IIコリント5章11~21節
キリストのために生きる
キリスト者が幸いだと思うのは、私たちには、生きる目的がしっかりと示されているという点です。それは大筋において、そうだということです。それは、自分自身のために生きるのではなく、イエス・キリストのために生きるということです。私たちには、この示された方向性は、とてもすっきりしていて、わかりやすいと思います。
神様から与えられた人生を自分自身のために生きるのか、あるいは、キリストのために生きるのか、ということです。大筋において、この二者択一とも言える選びを私たちは迫られているように思えてなりません。そして、世の多くの人々は、キリストのために生きる道はいろいろなことに拘束され不自由で、自分自身のために生きる道は、実にのびのびでき自由だと、思うのではないでしょうか。
しかし、キリスト者である私たちは、キリストによってほんとうに自由に生きることができるようになった、と思っているはずであります。自分自身のために生きる生き方の多くは、世の価値観に向かいます。ときに、それは富を求めます。お金があれば、楽しいことがたくさんできると考えるからです。お金があれば、快適な生活が得られると考えるからです。
また、地位や名誉を求めます。地位や名誉があることは、自分が社会に認められたということですから、それはうれしいのです。また、権力をもっていれば、自分の考えでもって、ことを動かすことができますから、責任という重さはありますが、それでもまた、気分的には心地よく、おもしろいのではないでしょうか。これらの一つ一つが悪いというのではなく、それが最終の目標になることがこわいのです。
そして、その多くは、人間の欲望と深くかかわっています。しかも、世の価値観に生きることは、すべてとは言いませんが、相対的なものですから、つまり、他者との比較において、成り立つ話ですから、どこまでいってもきりがありません。それは果てしない競走であったり、闘争であったりするものです。世の価値観の中にどっぷりつかって生きる生き方は、自分自身の喜びと快適さ、快感、欲望を満たす生き方であって、他者との比較がつきまとっています。このような自分自身のために生きる生き方は、自由どころか、逆に非常に不自由なのではないでしょうか。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」と15節には、あります。キリストは、私たちの救いのために死んでくださったのですが、その救いを表現する仕方として、人が、自分自身のために生きるということは、救われる話ではなく、キリストのために生きるということこそが救われることになるのだと、言っているかのようです。
それでは、キリストのために生きるとはどういうことでしょうか。自分自身のためではなく、他者のために生きている人たちがいます。自分を犠牲にして、他者のために尽くしている人々がいます。例えば、最近の脱北者たちを助けるNPOの人々です。彼らの助けによって、飢餓や抑圧から救われた人々がいます。あるいは、ホームレス支援のNPOの人々です。
彼らは、ボランティアで人助けをしています。他者のために生きています。これらの人々は、キリストのために生きているでしょうか。弱い立場にあり、困っている人々を助けるのは、キリストのために生きるということと重なっていますから、そうしていると言えるでしょう。ですから、キリスト者でこうした運動にかかわっている人々もいます。
私たちの教会も「おにぎりの会」に協力しています。キリスト教の団体で、こうした運動を行う場合は、それはキリストに押し出されてということになるでしょう。ただし、他の運動体の動機の大部分は、キリストのために生きるというよりは、ヒューマニズムです。人道主義です。人道主義というのは、すべての人間に平等の人格を認め、人類全体の幸福の実現を理想とする主義のことを言います。これは、崇高な思想だと思います。
私たちキリスト者も、これらのボランティア活動をしている方々に学ばねばならないことがたくさんあるでしょう。しかし、私たちがキリストのために生きるというとき、その生き方は、聖書から示されねばなりません。キリストの十字架と復活から示されねばならないのです。それは、自分たちの罪や救いとの絡みがありますから、単なる人道主義的なものの考え方や見方とは違うものが、含まれているのは当然です。
それに、他者のために生きるというとき、その他者の設定自体が、イエス様が、「よきサマリア人のたとえ話」でも示されたように、イエス・キリストのさし示す他者性というのがあるのでして、やはり、そういった点でも、イエス様の視点を欠いた他者のために生きるという生き方は、あるときは、危険なものになるわけです。
戦争が含んでいる多くの矛盾、正義のため、国民のため、国民という他者のため、国のため、家族のため、といって殺人を正当化する、他人の領土を犯すこと、財産を破壊することを正当化していくわけです。多くの罪のない人々の命を奪い、人権を抑圧していきます。その中では、国のために、自分を犠牲にするという発想だって生まれてくるのです。そして、国は、これらの善良な人々の良心を利用していくことになるわけです。
