慮し合うということが生まれるのです。
 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。私たちは、指に小さな棘が刺さっても、その痛みのために、落ち着かなくなります。小さな棘でありながら、触るとちくっとして、痛いのです。それは無視のできない痛みです。これが、教会のあり方です。そうあるべきだというよりは、これがキリストの体といっているのです。
 教会の誰かが、病気になって弱ったり、重い出来事を負うというになれば、私たちは心を痛めます。同じように、教会の誰かに、うれしい出来事があったり、おめでたいことがあると、私たちもまたうれしくて、喜ぶのです。
 私たちは、他人のことに無関心、他人の負っている悲しみや苦しみに無関心、他人に起こった喜びごとに無関心、これではキリストの教会とは言えないのです。
 今日は「敬老の日礼拝」であり、同時に、この日は、教会の皆が一堂に会しましょう、という、全員出席日でもあります。ここにU兄が送ってくださった名簿があります。U兄が、今日の日に間に合うようにと、他行会員名簿を作ってくれました。この2年間くらいのものは、この間、Tr兄に作っていただいておりましたが、もう少し古い方々のものです。
 U兄は、これまでの教会員には、年賀状などを毎年出されて、その消息を確認されておりました。全員のものではありませんが、しかし、教会が把握していない方々の消息が少しはわかるでしょう。今日は、体のリズムがあって、午前中は、動けないので、来られていませんが、しかし、私たちに代わって、教会に連なっている人々を忘れずに、おぼえていてくださっているというのは、何と感謝なことではないでしょうか。U兄は、現在、ホームページの管理もしていただいて、とても、私たちは助かっているのです。
 しかし、日頃は車いすの生活で、午前中は、体のリズムの関係で来ることができません。初めは、U兄のために、今日は午後からの礼拝も考えましたが、いろいろな事情が重なりまして、結局、いつものような時間帯で礼拝を守ることにしたのでした。冒頭で述べた徳永姉にしても、U兄にしても、それぞれのところで、教会の働きをおぼえ、教会の方々をおぼえておられることがうれしいではありませんか。
 私たちは、今回、全員出席ということを願って、多くの方々と連絡をとり、お便りを出しました。それで来てくださった方もおられて、私たちはとてもうれしいわけです。それから、U兄とT姉が来られるようにしたいと思いました。それで知恵をしぼったり、準備をしたりしましたが、残念ながら来ることはできませんでした。しかし、キリストの体であることを私は思うことができました。主からの大きな恵をいただくことはできました。
 私たちが、例えば、U兄やT姉をはじめ、教会のひとりひとりをおぼえている限り、その教会はキリストの体です。いや、その前に、教会に病気やのっぴきならぬことで来ることができない方々がおられて、その方々もまた教会のことをおぼえ祈り、私たちをおぼえて祈ってくれているわけでしょう。そういう関係がある限り、それはキリストの体です。教会ではないでしょうか。
 私たちの教会には、70歳以上の敬老の日を迎えるご高齢の方々が16、7名おられます。この先輩たちを教会の要として、キリストの体なる教会が、これからも地域の人々への証しとなるように、私たちは、努めてまいりましょう。

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