平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年1月10日 私たちの核心に触れるイエス様

2016-03-19 17:14:12 | 2016年
ヨハネによる福音書4章1~26節
私たちの核心に触れるイエス様

 普通は、ユダヤ人たちはサマリア人とは犬猿の仲にありましたから、サマリアを迂回して目的地を目指しておりました。しかし、このときは、サマリアを通ってガリラヤに行くことにしたというのです。その理由らしきことは、4章の1節から6節に記されています。
 イエス様が、ヨハネよりも多くの弟子をつくり、実際は弟子が行っていたという説明がわざわざなされていますが、洗礼(バプテスマ)を授けているといった情報が、ファリサイ派の耳に入ったということをイエス様が知ったので、それで、ユダヤを去り、再びガリラヤに行かれたのだというお話になっています。つまり、ファリサイ派と争いごとになることを避けるために、急いで、ガリラヤに直接に向かった、それで、サマリアを通ることになった、ということです。
 イエス様一行は、サマリアにあるシカルという町に来ました。弟子たちは、食料を買いに町にでかけておりました。そこには、ヤコブが掘ったという井戸がありまして、イエス様は、旅で疲れ、その井戸のところに座っておられました。誰かに水を飲ませて欲しいと考えておられたようです。そこに、ひとりの女性がやってきました。
 イエス様は、彼女に、水を飲ませて欲しいと頼みました。自分で汲んで飲めばよかったのにと思われる方もいるかと思いますが、当時は、井戸はあってもロープとかその先端についているバケツなどといったものは、ついておりませんで、それらは各自で持参しなければなりませんでした。それで、イエス様は、誰かが井戸に水汲みに来て、そのタイミングで飲ませてもらうしかありませんでした。
 サマリアの女性は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と言いました。サマリア人とユダヤ人は、身なりとか、言葉のなまりなどから、すぐにその違いが分かったのでしょう。日頃、サマリアを避けて通るほどに、ユダヤ人は自分たちを嫌い、互いに軽蔑している中で、互いが交流するなど考えもしないのに、虫がよすぎませんか、というわけです。
 そこでイエス様は、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と言われました。生きた水というのは、聖霊というように考えられています。しかし、この時点では、女性には言っている意味がよくわかりません。わかるのは、この人が、何か自分を偉い者でもあるかのように言っていることでした。そこで、
 女性は、「主よ、あなたはくむ物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供も家畜も、この井戸から飲んだのです」。女性は、イエス様のことを主とは呼んでいるものの、内容的にはあなたがいかほどの方は存じませんが、ヤコブは、少なくともわたしたちのために井戸を掘ってくれました。
 そして、自分でこの井戸を利用しました。あなたは、偉そうに言っていますが、水一杯の飲めずにいるのですよ、それに私たちに対して何ほどのことができるのですか、と皮肉めいた響きがあります。イエス様は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。
 イエス様ははっきりと普通の人間の生理的な渇きをいやす水とイエス様が人間の魂にお与えになる霊的な水を区別されて、その違いを述べられました。女性は、少し、そのことがわかってきたようでありましたが、まだ、十分ではありません。それで「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と言ったのです。
 女性は、喉の渇きを癒す、人間の体に生理的、物理的に必要な水といった概念から離れることができません。ちなみに、シカルの町とヤコブの井戸の間は、1.5キロくらいの距離があるということです。もう、こんな距離を歩いて水を運んでいくのは嫌です。そうしなくてもいいようにしてください、といった願いは当然あったでしょう。
 この物語を理解するのが、ちょっと難しいのは、このように話が進んできて、突然のようにしてイエス様が「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」というところです。それまでイエス様は、このサマリアの女と、ヤコブの井戸で、水をめぐり信仰問答らしきことをされていたのです。
