※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)
第3章「哲学と信仰と」(その1)
(16)教授職を辞す(386年、アウグスティヌス32歳):ミラノ近郊のカッシキアクムでの哲学的共同生活!
(a) アウグスティヌスは386年(32歳)夏、「キリスト教への回心」の後、帝都ミラノの公立修辞学学校教授の職を辞する。彼は誠心誠意、神に仕える生活に入りたいと決心した。(60頁)
(a)-2 当然、彼と「良家の息女」との「婚約」も破棄となった。アウグスティヌスはキリスト教に回心したことで、もはや「名誉と利得と結婚」のすべてを放棄することに心は定まっていた。(60-61頁)
(b) 彼は、かつて試みて頓挫した「哲学仲間たちとの共同生活」を模索する。ミラノの裕福な親しい友人ウェレクンドゥスがミラノ近郊のカッシキアクムの別荘を提供してくれた。(食事の世話をする使用人、速記者、原稿清書者も提供してくれた。)(61頁)
(b)-2 386年(32歳)の秋から冬にかけて、アウグスティヌスはカッシキアクムの別荘で家族や弟子たちと哲学的共同生活(農作業と哲学談義の日々)を過ごした。メンバーはアウグスティヌス、母モニカ、弟、息子アデオダトゥス、2人の従兄、そして弟子たちだった。(61-62頁)
(b)-3 この共同生活はかつてプラトンが主宰した哲学者たちの学園アカデメイアのような生活であった。(62頁)
(b)-4 カッシキアクムでの哲学談義には母モニカも参加している。母モニカは信仰に篤いキリスト教徒であるとともに、「知恵としての神」を愛する本当の意味での哲学者にほかならないと『告白』では特筆されている。(63頁)
(16)-2 「カッシクアキム対話篇」:『アカデミア派駁論』『至福の生』『秩序』『ソリロキア』の4篇!
(c) カッシクアキムでの哲学的共同生活における談義(386年・32歳の秋から冬)の内容はアウグスティヌスの「カッシクアキム対話篇」として公刊されている。それは『アカデミア派駁論』『至福の生』『秩序』『ソリロキア』の4篇からなる。(63-65頁)
(d) 『アカデミア派駁論』はキケロ(前106-前43)『アカデミカ』の懐疑派的な主張「知者は何物にも同意してはならず、すべて不確実である」について検討する。「人間は真理に到達できるのか」、また「真理に到達できずにただ真理を求めてさまようだけで幸福なのか」という問題が討議される。(65頁)
(e) 『至福の生』は、幸福についての哲学的考察であり、「神を完全に認識することがなければ、人間の至福の生は存在しない」との結論に至る。(65頁)
(f) 『秩序』という著作は、アウグスティヌスの終生変らぬ関心事であった「美と秩序」の問題を扱う。①「自分に立ち返った魂こそが宇宙の美が何であるかを理解する。」②「自らを知るためには人間は感覚から身を引き、精神そのものに集中して自分自身に立ち戻るという習慣を身に付けることが必要」である。③日々の煩わしさで受けた傷は「孤独と自由学芸の学習によってのみ癒される」。③-2「自由学芸」とはギリシア・ローマの伝統的な教養科目で文法学・修辞学・弁証論・音楽・天文学・幾何学・数論の7科目からなる。③-3 アウグスティヌスはこれらの素養が哲学の基礎となり人間を幸福へ導くと考えていた。③-3アウグスティヌスにとってこうした「学問」は「物体的なものの研究を通じて非物体的なものに至る」階梯である。(66頁)
(g) 『ソリロキア』(独白)は「理性と私」の自己内対話形式の作品で、祈りのうちに「神(デウス)と魂(アニマ)を知りたい」と願い、その両者の本質が何であるかが探究されている。(67頁)
(g)-2 ただしこの時期の「魂(アニマ)」の考察はギリシア哲学の文脈を顧慮した修辞学学校的な方法に終始した。(67頁)
(g)-3 アウグスティヌスが本当に解明したかったのは「人の子よ、いつまで重い心でいるのか」(『詩編』4篇3節)というときの「心」であった。自らの経験と付き合わせてテクストを読解し、これを内的に理解する方法が熟する『告白』(全13巻)(400年・46歳)ができるまでには、まだしばらくの時が必要だった。(67頁)
第3章「哲学と信仰と」(その1)
(16)教授職を辞す(386年、アウグスティヌス32歳):ミラノ近郊のカッシキアクムでの哲学的共同生活!