私たちは、キリストのために生きるのです。キリストのために生きるという生き方が、救いへとつながっていくのです。キリストのために生きるというその生き方は、キリストに教えられ、示されています。これからも教えられ、示され続けるでしょう。
そしてまた、私たちが、礼拝を毎週守っているのも、キリストのために生きることの一つです。私たちは、ここで私の主がどなたかを証ししています。キリストが復活なさった日、週のはじめの日曜の朝に教会に来て、礼拝を奉げることがキリストへの奉仕の基本にして、最高の奉仕です。キリストのために生きている、そのことを表す最高の行為です。また、イエス・キリストを宣べ伝えるのも、キリストのために生きている証しです。
なぜ、私たちは、キリストのために生きるのでしょうか。それは、キリストが私たちのために死んでくださったからです。「一人の方が、すべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」。私たちは、そのとき死んだことになったのです。そして、復活したキリストと今結ばれて、新しい者に創造されているのです。17節の「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあるとおりのことが、この私の身にも起こったのです。
そうは言いながらも、私たちは、実際、自分のことしか考えられない弱い者です。気がつけば、自分を喜ばすことに、いつも一生懸命で、相変わらず、罪の中に生きているような者でしかありません。しかし、パウロは言うのです。「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人間の罪の責任を問うことなく」と。神様は、私たちの神様に対する背きの罪を一方的にキリストの十字架によって、赦してくださいました。
本来でしたら、滅びて当然の私たちに、神様は憐れみをかけてくださいました。その神様の憐れみ、神様の愛は、独り子の命を引き換えにするほどの、深いものでした。和解と言えば、普通は、双方の歩み寄りがなければならない事柄です。
しかし、神様が私たちに果たしてくださった和解は、一方的なものでした。悪いのは、これまた、一方的に神様に背いた私たち人間の方でありました。ローマ5:8に「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあるように、私たちは、一方的に赦されたのです。人間の罪の責任は問わない、とおっしゃってくださるのです。私たちは自分が弱い者であり、罪の中で生きていることに嘆き、後ろめたさを感じています。
しかし、私の罪を神様は問うことをなされない、キリストの十字架は、私たちを完全なる者としてくださった、嘆くことはいらない、と告げているのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。わたしたちは、和解の出来事を信じ、感謝して受け入れさえすればいいのです。
おそらく神様からの和解の迫りを受け入れた者は、人と人との関係においても、和解をなし遂げることが可能となるのでしょう。否、可能にしなければならないのです。マタイ5:23,24で「あなたがた祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」と、キリストも教えられました。まずは、神様との和解を私たちは受け入れましょう。20節で、パウロも「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と勧めています。そうすれば、その後に、人と人の和解の出来事も起こってきます。
和解という言葉を聞くと、わたしはある映画を思い出します。それは、フォレストガンプです。その中で、戦争のときに両足を失ったガンプのダンという上官が、彼は、ガンプのおかげで足を負傷したけれど、一命は取り留めることができたのですが、戦後、荒れた生活を送ります。ある日、ガンプとえび漁に出て嵐に遭うのです。上官は、その嵐の中、両足のない体で、マストの上にあがって嵐に向かって、大声でわめきちらすのです。そして、その様は、まさに今までの自分の境遇を呪い、神様と争っているというふうでした。
それから、いろいろなことがあり、彼はガンプの力もあって、幸せに平和に暮らせるようになります。いつしか、他を呪うということもなくなり、優しい人間になります。そんな上官の姿をガンプは見て、今、この上官は、神様と仲直りをしたのだと、言うのです。ガンプという主人公は、知的障害を持っているのですが、心はとても純真で、会う人々に感動を与えることのできる人物として描かれていました。
ある人にとっては、今述べた映画のように、和解とは、まさに、自分の人生に与えられたいろいろな苦難や試練の数々があって、それが、神様から与えられたという考えのもとに、そうすれば、それは神様と敵対したくなるようなことにもなるのですが、そうした神様との和解というようにも、捕えられるでしょう。その場合でも、ダンという男が、苦難を負うことになったのは、罪のせいだというように、罪との関係で、それらの苦難や災いについて語ることなど、もちろんできません。