 イエス様が、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われたときに、彼女が、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と懇願しました。そのときに、夫をつれて来なさい、とイエス様は言われたのでした。
 どうして、彼女の懇願の返答が、「夫をここに呼んで来なさい」ということになるのでしょうか。ここらが、実は、この物語を読み解くポイントになるかと思います。これは、私たち信仰する者のありよう、あるいは、キリスト教と他の宗教の大きな違いが述べられているところだと考えてよいかと思います。
 結論から言いますと、ほんとうにイエス様と出会おうと私たちはしているのかということなのです。つまり、自分の深いところの苦悩や隠している暗い部分をイエス様に開け放そうとしているのか、ということです。
 女性は、正午ごろに水汲みに来ていたということです。あの砂漠のような土地で、正午ごろに1.5キロの距離を歩いて、重い水運びをするなど考えられないことでした。しかし、彼女にはそうせざるを得ない理由がありました。おそらく、水運びなどは、もっぱら女性の仕事であったでしょうから、当然、しのぎやすい時間帯には、多くの女性たちが水汲みにきて、そこで、女性たちは井戸のまわりに集まって、それこそ井戸端会議なるものが始まります。
 そして、自分の家族のことや、人のうわさ話などに花が咲くこともあったでしょう。彼女は、そのような場には顔を出したくありません。まさに、話題の人になりかねない人物だったからです。それで、誰もこの時間帯ならば来ないであろう正午というとても暑いときに水汲みに来ていたのでした。色々な意味で、彼女は、水汲みなどとてもしたくなかったに違いありません。噂話に花が咲く、その場所を考えただけでも、どうかなりそうだったのはないでしょうか。
 イエス様の「行って、夫をここに呼んできなさい」との言葉に、女性は、「わたしには夫はいません」と答えました。女性には、それこそ、我にふっと立ち帰り、何でそのようなことを初対面のあなたから言われる必要がありますか、といった気持ちだったでしょう。
 そこで、イエス様は「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」と彼女のある意味では秘密を暴露したのでした。イエス様も直截な方です。まわりくどい言い方をしません。そのものずばりを指摘されます。5人の夫がいたというのは、彼女のこれまでの不幸な結婚生活を意味していました。それらの夫は、死に別れた者もいたでしょうし、離婚ということになってしまった相手もいたことでしょう。
 しかし、当時のことですから、離婚の成立は、男性に都合のいいようにできておりました。決して同等の立場で話し合って離婚ということになったのではなかったのです。一方的でした。それでも、この女性は、誰かの庇護を受けないと生活していけなかったのだと思われます。
 それで、気がつけば5人の男性と結婚ということになっておりました。彼女の何かが悪かったとか、浮気性だったとか、そのような話は一言も書かれていません。彼女はそれどころか、まじめな働き者であったかもしれません、しかし、どういうわけか、色々な点において、これまでは夫に恵まれなかった、それだけのことだったのかもしれません。そして、幾人かの夫からは、一方的に離婚というしうちをうけた、ということでした。
 しかし、今の6人目の男性とは、正式な結婚ということにはなっていなかったのでした。少なくとも、そのことは当時の社会通念では、不道徳と思われていたことでしょう。ですから、彼女は、誰もその時間帯には暑くて水汲みなど来ないであろう正午ごろに人目を避けて来ていたのでした。
 イエス様は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と女性が言ったときに、是非、そうしてあげたいと思われたことでしょう。ヨハネによる福音書の7章の37節、38節の今日の招詞には、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とありますから。
 しかし、イエス様は、その前に、彼女自身が、真実にイエス様と向き合うことが大切だとお考えになられました。イエス様は、彼女の一番触れられたくない核心の部分に触れられたのでした。そこは、この女性の一番の魂の渇きがある場所でした。癒していただかねばならない、潤していただかなければならないところでした。
