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平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年4月14日(召天者記念礼拝) あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

2019-06-11 17:01:45 | 2019年
ルカによる福音書 23章26節〜43節
あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

 今日は、召天者記念礼拝を守っています。当教会の召天者記念礼拝は、教会員で既に天に召された先達たちはもちろんですが、教会員のご希望で、ご自分のご家族の誰かをおぼえて欲しい方、或いは、教会員ではなかったけれども、葬儀を牧師がしたことで、今日のこの日に、一緒に故人をおぼえたい方、また、その他の理由により、とにかく、故人を一緒に偲びたい方もどうぞというのが、私たちの教会が行っている召天者記念礼拝です。それは、天国、神の国は、すべての人々に開かれていると考えるからに他なりません。
 今日は、特に、キリスト教でいうところの天国、神の国といったりもしますが、そのことについて考えてみたいと思います。おそらく、部分的なことしか言えないと思いますけれども、否、あちらこちら思いをめぐらすだけで終わってしまう、そうかもしれません。それでも一度、天国、神の国のことをこの召天者記念礼拝で、ご一緒に考えてみたいと思いました。
 でも、こうして説教の原稿を作ってみて、あまり、考えない方がいいのかもしれないと思っています。それぞれが思い描いている天国でもう十分、そういった類の事柄かもしれません。例えば、死んで復活する時には、霊の体で生まれかわり、この世のように結婚したり、そういうこともないのだと、つまり、私達がこの世で過ごしたようなことはもうない、とありますから、天国でまた、あの人この人に会いたいと思っていても、そういうことはもうないかもしれないのです。そうすると夢がありませんので、困ったなあと思うわけです。そういった意味で、あまり深くこのとことは考えない方がよいのかもしれませんね。
 さて、その故人ですが、今、どのようなところにおられるのかということですが、カトリックでは、天国と地獄がありまして、その中間に煉獄というものがあります。そして、その煉獄では、小さい罪を犯した者は、この煉獄で悔い改めれば天国に行けるということになっています。プロテスタントでは、天国と地獄しかありません。それでは、そのイメージですが、これらについては、定かではありません。地獄は、火と硫黄の池、灼熱に苦しめられ、うじが尽きず、などといったことが書かれています。天国は、文字通り天にあります。
 しかし、現代では、その天とはどこですかということになりますと、それは宇宙ということになるのでしょうか。宇宙と言えば、今もなお広がりつつあると言われたり、つい最近では、目に見える形でブラックホールを表すことに成功したというので、話題にもなっています。もう、想像の域を超えてしまっていて、天国のリアリティーについても聖書が書かれた時代から人間の認識や感覚はまったく変わってしまったのではないかとも思います。
 聖書のヨハネの黙示録では、天の国は新しい都エルサレムということで表現されています。例えば、21章22節からのところには、「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」。
 とにかく、天国は輝くばかりの白色で満ちているといった印象です。これは、目に見える風景としての天国の印象です。しかし、イエス様というお方は、いろいろなたとえを用いて、天国、神の国の話をされ、それを示されました。あるときは、裁きを伴う事柄として、あるときは、人の行為よりは、憐み深い神様の一方的な恵みとして、語られました。
 今日は、召天者記念礼拝ということもあり、来られた方々のなかには、キリスト者ではない方も幾人もおられると思いますので、天国とはどのようなところなのか、私が聖書からとらえた天国について、分かち合っていきたいと思いますが、その前に、まず、ここに出席しているキリスト者のいったい何人くらいの方々が、天国とはこのようなところだと、と答えられるかと申しますと、明確なイメージをもっている人はそう多くはいなのではないかと思います。なぜなら、聖書には、ほとんど天国とはこのようなところだといったヴィジュアルなものは、ほとんど描かれていないからです。
 お花畑が広がっているといったイメージなどもありません。強いて言えば詩編の23編に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」という言葉がありますので、ここからそのようなイメージを持つ人はいるかもしれません。しかし、それが天国とは書かれていません。
 強いて言えば、先ほど、紹介しました黙示録くらいです。21章の冒頭は「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海(当時は、海は魔物でもいるかのような、おどろおどろしいところといったイメージがありました)もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとから離れ、天から下ってくるのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
 ここには、神様と人とが共に住んでいるというさまが描かれています。また、21章の後半には、その新しい都エルサレムの町がどのようなものでできているかも書かれていて、とにかくあらゆるものが、宝石でできているといった感じです。荘厳で輝いている、しかし、それにもまして、神様の栄光が全体を輝くばかりに照らし出しているのです。さらに、22章の1節からのところには、こうあります。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を癒す」。
 これは、終末、この世が終わりになるそのときに来る新しい世界、神の国であり、ここに、既に召された者たちが憩っていると考えることもできますが、あくまでも一つの天国のイメージです。ただし、ヨハネの黙示録は、当時ローマ帝国の迫害にあっていたキリスト者たちに、その迫害に耐えるようにとのメッセージとして語られたのが、その意図であると言われています。
 ですから、その迫害に耐えよ、耐え抜いた者は、このような天国に入れるということであり、そうでない者、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだならな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、そのような者たちは、「火と硫黄の燃える池」に投げ込まれるということになると言うのです。その冒頭には、おくびょうな者、不信仰な者とありますので、ですから、勇気を出してこの迫害の厳しい状況を耐え忍べ、そのような激励の気持ちが背後にはあるのです。
 ところで、天国とは、神の国とは、ということで、一番多く語られたのはイエス様でした。イエス様は、ヴィジュアル、目に見える形で天国を解くということはありませんでしたが、色々な角度から神の国を説かれました。まずは、イエス様は公的な活動の最初にこう言われたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。イエス様、メシア、救い主がこの世に来たことで、神様の方から、救いの御手が差し伸べられたことを伝えています。