(a) アウグスティヌスは386年(32歳)夏、「キリスト教への回心」の後、帝都ミラノの公立修辞学学校教授の職を辞する。彼は誠心誠意、神に仕える生活に入りたいと決心した。(60頁)
(a)-2 当然、彼と「良家の息女」との「婚約」も破棄となった。アウグスティヌスはキリスト教に回心したことで、もはや「名誉と利得と結婚」のすべてを放棄することに心は定まっていた。(60-61頁)
(b) 彼は、かつて試みて頓挫した「哲学仲間たちとの共同生活」を模索する。ミラノの裕福な親しい友人ウェレクンドゥスがミラノ近郊のカッシキアクムの別荘を提供してくれた。(食事の世話をする使用人、速記者、原稿清書者も提供してくれた。)(61頁)
(b)-2 386年(32歳)の秋から冬にかけて、アウグスティヌスはカッシキアクムの別荘で家族や弟子たちと哲学的共同生活(農作業と哲学談義の日々)を過ごした。メンバーはアウグスティヌス、母モニカ、弟、息子アデオダトゥス、2人の従兄、そして弟子たちだった。(61-62頁)
(b)-3 この共同生活はかつてプラトンが主宰した哲学者たちの学園アカデメイアのような生活であった。(62頁)
(b)-4 カッシキアクムでの哲学談義には母モニカも参加している。母モニカは信仰に篤いキリスト教徒であるとともに、「知恵としての神」を愛する本当の意味での哲学者にほかならないと『告白』では特筆されている。(63頁)
(16)-2 「カッシクアキム対話篇」:『アカデミア派駁論』『至福の生』『秩序』『ソリロキア』の4篇!
(c) カッシクアキムでの哲学的共同生活における談義(386年・32歳の秋から冬)の内容はアウグスティヌスの「カッシクアキム対話篇」として公刊されている。それは『アカデミア派駁論』『至福の生』『秩序』『ソリロキア』の4篇からなる。(63-65頁)
(d) 『アカデミア派駁論』はキケロ(前106-前43)『アカデミカ』の懐疑派的な主張「知者は何物にも同意してはならず、すべて不確実である」について検討する。「人間は真理に到達できるのか」、また「真理に到達できずにただ真理を求めてさまようだけで幸福なのか」という問題が討議される。(65頁)
(e) 『至福の生』は、幸福についての哲学的考察であり、「神を完全に認識することがなければ、人間の至福の生は存在しない」との結論に至る。(65頁)
(f) 『秩序』という著作は、アウグスティヌスの終生変らぬ関心事であった「美と秩序」の問題を扱う。①「自分に立ち返った魂こそが宇宙の美が何であるかを理解する。」②「自らを知るためには人間は感覚から身を引き、精神そのものに集中して自分自身に立ち戻るという習慣を身に付けることが必要」である。③日々の煩わしさで受けた傷は「孤独と自由学芸の学習によってのみ癒される」。③-2「自由学芸」とはギリシア・ローマの伝統的な教養科目で文法学・修辞学・弁証論・音楽・天文学・幾何学・数論の7科目からなる。③-3 アウグスティヌスはこれらの素養が哲学の基礎となり人間を幸福へ導くと考えていた。③-3アウグスティヌスにとってこうした「学問」は「物体的なものの研究を通じて非物体的なものに至る」階梯である。(66頁)
(g) 『ソリロキア』(独白)は「理性と私」の自己内対話形式の作品で、祈りのうちに「神(デウス)と魂(アニマ)を知りたい」と願い、その両者の本質が何であるかが探究されている。(67頁)
(g)-2 ただしこの時期の「魂(アニマ)」の考察はギリシア哲学の文脈を顧慮した修辞学学校的な方法に終始した。(67頁)
(g)-3 アウグスティヌスが本当に解明したかったのは「人の子よ、いつまで重い心でいるのか」(『詩編』4篇3節)というときの「心」であった。自らの経験と付き合わせてテクストを読解し、これを内的に理解する方法が熟する『告白』(全13巻)(400年・46歳)ができるまでには、まだしばらくの時が必要だった。(67頁)