パウロがいう和解とは、フォレストガンプの上官と神様との、そうした関係における和解のことを言っているのではありません。そんなことで言うなら、パウロは、多くの自然災害に遭ったり、人によって傷を負わされたり、癒しを願った持病は癒されることもありませんでした。
いろいろな苦難がありました。何よりも、このコリント教会の人々のように、あれほど愛していた信徒たちから、理解されないで、彼らの心が離れていってしまうという悲しさを体験しなればなりませんでした。
パウロが罪深かったので、そんなことが起こったわけでもありません。イエス様は、罪との因果関係で、我々に起こる苦難を説明することはしませんでした。彼が障害を負っているのは、苦難は、神様の栄光が現れるため、そういう説明のされかたをしました。そういった意味では、むしろ、パウロは、神様の務めを日夜、一生懸命果たしていたのです。
そして、そうした苦難と受け取られる出来事が、彼が伝道活動を行っていくなかでは、意気消沈させることがらにならなかったといえば嘘になるでしょう。しかし、それでもパウロは、自分の人生や神様を呪うことなどしませんでした。イエス・キリストに出会う前の自分が価値としていたものをむなしいと思うことはありましたが、キリストに出会ったことへのすばらしさを思い、喜び、キリストを語り続けていったのです。
パウロは、苦難の中にあるときも、神様によって、しっかりと支えられておりました。十字架につかれたキリストは、復活の主でもありました。パウロは、キリストに結ばれて、復活の命が自分にも溢れ出ていることを十分に感じとっていたのです。
ですから、意気消沈させられる出来事の中にあっても、耐え得たのです。自分と苦難を共にされるイエス・キリストを見出していたのです。聖書が言う和解は、キリストの十字架による和解です。そして、復活の生ける神様がわたしたちと共におられることを約束された和解です。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。キリストと結ばれ、新しく創造された者として、あふれ出る復活の命を今週も感じて歩んでいけたらと願います。キリストのために生きる、その歩みは、キリストが共に歩んでくださる歩みです。その和解の福音をどうか、今日、受け入れていただきたいと思います。
キリストのために生きる
キリスト者が幸いだと思うのは、私たちには、生きる目的がしっかりと示されているという点です。それは大筋において、そうだということです。それは、自分自身のために生きるのではなく、イエス・キリストのために生きるということです。私たちには、この示された方向性は、とてもすっきりしていて、わかりやすいと思います。
神様から与えられた人生を自分自身のために生きるのか、あるいは、キリストのために生きるのか、ということです。大筋において、この二者択一とも言える選びを私たちは迫られているように思えてなりません。そして、世の多くの人々は、キリストのために生きる道はいろいろなことに拘束され不自由で、自分自身のために生きる道は、実にのびのびでき自由だと、思うのではないでしょうか。
しかし、キリスト者である私たちは、キリストによってほんとうに自由に生きることができるようになった、と思っているはずであります。自分自身のために生きる生き方の多くは、世の価値観に向かいます。ときに、それは富を求めます。お金があれば、楽しいことがたくさんできると考えるからです。お金があれば、快適な生活が得られると考えるからです。
また、地位や名誉を求めます。地位や名誉があることは、自分が社会に認められたということですから、それはうれしいのです。また、権力をもっていれば、自分の考えでもって、ことを動かすことができますから、責任という重さはありますが、それでもまた、気分的には心地よく、おもしろいのではないでしょうか。これらの一つ一つが悪いというのではなく、それが最終の目標になることがこわいのです。
そして、その多くは、人間の欲望と深くかかわっています。しかも、世の価値観に生きることは、すべてとは言いませんが、相対的なものですから、つまり、他者との比較において、成り立つ話ですから、どこまでいってもきりがありません。それは果てしない競走であったり、闘争であったりするものです。世の価値観の中にどっぷりつかって生きる生き方は、自分自身の喜びと快適さ、快感、欲望を満たす生き方であって、他者との比較がつきまとっています。このような自分自身のために生きる生き方は、自由どころか、逆に非常に不自由なのではないでしょうか。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」と15節には、あります。キリストは、私たちの救いのために死んでくださったのですが、その救いを表現する仕方として、人が、自分自身のために生きるということは、救われる話ではなく、キリストのために生きるということこそが救われることになるのだと、言っているかのようです。
