平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年9月21日 弱さを通して与えられる力

2006-05-29 16:20:05 | 2003年
IIコリント13:1~10
   弱さを通して与えられる力

 私たちが、成長することは、望ましいことです。昨日よりは今日、今日よりは明日、という具合に、わずかでも成長を重ねていくことは、喜ばしいことです。たとえ、神様から、救われるときに、あなたの今ある存在それ自体がそのままで尊いと言われていても、私たちは、その神様の愛に応えたいと思いますから、キリスト者としての成長を願うわけです。
 ただ、留まり続けなければならないこともあります。そこが、中心になる地点であれば、そこに留まり続けることは大事なことではないでしょうか。そこからだけは動いてはだめだ、そういうことはあるのではないでしょうか。それ以上でもそれ以下でもあってはならないようなところがあるのではないでしょうか。その点から離れてしまえばもともこもなくなるということがあるのではないでしょうか。
 それは、福音の理解についてです。キリストが私たちのために十字架についたこと、そして、三日目に蘇らされたことです。しかも、この十字架と復活理解においては、基本のようなものがあるのであって、そこから離れてしまうと、それは一切を失うことになるように思うのです。パウロが、当初コリント教会で宣べ伝えた福音理解がそうでした。
 しかし、今や、その後に来た指導者たちによって、その福音の理解が変質し始めているのです。その結果、分派ができたり、争いが起こったり、道徳的な乱れがあったりと、コリントの教会は、パウロからすると乱れ、堕落してきているのでした。それで、パウロは、再三にわたり、手紙を書いたり、訪問をしたりしているのです。そのたびに、彼らの誤りを指摘し、叱責し、ときに、大切なことを解き明かし、悔い改めを迫ったのです。
 それで、パウロの真意を理解した者もいたのでしょうが、一向に悔い改めるようすのない者もいたり、居直る者や、敵意を露にする者などが、いたのでした。挙句の果ては、パウロって、何者なのか、彼は信用できる人なのか、何かよからぬたくらみでも持っているのではないか、などと中傷する者たちも出てきたのでした。先ほど読んでいただいた13章2節の後半から3節にかけてですが、「今度、そちらに行ったら容赦しません。
 なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです」とあるように、パウロの言葉を疑っているのです。パウロがキリストからみ言葉をいただいて語っているかどうか、疑わしい、それなら証拠を出せというものがいるわけです。それはある意味では、聖霊の働きを否定していることでした。それに対してパウロは非常に憤り、「容赦しません」、赦さない!とかなり、激しい言葉を吐いているのです。
 当時、パウロは、彼らの誤りを正すために、コリントの教会に干渉する権利を持っていたと思われます。パウロだけでなく、そういう立場を赦されている者たちは、例えば使徒と言われる人々ですが、他にもいたと思われます。
 現代、私たちのバプテストの教会は、各個主義教会ですから、どこからも干渉を受けることはありません。日本バプテスト連盟があるではないか、と思う人がいるかもしれませんが、これは、協力して一個の教会ではできない宣教活動を協力してやっていきましょうという協力伝道体に過ぎません。これは、私たちの教会の上部団体ではありません。私たちは、自主独立した教会であって、どこからも干渉を受けることはないのです。
 しかし、初代教会は、パウロのような使徒と呼ばれる人々が最初に開拓した教会は、何らかの権利をずっとその使徒が、もっていたものと思われます。ですから、コリント教会の人々も、まったく、パウロを無視することもできないのでした。
 コリントの信徒への手紙の二,2:4に、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」とあるように、悩み愁いながら、涙ながらにパウロは手紙を書いたのでした。そこには、パウロの深い愛が厳しい言葉と共に、表されておりました。愛があるからこそ、何とか悔い改めて、かつての信仰に立ち返って欲しいと願っているのです。
 それでも、パウロは、ここでは「今度、そちらに行ったら容赦しません」と、脅しともとれる、かなり厳しい態度で臨んでいます。あえて、非常に、強がっているようにさえ思えます。それはここでは、強がってみせることが必要だったのです。パウロのことをコリントの教会の人々は、軽んじているようなところがあります。パウロが、いったい、どのようにコリントの教会の人々から、見られていたかと言いますと、10章の10節にこうあります。「私のことを『手紙は重々しく力強いが、実際会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』という者たちがいる」。
 確かに、そうだったのでしょう。パウロは、弱々しい人として、映っていたのでしょう。パウロの、自分は弱い、弱さ以外に誇るつもりはない、という言葉は、何も精神的なことだけを言っているのではなく、実際すべてにわたって、彼は弱さをかもしてだしていたのでしょう。しかし、そのために、コリントの教会の人々は、彼の言うことに従わない、それどころか、パウロは、ほんとうに信頼できるのか、たいしたことはないではないか、という者たちがいたわけです。
 ですから、ここでは、いつも弱い私ではありませんよ、と言わなければならなかったのでしょう。そんなに堕落した教会なら、私が壊す、そういう構えすらも見せる必要があったのでした。しかし、そうは言いながらも、幾度も伝道旅行をして、いくつかの教会を生み出しているのですから、実際、指導力もあったわけです。でも、それらは、彼の力強さではなく、神様の力によるものであった、と言うのが、パウロの主張ではあったでしょう。
