※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4-2)(153-154頁)
(29)-3 「中世カトリック教」の意識(or「中世カトリック教会」)の3つの段階(3):「現実意識の自己否定」の段階!「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」、「免罪」、「神とのやわらぎ」!「中世のアセティスィズム」があって初めて「近世的な理性」が生まれる!
★「中世カトリック教」の(2)「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)
(29)-3-2 「中世カトリック教」の「禁欲主義(アセティスィズム)」が「個別性の否定」即「普遍性の定立」ということによって「絶対者(神)とのやわらぎ」を得させる:「現実意識の自己否定」の段階(続)!
★ここでヘーゲルは「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」を生かそうとする。(153頁)
☆ヘーゲルは「アセティスィズム」が「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」ことについて述べる。(153頁)
☆「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」は(a)「労働」によって獲得した所有物を投げすて「喜捨」し「寄進」する(※「個別性の否定」)のみならず、(b)なにごとについても「教会」に相談し(※「普遍性の定立」)、その指示を仰ぎ、(a)-2 「自分では決定せず」、即ち「自分の意志を放棄」し、したがって「自己のすべてを放棄する」が(※「個別性の否定」)、(c)これは「単なる否定」にとどまるのではなく、「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」。(※これこそ「中世カトリック教」の意識の3つの段階(3):「現実意識の自己否定」の段階だ!)(153頁)
★「中世カトリック教」において、「絶対者とのやわらぎ」が「免罪」Ablassというかたちであらわれてくる。(153頁)
☆「免罪」はがんらい「懺悔」contritio および「告白」confessio と結びついたものだ。(153頁)
☆なにか「罪」を犯したときには、悔恨し「懺悔」しなくてはならないが、これをさらに「僧侶」に告白することが要求される。(153頁)
☆このとき「僧侶」はそれぞれの「罪」に応じて「祈り」とか「喜捨」とか「巡礼」とか(「※「禁欲主義」の「禁欲」の諸内容に相当する)を課す。これらを果たすことによって「免罪」absolutio が宣告される。(153-154頁)
☆ヘーゲルはこの「免罪」ということを生かして一般に、「禁欲」を通じて「罪」が赦され「神とのやわらぎ」が成立するという意味に用いる。(154頁)
(29)-3-3 かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する:「現実意識の自己否定」の段階(続々)!
★むろん「免罪」を行うものは「教会」・「神」である。「免罪」は、「天」からくるものであって「自分」でうるものではない。したがって充実した権能をもつのは「教会」や「神」であって、「信者」ではない。(154頁)
☆しかし「教会」や「神」が充実した権能をもつのは、「個別者」が「帰依」するからだ。例えば「信者」が「喜捨」するからこそ立派な「寺院」(「教会」)も建つ。(154頁)
☆かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する。(154頁)
☆これはちょうど「奴隷」が「主人」の権力がおそろしさに、ろくろく眠ることも食うこともせずに、ひたすら「主人」に「奉仕」し「労働」することによってかえって「自由」を得るのと同じことだ。(154頁)
《参考1》「無限性」が「人格」間に支配しているときは、まさにヘーゲルの「相互承認」の関係が生じている。いいかえると「自己意識」と「他の自己意識」の関係は「相互承認」という意味の「無限性」を必要とする。(138頁)
☆しかし、これは「自己意識」と「自己意識」の間の理想であり、あるべきものであって、このような「相互承認」という関係が、いまただちに実現されるのではなく、その実現はB「自己意識の自由」において初めて一応成り立つ。(138頁)
☆そこでまず最初に問題となるのは「主と奴」という関係だ。(138頁)
《参考2-1》「奴」の方が自己の「無限性」・「真の自由」を実現する!「奴が主となり」つまり「主奴の関係は逆転する」! (140頁)
☆「奴」が「権力のおそろしさのため主を尊敬している」といっても、「尊敬するかしないか」はやはり「奴」の自由だ。(140頁)
☆したがって「主」は「独立的のもので、なにものにも依存していない」ようであっても、じつは「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」。(140頁)
☆「主人として承認するや否や」は、けっきょくは「奴の自由意志」によっている。(140頁)
☆この点からいうと、「奴よりむしろ主の方が奴隷的である」、つまり「主」は「奴の奴隷的であるよりさらに奴隷的である」といえる。(140頁)
《参考2-2》「主もかえって奴に依存している」、いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」!(141頁)
☆このことを理論的にいうと、「主人」は「精神的無限性ないし普遍性」を実現し、「奴」は「欲望」にとらわれて「個別性」にとどまっている。(141頁)
☆ところがじつは「主人」も支配される方の「奴」の「個別性」に依存している。(141頁)
