神戸新聞
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2006/05/12
小中学生を対象にした大掛かりな全国学力テストが二〇〇七年度から実施される。
文部科学省によれば、対象は小学六年と中学三年の全員で、国語と算数(数学)の二教科に絞って行う。
全国学力テストは、一九五〇年代から六〇年代にかけて行われたことがあるが、学校間競争が過熱し、批判が高まったことから中止された。近年は、数年に一回程度、地域や学校を一部抽出する形で実施し、学校ごとの結果分析なども控えている。
最近、学力低下を指摘する声が高まってきた。要因として「ゆとり教育」をやり玉に挙げる向きもある。今回、文科省は学習到達度の把握を目的に全国テスト復活を決めた。しかし、学校間競争や序列化の懸念から反対論も多く、愛知県犬山市のように不参加を表明する自治体も現れている。
先ごろ文科省の専門家会議がまとめた報告では、国が行う結果公表は、都道府県単位にとどめるとされた。無用な学校間競争などを避けるためには当然の配慮だ。
ただ、市町村や学校が自ら結果を公表することは「それぞれの判断に委ねる」としている。これでは、国がレールを敷いておいて、最終責任を地方に丸投げすることにならないか。
全員対象の学力調査の必要性についても疑問が残る。学習上の問題点や課題傾向を把握するなら、すでに国が実施している抽出方式で十分だし、児童・生徒それぞれのつまずき解消なら、学校ごとの試験やクラス内指導にこそ力を入れるべきだろう。
自治体レベルでの学力調査が、さまざまな形で実施されていることも忘れてはなるまい。兵庫県教委は昨年度、文科省が実施した学力テストと同じ問題を使って全県基礎学力調査を実施した。神戸市を除く公立の小学五、六年と中学一、二年から、受験者を抽出して行った。学校単位の結果公表は控え、地域間などの要素で分析した。
このように、既存のテストで十分に対応できる。強制力を伴う全国テストは教育現場の負担も大きい。国が多額の費用をかけてまで行う意味がどれほどあるだろう。
犬山市の不参加理由にも傾聴すべき点が多々ある。地方分権の時代に国が押し付ける「○×式」の画一的な試験は受け入れがたいという。「自ら学ぶ力」をはぐくむ教育を掲げ、小人数学級を推進して注目された犬山方式の精神に反するともいう。
全国一律のテストは、またぞろ「知育偏重」「試験至上主義」を助長しかねないのではないか。屋上屋を架すようなテストの実施には、さらに熟考が必要だ。
社説(2006年5月19日朝刊)沖縄タイムス
[全国学力テスト]
序列化の懸念が消えない
かつて競争の過熱が問題となった全国学力テストが四十数年ぶりに復活する。
前文部科学相が「競争意識を持たせよう」と提起したのがきっかけで、同省の専門家会議が審議を重ねてきた。背景にあるのは学力低下批判だ。
来年四月実施が明らかになったテストは小学六年と中学三年の全員を対象とし、国語と算数(数学)の二教科で学力を測る。結果の公表は都道府県単位にとどめるが、市町村や学校が自らの判断で公表することは拒まない。
専門家会議は、その目的を国の教育施策の検証と教育委員会、学校の指導改善としている。子どもの学習の到達度を把握することで、教育施策の改善に結び付けるほか、学校が自校を評価する際、指標の一つにしたい考えだ。
すべての子どもに確かな学力を保障することが教育の役割であり、つまずきを知るためのデータとしてテストが有用であることは否定しない。
しかし競争をあおる懸念が消えない。
四十年余り前、全国の中学で実施されたテストは、試験当日に成績の悪い生徒を休ませるなど、過度の競争という「負の遺産」を残した。
当時と比べ、学校や教師に対する視線が厳しい今、保護者が結果の公表を求めるのは必至だ。学校選択制が広がる中、その結果が学校選びに反映されるのは自然の流れである。さらに数字が独り歩きすれば、地域や学校のランク付けにつながる恐れもある。
教育施策の検証が、必ずしも全員対象の調査である必要はなく、既に実施しているサンプル調査で十分ではないか。子どもの学習到達度の把握も、日々の指導の中で行われるべきものだ。
競争により活気が出て意欲が高まればいいが、点数至上主義への逆戻りは意欲を削ぐことになりかねない。
テストで測定できるのは、子どもの力のほんの一部にすぎない。表現力や思考力、生きる力といった、測りにくいが必要な力にこそ関心を向けるべきだ。
