宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

清水真木(1968-)『忘れられた哲学者:土田杏村(キョウソン)と文化への問い』中公新書、2013年:理想主義・象徴主義・文化主義! 

2018-08-15 10:19:48 | Weblog
第1章 1920年代の思想と「文化」概念
A 土田杏村(1891-1934)西田幾太郎(キタロウ)に師事。1920年ごろ文化主義を提唱。1929年プロレタリア運動隆盛期には、反マルクス主義の立場。晩年は国家主義への傾斜。20年間に61点の著作。
A-2 1920年代ドイツのKurtur(文化)概念の重視。ディルタイ、ジンメル、新カント主義等の影響を受ける。
A-3 大正デモクラシーとともに「文化」という言葉が使われるようになった。Ex. 文化生活、文化住宅。
A-4 「文化価値の実現を努める主張を文化主義と言ふ。・・・・・・没価値的な生活理想論を指して自然主義と言ふ。」(土田杏村)
A-5 土田杏村は、新カント主義西南ドイツ学派ヴィンデルバント、リッカート、ラスクなどの影響を受け、自然と文化を対立させる。
B 1924年の著作で土田杏村は国民生活を「国家社会主義的」「国家資本主義的」に統一せよと述べる。(48頁)
C 土田が留保なしに高く評価するのは、ディルタイだけだ。(49頁)

《感想》1920年代、つまり昭和4年(1929年)までは、まだ大正デモクラシーの余韻の時代だ。世界恐慌以後、1930年代、日本の政治は狂い、軍主導の独善的強権的な時代となり、日本は破滅した。


第2章 土田杏村が残したもの
D 土田の著作の多くは時代に即応したものだったので、時代の変化とともに、読まれなくなった。彼は「一種のジャーナリスト」とされた。
E また土田の著作活動を支える哲学的・思想的文脈が忘れられた。『土田杏村全集』15巻から、彼の著作の哲学的前提だった『象徴の哲学』が排除された。務台理作の判断による。「土田の思想のアルキメデスの点」(82頁)は象徴主義だ。
E-2 土田杏村は「大正教養主義」に共感しなかった。私的な悩みへの感傷的な露出に抵抗した。(99頁)かくて和辻哲郎(1889-1960)とはメンタリティが合わない。(102頁)

《感想》土田杏村が内向きな「大正教養主義」に共感しなかったことは、彼が外向きで政治的・経済的・社会的問題について多く発言したこと(ジャーナリスト的!)と等価だ。


第3章 『象徴の哲学』(1919年)を読み解く
(1)象徴主義:「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」
F 田中喜一(王堂)(1868-1932)によれば象徴主義とは「瞬間の中に永遠を観ようとする」ことだ。
F-2 土田杏村は象徴主義を「一を以て多を表現しようとする」立場、あるいは「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」とする立場だと言う。
F-3 土田杏村によれば、認識は、本質的に象徴主義的である。
《感想》瞬間の中に永遠を観る立場、あるいは個々の体験の中には全宇宙の意義が映っているとする立場とは、象徴主義はなんと魅力的だろう!

(2)神秘主義
G 土田の象徴主義は、哲学史上、「神秘主義」と呼ばれた立場の一つだ。
G-2 神秘主義の最初のまとまった表現が、紀元後3世紀ギリシアの「新プラトン主義」だ。代表がプロティノス(205-270)。プラトンに神秘主義の起源を求める。
G-3 神秘主義は①真理は本質的に「隠された」ものだとする。また②「隠された」真理は合理的・「悟性的」思考では明きらかにされないとする。

《感想1》
「永遠」あるいは「全宇宙の意義」を一挙にとらえようとすると、理性を超える「永遠」あるいは「全宇宙の意義」との「合一」しかない。つまり神秘主義だ。
《感想2》
しかし「永遠」をイデア的意味ととらえれば、認識はそれ自身すでに「永遠」の認識だ。また「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」(土田杏村)のでなく、《我々の個々の体験が、すでに宇宙そのものだ》と言うべきだ。(Cf. ライプニッツのモナド)

(2)-2 プロティノスの「流出説」(神秘主義)
H プロティノスは「一者」(ト・ヘン)が万物の根源であり、一者以外のすべて(次の②③④⑤)が、一者から「流出」(プロホドス)したと説明する。「流出説」!
H-2 世界は上下の関係の5つの階層からなる。上から順に①「一者」(ト・ヘン)、②「知性」(ヌース)、③「心(魂)」(プシュケー)、④「自然」(ピュシス)、⑤「質料」(ヒュレー)
H-3 「心」は「叡智的世界」(①②)と「可視的世界」(④⑤)の境界だ。
H-4 存在するものはすべて、「完全性」をめざす。つまり自らの根源である「一者」に「帰還」(エピストロペー)しようとする。
H-5 人間の場合、帰還の道とは、感覚(④⑤)の影響を排除し、心(③)を知性の段階(①②)へ上昇させる努力の道だ。
I プロティノスの新プラトン主義は、一者との神秘的な「合一」により人間は救済されると主張する。かくて「一者」が「神」に置き換えられ、プロティノスの新プラトン主義は、初期キリスト教神学に取り入れられる。それは、アリストテレスとともに、初期キリスト教神学を支えた。