 しかし、彼の弱さは、十字架の弱いキリストと重なっておりました。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」。パウロは、キリストの十字架と復活のさまと、自分の生き方とを重ねて考えています。パウロは、自分が弱い者として見られていることについて、ここでは、少し虚勢を張っているようには見えますが、否定はしないのです。
 キリストの十字架、キリストの弱さ、自分の弱さ、について語ってきたのですから。しかし、弱さのままで、それで終わる話でないことを告げなければなりませんでした。
 パウロは、この弱いキリストにかけているのです。私たちの信仰はそうです。決して勇ましいキリストではありません。キリストに結ばれた者として弱い者だ、とパウロは言います。しかし、同時にそれは、神のお力によって、蘇らされたイエス・キリストとも、つながっているのだという事までを含んでいます。ですから、パウロが三度目に、コリントに来るとき、復活のキリストを通して与えられる神様の力が、悔い改めることをしないコリント教会の人々を容赦なく打ち砕くであろうと、警告しているのです。できれば、そうならいように、そちらに行くまでの間に、何とか悔い改めて欲しいと願っています。
 「信仰を持って生きているのかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことがわからないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」。パウロは、キリストに結ばれて、神様の力が自分のうちに力強く働いていることを知っておりました。信仰をもつというのは、イエス・キリストを信頼し、このお方に従っていこうとすることです。このお方から力をもらうことです。
 しかし、自分の力を寄り頼むうちは、神様の力は、働かれません。あなたがたは、果たして、信仰を持っているのですか、とパウロは問うています。あなたがたが、あなたの力を誇り、強さを誇っているうちは、神様の力はあなた方のうちに、働くことはないのです。「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることを」、と自分の内にキリストが既におられることに気付くためには、このお方の力がみなぎるように、このお方にすべてを明渡さなければならないわけです。
 私たちもまた、自分が信仰を果たして、もっているかどうか、考えさせられます。信仰をもつというのは、知っているというだけではだめでしょう。この聖書の箇所は、これこれこういう意味だ、と。しかし、それだけでは信仰をもっているとは言えません。その言葉にかけたときに初めて、信仰を持っていると言えるわけです。
 弟子は、自分の師匠を信じて、言うとおりにやってみるわけです。しかし、キリストは、私たちに、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と、言ってくださいました。そのときには、弟子ではなく、もう友であると言ってくださるのです。私たちは、主から、あなたは私の友、と呼んでいただきたいと思います。主のみ言葉を行うこと、み言葉にかけるときに、私たちは主から、友よと呼んでいただけるのです。
 コリント教会の人々は、自分たちは強いと言っておりましたし、完全だとも言っておりました。少なくとも、多くの者たちが、そのような言葉をたびたび口にしていたのでしょう。9節に「わたしたちは自分が弱くても、あなた方が強ければ喜びます。あなたがたが完全な者となることをも、私たちは祈っています」とあり、ただ口だけでなく、そう真実になったらいいと、パウロも思っているのです。しかし、それは、彼らが、真理に従って行為するときに可能となるのであって、今はそのような状態にはなっていないし、このままでは、望んでいる強さも完全さも得られないことをパウロは告げているのでした。
 強くなるために、完全となるために、彼らは、弱いキリストに自分自身をあずけなければならないのです。弱さのゆえに十字架にかかったようなお方に、我が身をあずけなればならないのです。彼らにそういうことができるでしょうか。パウロへの評価にしたとろころで、「弱々しい人で」と、弱いことはマイナスの評価でした。私たちでも、強くなるためには、完全となるためには、そう願っている人々は、強いお方につながりたいと思うでしょう。
 力強いリーダーシップをもっている者にしたがっていきたいと思うでしょう。しかし、私たちの主は、「弱さのゆえに十字架につけられた」お方なのです。現代に生きる私たち、この日本という社会状況に生きる私たちは、厳しい現実を前にして、少しでも強くあろうと生きています。ですから、この「弱さのゆえに十字架につけられた」お方に、自分自身を委ねるのは、とても愚かなことではないかと、思う人々も多いでしょう。
 しかし、それが私たちの信仰なわけです。「信仰をもっているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい」、と問われています。今の私たちが問われています。はたしてほんとうに、信仰を持っているか、問われているのです。私たちが信頼し、従おうとしているお方は、弱さゆえに十字架につけられたお方であることを深く心に留め置いておかなければなりません。
 もちろん、その弱さによって、私たちは、救われた者なのです。キリストは、私たちのために、弱くあられたのです。キリストが十字架につかれることで、私たちは罪ゆるされ、新しい命に生きることができるようになったのです。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」と言えるのは、弱さのゆえに十字架につけられたキリストだからこそ、言えるお言葉ではないでしょうか。弱さの意味をこのお方だけは、よくご存知だし、私たちの弱さも真実に理解してくださるのです。
 しかし、同時に、このお方は、神によって蘇らされ、生きておられるお方なのです。そして、今も共にいてくださるお方なのです。そして、このお方が、私たちの生も死もつかさどり、終末のときに、私たちを審き、永遠のみ国へと導いてくださるのです。

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