平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年1月17日 イエス様の言われる言葉の力

2016-03-20 16:43:37 | 2016年
ヨハネによる福音書4章46~54節
イエス様の言われる言葉の力

 ヨハネによる福音書は、共観福音書とは呼ばれません。なぜなら、他の三つの福音書に共通するようなお話がでてこないからであり、むしろ、共観福音書とは違ってイエス様に対する独特な見方が述べられているからです。それでも、幾つかの物語は、似ているものがあります。このお話は、ルカとマタイの、百人隊長が自分の僕の病をイエス様に癒していただく物語と似ています。
 ヨハネでは、王(ヘロデ・アンティパスで、バプテスマのヨハネの首をはねた王)に仕える役人である父親が自分の息子の病をイエス様に自分の家まで来ていただいて癒してもらいたいといった内容になっています。状況は微妙に違っておりまして、マタイとルカでは、イエス様がカファルナウムに来たときの話であり、ヨハネでは、ガリラヤのカナに再びやってきたときの話で、父親の役人はカファルナウムからイエス様を呼びにわざわざカナまでやってきたといった内容になっています。
 そして、マタイでは、イエス様が、百人隊長から、彼の僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいるということを聞いて、イエス様自ら自分が行って癒してやろうと言われるのです。そうすると、百人隊長は、イエス様に、それは畏れ多いことだと恐縮し、我が家に来てくださらなくても言葉だけで十分です、イエス様の言葉は権威あるものの言葉だと信じますから、と言います。
 それに対して、ルカでは、百人隊長が、部下の僕が病気で死にかかっていたので、イエス様に来て癒してもらおうとユダヤ人の長老たちに願い出て、彼らを介して、カファルナウムまで来てくれるように頼むのです。しかし、イエス様一行が、部下のいる家の近くまで来たときに、百人隊長は、途中で使いの者をさしむけて、こちらに来ることまでのご足労は畏れ多いことです、言葉だけで十分ですと、言わせているのです。
 それに対して、ヨハネでは、王の役人は、はじめから最後まで、カナにいるイエス様にカファルナウムまで来てもらうことを願っています。そこまでしていただかないとだめだと思っているのです。
 そのようなこともあるのでしょうか、ヨハネではイエス様は、この王の役人である父親に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われているのです。マタイとルカには、このようなイエス様の言葉はでてきません。
 それどころか、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と、この百人隊長の信仰は賞賛されているのです。イスラエルの人々、ユダヤ人たちの信仰よりも、この異邦人であるローマの兵士、百人隊長の信仰が称賛されています。これは、同じヨハネによる福音書の4章、先週扱いましたシカルの町のヤコブの井戸で出会ったあの女性の物語の続きのところのお話とつながるところがあります。
 あの女性は、イエス様のことを町へ行きまして、「この方がメシアかもしれません」と伝えるのですが、39節「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」とありまして、サマリアの人々は、直接しるしを見たわけではないけれども、この女性の言葉によって、イエス様を信じるようになった、とあります。異邦人である百人隊長やユダヤ人と犬猿の仲にあったサマリア人が、イスラエルの人々よりも信仰深い者として描かれています。
 さて、ヨハネによる福音書の4章では、イエス様は、44節で「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われています。ところが、イエス様が、ガリラヤに戻ったとき、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とあります。なぜかと言いますと、「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」と説明がなされています。
 つまり、イエス様がなさったしるしや奇跡をすべて、祭りのときにエルサレムで見たので、イエス様を信じていたのだと、いうことのようです。それで、王の役人が息子のことで、その癒しをお願いに来たときに、イエス様はこの役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言ったのでしょう。
 こうやって、私を頼って来てはいるものの、どれほど自分のことを信用しているのか、信仰があるのか、はなはだ疑問である、あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、ほんとうには信じることができないのではないか、その程度の信仰なのではないか、そう言われているのです。