 また、マルコによる福音書4章30節では、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」、福音の最初は、いかに小さなものであっても、その福音の種がいったん蒔かれたならば、それは、とんでもなく大きく成長し、広がることを伝えています。
 そのようにして、神の国は出現し、広がっていくのです。マルコ10章15節「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。子どもは、親を頼るしかありません。そのように、神様のみを信頼し、神様にすべてのことを委ねることが、神の国に入れることの大切な条件になるというのです。ただし、その神の国が既に来ているということを臭わすような言い方もされています。
 マタイ福音書11章2節からのところですが、バプテスマのヨハネがヘロデ王に捕えられ牢獄に入れられているとき、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様のところへ遣わして、こう尋ねさせています。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。来たるべき方とは、メシア、キリスト、救い主のことです。
 それに対してイエス様は、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
 ここは、旧約聖書のイザヤ書29章の18節、19節を念頭に置いて語られていると言われていますが、まさにそのとおり、旧約聖書に預言されていることがまさに今起こっているのだということでした。このイザヤ書29章の19節には、続けて「苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る」とあります。
 ここでは、そのメシアが到来していることを暗に言っているのですが、同時に、そこには、神様の力が及んでいる、神様の支配が既に始まっていることを述べています。また、マタイ12章の28節には「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」というような言い方をされておりまして、神の国というのは、イエス様、神様の業が及んでいるところは、この世であっても、既にそこは神の国なのだ、ということを言われています。
 地獄ということについては、マルコ福音書の9章42節からところで、イエス様は、「もし片手の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方が良い」。48節には「地獄では蛆が尽きることもなく、火が消えることもない」とあります。目に見える風景としてはこの程度しか書かれていません。仏教と似ているところも結構あります。
 マタイ福音書20章には、ぶどう園の労働者のたとえ話が書かれております。「天の国は次のようにたとえられる」とありまして、ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために夜明けにでかけていきまして、一日一デナリオンの約束で、労働者を雇い、ぶどう園に送るのです。それから、9時に、12時に、そして、3時に、最後に夕方の5時にも、でかけていって労働者を雇い、ぶどう園に送ります。このとき、この5時からの男は主人から「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と聞かれ、「だれも雇ってくれないのです」と答えています。
 そうです、彼は怠けていたのではなく、雇ってくれる人がいなかったのです。そして、午後6時になって、賃金を支払うこととなり、この主人は、夕方5時から1時間しか働かなかった男から賃金を払い始めたのですが、彼は1デナリオンをもらいました。
 ところが、最初から一日中働いていた者の番となり、彼は、もっとおらえるだろうと期待していたのですが、彼もまた、1デナリオンだったというのです。それで、彼は腹を立て、主人に、自分たちはまる一日、暑い中を辛抱して働いたのに、どうして午後5時からの男と同じ扱いをするのかと訴えるのですが、主人は、あなたとも1デナリオンの約束をしたと言い、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか」と言ったのでした。
 天国は、私たちの一生懸命さによるのではなく、神様の一方的な恵みによって与えられるものであることを知らされます。そして、その一方的な恵みは、その人の人生を総合して与えられたものであって、すべての者に一応に与えられるものであるというのでしょうか。
 さて、ここからようやく今日の聖書の箇所になるのですが、今、私たちはイエス・キリストの受難を思い起こす、レント(受難節)を過ごしています。そして、今日から受難週に入りまして、4月19日の金曜日の夜、午後7時半に受難日礼拝を守ります。このルカによる福音書の23章は、イエス様が十字架におかかりになった場面です。されこうべと呼ばれている箇所で、イエス様は十字架につけられました。そのとき、二人の犯罪人がイエス様のつけられている十字架の左右に同じくつけられました。
 イエス様は、このとき、「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、ご自身を十字架につけた者たちを前にして、執り成しの祈りをされたことがわかります。それなのにそこにいた人々は、イエス様を侮辱したのです。議員たちは嘲笑い「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言い、兵士たちは、酸いぶどう酒を突き付けながら侮辱して「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と言いました。
 そして、イエス様と同じく十字架につけられている犯罪人の一人までもが、イエス様をののしって「お前は、メイアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったのでした。しかし、奇跡が起こり、イエス様が十字架から下ろされることはありませんでした。神様は沈黙なさっておられたのです。この沈黙にこそ、私たちは、神様の御意志を読み取るのです。
 ところが、そのときもうひとりの犯罪人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。そこでイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。楽園もまた、天国と同じと考えてよいかと思います。そこにあなたもわたしと共にいることになる、と。
 天国、神の国、楽園、それらをどう理解したらよいのでしょうか。それらに共通していることは、それらは皆、神様が、イエス様がわたしたちと共におられるところだということです。神様の支配が及んでいる領域です。神様が共におられる、そこが天国です。そこに、イエス・キリストを信じる私たちも生きているし、既に召された方々もまたいるのではないでしょうか。
 そして、その永遠にわたって共にいるという出来事を完全になさしめたのがイエス様の十字架だったのではないでしょうか。この十字架によって、私たちは、神様の裁きから免れ赦されて、永遠に神様と共に生きる道を備えていただいたのです。「言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。


平良牧師

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