☆そこで「奴が主に依存する」と同様に、「主もかえって奴に依存している」。いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」。(141頁)
《参考2-3》ヘーゲルは「自由」を「奴」の方から説こうとする!むしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
☆かかる理由(「主もかえって奴に依存している」or「主は奴になり、奴は主になる」)から、ヘーゲルは「自由」をむしろ「奴」の方から説こうとする。(141頁)
☆これについて、ヘーゲルは①「畏怖」と②「奉仕」と③「形成」との3点をあげる。(141頁)
①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
☆これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)
☆「奴隷」はがんらい「生命」に執着したものだが、しかし「おそれとおののき」(「畏怖」)のうちにあることによって、その執着を震駭(シンガイ)(Cf. 侵害)されている。(141頁)
☆「奴隷」は「主人」が恐ろしい(「畏怖」)から服従して、「飲み食い眠るという欲望」さえおさえているが、この服従はかえって「個別性への執着」をたちきるものだ。(141頁)
②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
☆「畏怖」(「主人」をおそれる)(「権力によって殺される」という「死」の「絶対的な恐怖」)(「おそれとおののき」)だけではまだ内面的主観的だ。この「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」が「奉仕」だ。「奉仕」によって、「食いたい眠りたい」という具体的の(※主観的な)「欲望」を「現実的に客観的に」のりこえている。(141頁)
③「形成」(「労働」)(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
☆「奉仕」もまだ「個別的断片的」であり、また「自分の身にそくしたもの」であるという意味で「主観的」だ。これがもっと「客観的」にあらわれたものが「形成」(「労働」)だ。(141-142頁)
☆「主人」は「対自存在」であり、「享楽」においてあり、「無限性」を実現している。(142頁)
☆しかし「主人」の「享楽」は消えていく。しかるに「奴隷」はせっせと働き、他物に働きかけてこれを「形成」してゆくことによって、自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換してゆく。(※「労働」or「労働」の対象化!)(142頁)
《参考2-4》「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」!「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」は消えてゆく!
③(続)したがって「対象的、客体的なもの」(②「奉仕」)に依存して「奴」であったものも、せっせと「労働すること」(③「形成」)によって、かえって「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」。(142頁)
☆つまりいろいろの「技能や知識」が得られ、これによって「対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信」、即ち「無限性」が生まれてくる。(142頁)
☆この「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」はあとかたもなく消えてゆく。(142頁)
《参考2-5》「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
☆しかし③「単なる『労働』と『形成』」とではだめで、やはり①「畏怖」(「奴隷」は「主人」をおそれる)と②「奉仕」(「畏怖」のそとに客観的にあらわれ実証されたもの)が必要で、ことに「絶対的な主人である死の恐怖」(①「畏怖」)があることが必要で、これによりあらゆる「個別的のものへの執着」をたちきり、「自己の無限性や普遍性」を実現してゆくことができる。(142頁)
☆そこで「奴隷」は単なる「我欲」にとらわれず、「普遍的、客観的にものを考える力」をもつようになるから、「無限性の概念」をうる。(142頁)
☆これに対して、「主人」の「無限性」は「享楽」におけるものだから「存続」できないし、また「享楽」の「個別性」にとらわれている。(142頁)
☆かくてむしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となる」、つまり「主奴の関係は逆転する」!(142頁)
☆「奴」の方が自己の「無限性」を、つまり「真の自由」を実現する。「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」。(142頁)
(29)-3-4 「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ!
★「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
★この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
★この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
★それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
(29)-3-5 (A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!
★このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた。(142頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4-2)(153-154頁)
(29)-3 「中世カトリック教」の意識(or「中世カトリック教会」)の3つの段階(3):「現実意識の自己否定」の段階!「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」、「免罪」、「神とのやわらぎ」!「中世のアセティスィズム」があって初めて「近世的な理性」が生まれる!
★「中世カトリック教」の(2)「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)
(29)-3-2 「中世カトリック教」の「禁欲主義(アセティスィズム)」が「個別性の否定」即「普遍性の定立」ということによって「絶対者(神)とのやわらぎ」を得させる:「現実意識の自己否定」の段階(続)!
★ここでヘーゲルは「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」を生かそうとする。(153頁)
☆ヘーゲルは「アセティスィズム」が「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」ことについて述べる。(153頁)
☆「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」は(a)「労働」によって獲得した所有物を投げすて「喜捨」し「寄進」する(※「個別性の否定」)のみならず、(b)なにごとについても「教会」に相談し(※「普遍性の定立」)、その指示を仰ぎ、(a)-2 「自分では決定せず」、即ち「自分の意志を放棄」し、したがって「自己のすべてを放棄する」が(※「個別性の否定」)、(c)これは「単なる否定」にとどまるのではなく、「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」。(※これこそ「中世カトリック教」の意識の3つの段階(3):「現実意識の自己否定」の段階だ!)(153頁)
★「中世カトリック教」において、「絶対者とのやわらぎ」が「免罪」Ablassというかたちであらわれてくる。(153頁)
☆「免罪」はがんらい「懺悔」contritio および「告白」confessio と結びついたものだ。(153頁)
☆なにか「罪」を犯したときには、悔恨し「懺悔」しなくてはならないが、これをさらに「僧侶」に告白することが要求される。(153頁)
☆このとき「僧侶」はそれぞれの「罪」に応じて「祈り」とか「喜捨」とか「巡礼」とか(「※「禁欲主義」の「禁欲」の諸内容に相当する)を課す。これらを果たすことによって「免罪」absolutio が宣告される。(153-154頁)
☆ヘーゲルはこの「免罪」ということを生かして一般に、「禁欲」を通じて「罪」が赦され「神とのやわらぎ」が成立するという意味に用いる。(154頁)
(29)-3-3 かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する:「現実意識の自己否定」の段階(続々)!
★むろん「免罪」を行うものは「教会」・「神」である。「免罪」は、「天」からくるものであって「自分」でうるものではない。したがって充実した権能をもつのは「教会」や「神」であって、「信者」ではない。(154頁)
☆しかし「教会」や「神」が充実した権能をもつのは、「個別者」が「帰依」するからだ。例えば「信者」が「喜捨」するからこそ立派な「寺院」(「教会」)も建つ。(154頁)
☆かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する。(154頁)
☆これはちょうど「奴隷」が「主人」の権力がおそろしさに、ろくろく眠ることも食うこともせずに、ひたすら「主人」に「奉仕」し「労働」することによってかえって「自由」を得るのと同じことだ。(154頁)
《参考1》「無限性」が「人格」間に支配しているときは、まさにヘーゲルの「相互承認」の関係が生じている。いいかえると「自己意識」と「他の自己意識」の関係は「相互承認」という意味の「無限性」を必要とする。(138頁)
☆しかし、これは「自己意識」と「自己意識」の間の理想であり、あるべきものであって、このような「相互承認」という関係が、いまただちに実現されるのではなく、その実現はB「自己意識の自由」において初めて一応成り立つ。(138頁)
☆そこでまず最初に問題となるのは「主と奴」という関係だ。(138頁)
《参考2-1》「奴」の方が自己の「無限性」・「真の自由」を実現する!「奴が主となり」つまり「主奴の関係は逆転する」! (140頁)
☆「奴」が「権力のおそろしさのため主を尊敬している」といっても、「尊敬するかしないか」はやはり「奴」の自由だ。(140頁)
☆したがって「主」は「独立的のもので、なにものにも依存していない」ようであっても、じつは「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」。(140頁)
☆「主人として承認するや否や」は、けっきょくは「奴の自由意志」によっている。(140頁)
☆この点からいうと、「奴よりむしろ主の方が奴隷的である」、つまり「主」は「奴の奴隷的であるよりさらに奴隷的である」といえる。(140頁)
《参考2-2》「主もかえって奴に依存している」、いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」!(141頁)
☆このことを理論的にいうと、「主人」は「精神的無限性ないし普遍性」を実現し、「奴」は「欲望」にとらわれて「個別性」にとどまっている。(141頁)
☆ところがじつは「主人」も支配される方の「奴」の「個別性」に依存している。(141頁)