 ですから、マタイとルカに登場している百人隊長は、その信仰を賞賛されているのです。見ないでまさに、信じるそこまでの信仰をもっていたからです。直接、百人隊長の僕に会ってもらわなくても、イエス様がここで、癒しの言葉を述べてくださるだけで、それで十分ですと、百人隊長は言ったのですから。
 それも、百人隊長です。ローマの軍人ですから、ユダヤ人ではなく、ある意味では信仰なき異邦人ですが、その彼が、そのようにイエス様に対する強い信仰をもっていたということなのです。
 それに比べ、この王の役人は、イエス様に息子のところに来てもらって、直接に手をおいていただくなり、祈ってもらうなりして、癒して欲しいと思っております。
 イエス様から、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われても、見ないで信じるという強い信仰をもって、イエス様に応答することができません。
 相変わらず、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と何とかして、カファルナウムの我が家に来てもらおうと必死です。そうではありますが、イエス様このお方だったら、何とかしていただけると、信じてはいるのです。
 マタイによる福音書の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」、つまり、イエス様を求めないではおれない、その心の弱さと必死さ、その求める思いにおいて、この役人は、心の貧しい人ではありました。
 この役人の父親は、確かに、マタイとルカの百人隊長のような言葉だけで十分であるという姿勢は持ち得ておりません。それほどの、信仰はありませんでした。
 それでイエス様は、どうされたかというと、お前はちょっと信仰薄き者だから、子供は癒されることはないと言われるかと思えば、そうではないのです。この父親にも、イエス様は「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われました。
 ちなみに、「生きる」という訳は、岩波訳など見ますと「生きている」と訳されており、こちらの方がよりよいようです。いずれにしても、マタイ、ルカに登場してくるあの百人隊長の僕に対して、イエス様は、癒しの御手を差し伸べられたように、この息子に対しても、同じように、癒しのみ手を指しのべられたのでした。
 聖書には、そのときに父親も、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」とあります。ここで初めて、この父親は、イエス様の言葉を信じました。信じるしかなかった、そう言った方が正しい表現かもしれません。問題は、イエス様は、賞賛に値する信仰の篤い百人隊長のその僕も、ちょっと信仰薄き王の役人のその子どもも、同じように扱われたということです。
 それから、息子の病気が良くなった時刻が、イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われたその時刻であったことがわかり、その結果、この役人とその家族は、イエス様をこぞって信じたのでした。イエス様が言われたとおり、イエス様のなさったしるしを見て、イエス様を信じることになったということです。
 イエス様は、わたしたち人間の弱さをよくご存じです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と、信仰薄き者でしかないわたしたちのことをよくご存じなのです。しかし、それでも、イエス様に何とかしてもらいたいといった心の貧しさをイエス様はよしとされます。ガリラヤに戻って来たときに、ガリラヤの人たちが、イエス様を歓迎したのは、彼らが祭りでエルサレムへ行ったときに、そこでイエス様がなさったしるしや奇跡を見ていたからでした。
 この役人も、イエス様が言われることを最後には、信じて帰ったわけですが、実際、イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われた時刻と息子が元気になった時刻がちょうど重なっていたことを知って、それで、そのしるしゆえに、この役人も家族もこぞってイエス様を信じるようになったのでした。すべて、しるしや不思議な業によるのでした。
 しかし、それでもよい、あなたがたを愛します、というのが、今日の聖書の箇所なのではないでしょうか。もちろん、完全によいと言うのではないでしょう。ヨハネによる福音書の20章24節からのところに復活のイエス様のことを信じようとしないトマスのもとへ再びイエス様は現れて十字架上で受けた傷口をお見せする場面が描かれています。
 そこでイエス様は、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われています。
 トマスが、そのイエス様に「わたしの主、わたしの神よ」と言うと、イエス様は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われるのです。ですから、見ないで信じるというのは、信仰の本質でして、そのことをイエス様は私たちに求めておられます。