それでは、キリストのために生きるとはどういうことでしょうか。自分自身のためではなく、他者のために生きている人たちがいます。自分を犠牲にして、他者のために尽くしている人々がいます。例えば、最近の脱北者たちを助けるNPOの人々です。彼らの助けによって、飢餓や抑圧から救われた人々がいます。あるいは、ホームレス支援のNPOの人々です。
彼らは、ボランティアで人助けをしています。他者のために生きています。これらの人々は、キリストのために生きているでしょうか。弱い立場にあり、困っている人々を助けるのは、キリストのために生きるということと重なっていますから、そうしていると言えるでしょう。ですから、キリスト者でこうした運動にかかわっている人々もいます。
私たちの教会も「おにぎりの会」に協力しています。キリスト教の団体で、こうした運動を行う場合は、それはキリストに押し出されてということになるでしょう。ただし、他の運動体の動機の大部分は、キリストのために生きるというよりは、ヒューマニズムです。人道主義です。人道主義というのは、すべての人間に平等の人格を認め、人類全体の幸福の実現を理想とする主義のことを言います。これは、崇高な思想だと思います。
私たちキリスト者も、これらのボランティア活動をしている方々に学ばねばならないことがたくさんあるでしょう。しかし、私たちがキリストのために生きるというとき、その生き方は、聖書から示されねばなりません。キリストの十字架と復活から示されねばならないのです。それは、自分たちの罪や救いとの絡みがありますから、単なる人道主義的なものの考え方や見方とは違うものが、含まれているのは当然です。
それに、他者のために生きるというとき、その他者の設定自体が、イエス様が、「よきサマリア人のたとえ話」でも示されたように、イエス・キリストのさし示す他者性というのがあるのでして、やはり、そういった点でも、イエス様の視点を欠いた他者のために生きるという生き方は、あるときは、危険なものになるわけです。
戦争が含んでいる多くの矛盾、正義のため、国民のため、国民という他者のため、国のため、家族のため、といって殺人を正当化する、他人の領土を犯すこと、財産を破壊することを正当化していくわけです。多くの罪のない人々の命を奪い、人権を抑圧していきます。その中では、国のために、自分を犠牲にするという発想だって生まれてくるのです。そして、国は、これらの善良な人々の良心を利用していくことになるわけです。
私たちは、キリストのために生きるのです。キリストのために生きるという生き方が、救いへとつながっていくのです。キリストのために生きるというその生き方は、キリストに教えられ、示されています。これからも教えられ、示され続けるでしょう。
そしてまた、私たちが、礼拝を毎週守っているのも、キリストのために生きることの一つです。私たちは、ここで私の主がどなたかを証ししています。キリストが復活なさった日、週のはじめの日曜の朝に教会に来て、礼拝を奉げることがキリストへの奉仕の基本にして、最高の奉仕です。キリストのために生きている、そのことを表す最高の行為です。また、イエス・キリストを宣べ伝えるのも、キリストのために生きている証しです。
なぜ、私たちは、キリストのために生きるのでしょうか。それは、キリストが私たちのために死んでくださったからです。「一人の方が、すべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」。私たちは、そのとき死んだことになったのです。そして、復活したキリストと今結ばれて、新しい者に創造されているのです。17節の「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあるとおりのことが、この私の身にも起こったのです。
そうは言いながらも、私たちは、実際、自分のことしか考えられない弱い者です。気がつけば、自分を喜ばすことに、いつも一生懸命で、相変わらず、罪の中に生きているような者でしかありません。しかし、パウロは言うのです。「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人間の罪の責任を問うことなく」と。神様は、私たちの神様に対する背きの罪を一方的にキリストの十字架によって、赦してくださいました。
本来でしたら、滅びて当然の私たちに、神様は憐れみをかけてくださいました。その神様の憐れみ、神様の愛は、独り子の命を引き換えにするほどの、深いものでした。和解と言えば、普通は、双方の歩み寄りがなければならない事柄です。
しかし、神様が私たちに果たしてくださった和解は、一方的なものでした。悪いのは、これまた、一方的に神様に背いた私たち人間の方でありました。ローマ5:8に「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあるように、私たちは、一方的に赦されたのです。人間の罪の責任は問わない、とおっしゃってくださるのです。私たちは自分が弱い者であり、罪の中で生きていることに嘆き、後ろめたさを感じています。