 女性は、はじめ物理的にこの永遠の命に至る水の話を受け止めたようです。イエス様は、それは信仰的な意味での水のお話、聖霊のお話をされたのでした。魂の渇きが潤されるそのところのお話でした。
 しかし、それは、彼女がこれまで抱えてきた結婚生活、夫たちとの関係の問題など、孤独で精神的な痛みと深く関わっている事柄を棚上げにして、話を続けるのは無意味なことになるとイエス様は判断されたのではないでしょうか。イエス様は、彼女の人生の核心に触れざるをえませんでした。
 イエス様こそが、私たちの深い痛みをご存じです。それをイエス様に告白し、神様どうしてなのですかと問い、あなたはどうしてそういうことをしたのかと問われる中で、真実の出会いも生まれます。
 一番、触れられたくない部分をイエス様が知っておられるというのは、何と幸せなことではないでしょうか。誰に知られるよりも安心です。それにもかかわらず、その重要な部分、自分にとって一般的には公にしたくはないこと、不利益を被るであろうと予測されること、暗く隠しておきたいことなど、それらは自分にはないかのようにして、イエス様と向き合うのは、それが信仰問答というとても大切なお話の内容であったとしても、それは所詮表面的な話にしかなりません。
 イエス様との出会いは、真実にはないのも同じです。キリスト教が他の宗教と違うのは、このような人格的な出会いがイエス様とは私たちにも起こるということなのです。これを抜きにしてキリスト者は、イエス様に真底従っていくことはできないでしょう。
 このあと、この女性は、次第にイエス様がいったい何者なのか、そこに近づいていきます。自分のことを言い当てられたことで、預言者だと見なし、それから、最後には、キリスト(メシア)かもといったところまで、行き着きます。そして、ついに、イエス様の口から「それは、あなたと話しているこのわたしである」という告白までいただくことになりました。
 女性は、自分たちはサマリア人であって、あなたがたユダヤ人とは違う、私たちはこの山(ゲリジム山)で礼拝を捧げてきた、あなたがたは、エルサレムが礼拝すべき場所だと言っていると語り、彼女は、今、自分たちとこのユダヤ人とは違うのだけれど、でもと、イエス様との距離を何とかつめようとしていました。それに対して、イエス様は、「この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と述べられました。神様は、霊と真理をもって神様を礼拝する者たちを求めておられる、と言われました。つまり、場所はどこでもよろしい、問題は、礼拝する者たちが、霊と真理をもって神様を礼拝しているか、ということなのだと、いうことでした。
 彼女は、イエス様のことをどれほど理解したのでしょうか。彼女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言いました。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と。あまり理解しているとは言えません。
 しかし、自分のことをこの方は知っていた、ということは彼女にとって、ただならぬことでありました。この方は、自分のこれまでの、あのこともこのことも、すべてをご存じなのだと悟りました。この方は、私のことを理解してくださっているのだと、思ったことでしょう。そして、この方がご自分のことを言われたように、この人はメシアであるかもしれない、と思いました。
 そして、結局、これまで悶々としていた自分から解き放たれ、彼女本来の姿を取り戻しているのです。水がめをそこに置いたまま、とは、もう、ここに人目を忍んで水汲みにくる必要などなくなった、まさに、自分の中に永遠の命に至る水が湧き出た瞬間でありました。
 イエス様との真実の出会いは、私たちを解放へと導きます。そのためには、こちらの努力も必要です。その努力は、正直な思いをイエス様にぶつけること、告白することです。そのときに、イエス様から赦しと慰めをいただくことができます。大いなる癒しをいただくことにもなるでしょう。
 そして、そのときに、真実のイエス様との出会いがおこり、聖霊で私たちは満たされる、わたしたちの内に、永遠に至る命の水がわきでることになるでしょう。そして、同時に、この女性がそうであったように、この方のことを告白しないではおれない気持ちにさせられていくのです。
 この年も真実な出会いをイエス様と求めて、歩んでまいりましょう。イエス様は、いつも、私たちの核心に触れられるお方です。


平良 師

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