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2006/05/12
小中学生を対象にした大掛かりな全国学力テストが二〇〇七年度から実施される。
文部科学省によれば、対象は小学六年と中学三年の全員で、国語と算数(数学)の二教科に絞って行う。
全国学力テストは、一九五〇年代から六〇年代にかけて行われたことがあるが、学校間競争が過熱し、批判が高まったことから中止された。近年は、数年に一回程度、地域や学校を一部抽出する形で実施し、学校ごとの結果分析なども控えている。
最近、学力低下を指摘する声が高まってきた。要因として「ゆとり教育」をやり玉に挙げる向きもある。今回、文科省は学習到達度の把握を目的に全国テスト復活を決めた。しかし、学校間競争や序列化の懸念から反対論も多く、愛知県犬山市のように不参加を表明する自治体も現れている。
先ごろ文科省の専門家会議がまとめた報告では、国が行う結果公表は、都道府県単位にとどめるとされた。無用な学校間競争などを避けるためには当然の配慮だ。
ただ、市町村や学校が自ら結果を公表することは「それぞれの判断に委ねる」としている。これでは、国がレールを敷いておいて、最終責任を地方に丸投げすることにならないか。
全員対象の学力調査の必要性についても疑問が残る。学習上の問題点や課題傾向を把握するなら、すでに国が実施している抽出方式で十分だし、児童・生徒それぞれのつまずき解消なら、学校ごとの試験やクラス内指導にこそ力を入れるべきだろう。
自治体レベルでの学力調査が、さまざまな形で実施されていることも忘れてはなるまい。兵庫県教委は昨年度、文科省が実施した学力テストと同じ問題を使って全県基礎学力調査を実施した。神戸市を除く公立の小学五、六年と中学一、二年から、受験者を抽出して行った。学校単位の結果公表は控え、地域間などの要素で分析した。
このように、既存のテストで十分に対応できる。強制力を伴う全国テストは教育現場の負担も大きい。国が多額の費用をかけてまで行う意味がどれほどあるだろう。
犬山市の不参加理由にも傾聴すべき点が多々ある。地方分権の時代に国が押し付ける「○×式」の画一的な試験は受け入れがたいという。「自ら学ぶ力」をはぐくむ教育を掲げ、小人数学級を推進して注目された犬山方式の精神に反するともいう。
全国一律のテストは、またぞろ「知育偏重」「試験至上主義」を助長しかねないのではないか。屋上屋を架すようなテストの実施には、さらに熟考が必要だ。
社説(2006年5月19日朝刊)沖縄タイムス
[全国学力テスト]
序列化の懸念が消えない
かつて競争の過熱が問題となった全国学力テストが四十数年ぶりに復活する。
前文部科学相が「競争意識を持たせよう」と提起したのがきっかけで、同省の専門家会議が審議を重ねてきた。背景にあるのは学力低下批判だ。
来年四月実施が明らかになったテストは小学六年と中学三年の全員を対象とし、国語と算数(数学)の二教科で学力を測る。結果の公表は都道府県単位にとどめるが、市町村や学校が自らの判断で公表することは拒まない。
専門家会議は、その目的を国の教育施策の検証と教育委員会、学校の指導改善としている。子どもの学習の到達度を把握することで、教育施策の改善に結び付けるほか、学校が自校を評価する際、指標の一つにしたい考えだ。
すべての子どもに確かな学力を保障することが教育の役割であり、つまずきを知るためのデータとしてテストが有用であることは否定しない。
しかし競争をあおる懸念が消えない。
四十年余り前、全国の中学で実施されたテストは、試験当日に成績の悪い生徒を休ませるなど、過度の競争という「負の遺産」を残した。
当時と比べ、学校や教師に対する視線が厳しい今、保護者が結果の公表を求めるのは必至だ。学校選択制が広がる中、その結果が学校選びに反映されるのは自然の流れである。さらに数字が独り歩きすれば、地域や学校のランク付けにつながる恐れもある。
教育施策の検証が、必ずしも全員対象の調査である必要はなく、既に実施しているサンプル調査で十分ではないか。子どもの学習到達度の把握も、日々の指導の中で行われるべきものだ。
競争により活気が出て意欲が高まればいいが、点数至上主義への逆戻りは意欲を削ぐことになりかねない。
テストで測定できるのは、子どもの力のほんの一部にすぎない。表現力や思考力、生きる力といった、測りにくいが必要な力にこそ関心を向けるべきだ。