しかし、私の罪を神様は問うことをなされない、キリストの十字架は、私たちを完全なる者としてくださった、嘆くことはいらない、と告げているのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。わたしたちは、和解の出来事を信じ、感謝して受け入れさえすればいいのです。
おそらく神様からの和解の迫りを受け入れた者は、人と人との関係においても、和解をなし遂げることが可能となるのでしょう。否、可能にしなければならないのです。マタイ5:23,24で「あなたがた祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」と、キリストも教えられました。まずは、神様との和解を私たちは受け入れましょう。20節で、パウロも「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と勧めています。そうすれば、その後に、人と人の和解の出来事も起こってきます。
和解という言葉を聞くと、わたしはある映画を思い出します。それは、フォレストガンプです。その中で、戦争のときに両足を失ったガンプのダンという上官が、彼は、ガンプのおかげで足を負傷したけれど、一命は取り留めることができたのですが、戦後、荒れた生活を送ります。ある日、ガンプとえび漁に出て嵐に遭うのです。上官は、その嵐の中、両足のない体で、マストの上にあがって嵐に向かって、大声でわめきちらすのです。そして、その様は、まさに今までの自分の境遇を呪い、神様と争っているというふうでした。
それから、いろいろなことがあり、彼はガンプの力もあって、幸せに平和に暮らせるようになります。いつしか、他を呪うということもなくなり、優しい人間になります。そんな上官の姿をガンプは見て、今、この上官は、神様と仲直りをしたのだと、言うのです。ガンプという主人公は、知的障害を持っているのですが、心はとても純真で、会う人々に感動を与えることのできる人物として描かれていました。
ある人にとっては、今述べた映画のように、和解とは、まさに、自分の人生に与えられたいろいろな苦難や試練の数々があって、それが、神様から与えられたという考えのもとに、そうすれば、それは神様と敵対したくなるようなことにもなるのですが、そうした神様との和解というようにも、捕えられるでしょう。その場合でも、ダンという男が、苦難を負うことになったのは、罪のせいだというように、罪との関係で、それらの苦難や災いについて語ることなど、もちろんできません。
パウロがいう和解とは、フォレストガンプの上官と神様との、そうした関係における和解のことを言っているのではありません。そんなことで言うなら、パウロは、多くの自然災害に遭ったり、人によって傷を負わされたり、癒しを願った持病は癒されることもありませんでした。
いろいろな苦難がありました。何よりも、このコリント教会の人々のように、あれほど愛していた信徒たちから、理解されないで、彼らの心が離れていってしまうという悲しさを体験しなればなりませんでした。
パウロが罪深かったので、そんなことが起こったわけでもありません。イエス様は、罪との因果関係で、我々に起こる苦難を説明することはしませんでした。彼が障害を負っているのは、苦難は、神様の栄光が現れるため、そういう説明のされかたをしました。そういった意味では、むしろ、パウロは、神様の務めを日夜、一生懸命果たしていたのです。
そして、そうした苦難と受け取られる出来事が、彼が伝道活動を行っていくなかでは、意気消沈させることがらにならなかったといえば嘘になるでしょう。しかし、それでもパウロは、自分の人生や神様を呪うことなどしませんでした。イエス・キリストに出会う前の自分が価値としていたものをむなしいと思うことはありましたが、キリストに出会ったことへのすばらしさを思い、喜び、キリストを語り続けていったのです。
パウロは、苦難の中にあるときも、神様によって、しっかりと支えられておりました。十字架につかれたキリストは、復活の主でもありました。パウロは、キリストに結ばれて、復活の命が自分にも溢れ出ていることを十分に感じとっていたのです。
ですから、意気消沈させられる出来事の中にあっても、耐え得たのです。自分と苦難を共にされるイエス・キリストを見出していたのです。聖書が言う和解は、キリストの十字架による和解です。そして、復活の生ける神様がわたしたちと共におられることを約束された和解です。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。キリストと結ばれ、新しく創造された者として、あふれ出る復活の命を今週も感じて歩んでいけたらと願います。キリストのために生きる、その歩みは、キリストが共に歩んでくださる歩みです。その和解の福音をどうか、今日、受け入れていただきたいと思います。