☆そこで「奴が主に依存する」と同様に、「主もかえって奴に依存している」。いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」。(141頁)
《参考2-3》ヘーゲルは「自由」を「奴」の方から説こうとする!むしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
☆かかる理由(「主もかえって奴に依存している」or「主は奴になり、奴は主になる」)から、ヘーゲルは「自由」をむしろ「奴」の方から説こうとする。(141頁)
☆これについて、ヘーゲルは①「畏怖」と②「奉仕」と③「形成」との3点をあげる。(141頁)
①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
☆これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)
☆「奴隷」はがんらい「生命」に執着したものだが、しかし「おそれとおののき」(「畏怖」)のうちにあることによって、その執着を震駭(シンガイ)(Cf. 侵害)されている。(141頁)
☆「奴隷」は「主人」が恐ろしい(「畏怖」)から服従して、「飲み食い眠るという欲望」さえおさえているが、この服従はかえって「個別性への執着」をたちきるものだ。(141頁)
②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
☆「畏怖」(「主人」をおそれる)(「権力によって殺される」という「死」の「絶対的な恐怖」)(「おそれとおののき」)だけではまだ内面的主観的だ。この「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」が「奉仕」だ。「奉仕」によって、「食いたい眠りたい」という具体的の(※主観的な)「欲望」を「現実的に客観的に」のりこえている。(141頁)
③「形成」(「労働」)(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
☆「奉仕」もまだ「個別的断片的」であり、また「自分の身にそくしたもの」であるという意味で「主観的」だ。これがもっと「客観的」にあらわれたものが「形成」(「労働」)だ。(141-142頁)
☆「主人」は「対自存在」であり、「享楽」においてあり、「無限性」を実現している。(142頁)
☆しかし「主人」の「享楽」は消えていく。しかるに「奴隷」はせっせと働き、他物に働きかけてこれを「形成」してゆくことによって、自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換してゆく。(※「労働」or「労働」の対象化!)(142頁)
《参考2-4》「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」!「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」は消えてゆく!
③(続)したがって「対象的、客体的なもの」(②「奉仕」)に依存して「奴」であったものも、せっせと「労働すること」(③「形成」)によって、かえって「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」。(142頁)
☆つまりいろいろの「技能や知識」が得られ、これによって「対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信」、即ち「無限性」が生まれてくる。(142頁)
☆この「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」はあとかたもなく消えてゆく。(142頁)
《参考2-5》「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
☆しかし③「単なる『労働』と『形成』」とではだめで、やはり①「畏怖」(「奴隷」は「主人」をおそれる)と②「奉仕」(「畏怖」のそとに客観的にあらわれ実証されたもの)が必要で、ことに「絶対的な主人である死の恐怖」(①「畏怖」)があることが必要で、これによりあらゆる「個別的のものへの執着」をたちきり、「自己の無限性や普遍性」を実現してゆくことができる。(142頁)
☆そこで「奴隷」は単なる「我欲」にとらわれず、「普遍的、客観的にものを考える力」をもつようになるから、「無限性の概念」をうる。(142頁)
☆これに対して、「主人」の「無限性」は「享楽」におけるものだから「存続」できないし、また「享楽」の「個別性」にとらわれている。(142頁)
☆かくてむしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となる」、つまり「主奴の関係は逆転する」!(142頁)
☆「奴」の方が自己の「無限性」を、つまり「真の自由」を実現する。「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」。(142頁)
(29)-3-4 「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ!
★「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
★この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
★この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
★それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
(29)-3-5 (A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!
★このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた。(142頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」