 このイエス様のお言葉からしても、百人隊長の信仰は称賛に価するのです。しかし、結果として、ヨハネに登場するこの役人とイエス様との物語では、彼の信仰がロゴス(言葉)なるイエス様の言葉の力が光輝いているのです。つまり、カナとカファルナウムという距離にあるにもかかわらず、イエス様のお言葉だけで、役人の息子は癒されたのでした。
 ヨハネによる福音書では、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は、神であった」で始まります。この言葉なる主イエス・キリストのそのお言葉を信じるかどうか、それは、ヨハネによる福音書では、とても重要なことでした。ですから、重要な問いかけとして、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というお言葉が語られているのです。
 この物語を読む私たちは、イエス様の「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というチャレンジを受けます。神様がおられるということをどのようなときに、私たちは感じるでしょうか。こうした礼拝を捧げるなかで、神様の臨在を感じるという方もおられるでしょう。ほんとうに、そのことを私も願います。
 しかし、そういった意味では、それは日常の生活のいかなる場面において神様の臨在を感じることができれば、それ以上のことはないのです。しかし、特に、それが礼拝であるのは、聖書の朗読や祈りや、また、讃美や説教、献金や祝祷といったものがあり、否が応でも、神様との対話の場面を私たちが体験しているからだということはあります。
 それから、このような礼拝で自然と醸し出される雰囲気や感覚というものもあります、それを霊的なリアリティーとして受け止めることもあるかと思います。それで、もっともっと神様を喜ぶ感覚を味わいたいといろいろなことを考え、工夫したりもします。
 しかし、皆さんもご存じのツヴィングリというスイスの説教者は、神様の純粋で超越的な霊を、人間の感覚的な世界にもたらすことは人間にはできないのだといった理由から、画像とか音楽、楽器といったものを含め、あらゆる感覚的なしるしを礼拝の中からなくそうとしたというのです。ある教派の礼拝は、沈黙と省察(自分のことをかえりみて、深く考えめぐらすこと)だけというスタイルをとっております。これもまた極端だとは思います。
 しかし、何といっても神様の臨在を感じられる、一番わかりやすい事柄は、めぐみの出来事があったときだと、多くの方々はお答えになられるのではないでしょうか。希望の学校に入学できた、希望の会社に入社できた、希望の職業に就けた、病が回復した、宝くじが当たった、困難な事柄を乗り越えることができた、などなど、それらはすべて、その人にとって喜びにつながるしるしや不思議な業なのです。そういう体験があるときに、私たちは神様の恵みを思い、神様を讃美し、臨在を感じます。
 もう一つは、直接は自分とは関係ないけれども、ありえないと思うような出来事を見たり、体験したりする場合です。それは不治の病の癒しの業もそうですが、超自然的なできごとに遭遇したといったことも含まれることでしょう。
 イエス様が言われる「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というのは、おそらく、最後の二つくらいの内容を言われているかと思います。私たちが神様を知る、ほんとうに神様を感じる、それは、神様の愛を感じるといった方がよいのかもしれませんが、しかし、それは、イエス様との人格的な交わりをいただいたときです。
 それは、十字架の出来事と復活の出来事に極まっているのですが、このように、百人隊長に比べると信仰の薄い役人へもイエス様は、その息子に癒しの業をなしてくださいました。親として、イエス様に切に求めていることに偽りはありませんでした。ひたすらに求めるという貧しい心の持ち主です。ここにイエス様との出会いが生まれています。
 そして、このあとイエス様の言われたことを信じたとあります。「あなたの息子は生きる」。このイエス様の言葉をもはや信じる以外に道はありませんでした。そして、そのとおり、イエス様が言葉を発したそのときに、それは、彼が信じる直前だったということになりますが、病が癒されるという事は成し遂げられておりました。百人隊長ほどの信仰でなくても、この役人は最後にはイエス様の言葉の力を信じ、家路につきました。
 イエス様は、いずれも憐れまれました。そして、イエス様が言葉を発したその時刻に熱が下がったことを知って、彼も家族もこぞってイエス様を信じたのです。このときの信じたという中身は、このお方がメシア、キリストであるということを信じたということです。
 イエス様が言われることを信じることと、イエス様がキリスト、救い主であることを信じることとは、今の私たちにとっては、一つのことです。その媒体に、神様からのしるしをいただいたからという人もいるでしょうし、ひたすらイエス様を求め、イエス様との人格的な出会いをいただいたから、という方もいることでしょう。いずれにしても、「あなた息子は生きる(生きている)」といったイエス様の語る言葉の力に与ったということでは同じでした。


平良 師

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