《感想》初期キリスト教神学の枠組をなすのは、新プラトン主義の「一者」の「神」概念への読み替えだ。アリストテレスは、この枠組みを前提に、その精緻化に役立ったと言える。

(2)-3 (ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す!(ⅱ)「一者」(神)そのものは、特定の「何ものか」ではない!
J 存在する全てのものが「一者」から「流出」したのなら、(ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す。(116-117頁)
K と同時に、(ⅱ)「一者」(神)そのものは、特定の「何ものか」ではない。
K-2 「神とは・・・・である」と言えない。神は、《特定の「何ものか」ではないもの》と、否定的にしか語りえない。(「否定神学」)神は合理的思考の彼方の矛盾に満ちたものだ。かくて神は、計算・推論など理性でとらえられず、神秘的で非合理的な直観(Ex. 「合一」体験)によってのみとらえうる。

《感想1》
(ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す。この場合、個体と別に、全世界(宇宙)があるのではない。先に指摘したように、《我々の個々の体験が、すでに宇宙そのものだ》と言うべきだ。(Cf. ライプニッツのモナド)
《感想2》
(ⅱ)「一者」(神)そのものは、特定の「何ものか」ではないとは、どういうことか?「永遠」をイデア的意味ととらえれば、認識はそれ自身すでに「永遠」のイデア的意味(「一者」あるいは神に属す)の把握だ。要するに、認識されるの「永遠」のイデア的意味(「一者」あるいは神に属す)は、認識されるヒュレーとしての特定の「何ものか」(これはイデア的意味でなく質料的ヒュレーだ)ではない。

(3)ライプニッツのモナド論(モナドロジー):土田杏村の象徴主義と並行的だが、土田自身の言及はない!
L ライプニッツは、上述の「(ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す!」の側面を強調する。世界を構成する個体(※モナド)の一つひとつは、全世界をそれぞれ異なる仕方で「真なるもの」として「表象」する。
L-2 ライプニッツは、実在するものを指し示すために、新プラトン主義に由来する「モナド」の名を用いる。
L-3 モナドの基本的な機能は、全世界の「表象」と完全性への傾向(「欲求」)だ。
L-4  モナドには各々、世界の表象の「判明」(distinkt)の程度の差異がある。
L-5 なおライプニッツのモナド論(モナドロジー)は、土田杏村の象徴主義と並行的だが、土田自身のライプニッツへの言及はない!

《感想1》モナドは世界そのものだ、つまり「真なるもの」だ。世界の映像でない。モナドと別に「真なる」世界があるわけでない。
《感想2》(a)モナドは「真なるもの」で世界そのものだが、「全」世界でない。その意味で、モナドは全世界の「表象」だ。(b)かくて他方でモナドは「全」世界を求める欲求、つまり「完全性への傾向」(「欲求」)を持つ。

(4)『華厳経』:一つの珠が他のすべての珠を映す「一即多」「多即一」の華厳の哲理!
N 土田杏村は、『象徴の哲学』について、象徴主義の考えの基底には仏教の哲理、「華厳の哲理」が潜んでいるという。
N-2 紀元後4世紀頃成立した大乗仏教の経典『華厳経』に「インドラ(帝釈天)の網」(因陀羅網(インダラモウ))
の比喩がある。網の結び目の一つひとつが珠になっており、一つの珠が他のすべての珠を映す。「一即多」「多即一」の華厳の哲理は、ライプニッツの立場でもある。

《感想1》
上述したように、土田杏村は象徴主義を「一を以て多を表現しようとする」立場、あるいは「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」とする立場だと言う。これは、確かにライプニッツの立場であり、「華厳の哲理」の立場だ。
《感想2》
さらに土田杏村は、《認識は、本質的に象徴主義的である》と言う。認識は、イデア的意味の認識であり、イデア的意味は「永遠」である。そしてイデア的意味は、言葉によって指示される巨大な全体である。かくて認識は、ヒュレー(質料)の内に「永遠」のイデア的意味の世界の《全体》(言葉によって指示される巨大な世界全体)を見る。

(5)土田杏村の象徴主義と現象学との交差(その1)「志向的体験」の:意識の作用(意識の志向性)は情意作用あるいは価値命題に収束する! or人間の行為は、すべて意図(あるいは感情)に支えられている!
O 土田は「意識とその対象は一つの同じものの二つの側面だ」という。つまり「作用としての意識」の二つの形態にすぎない。
O-2 土田は、フッサール(『論理学研究』)から「志向的体験」(intentionales Erlebnis)と「充実作用」(Erfüllung)の概念を借用する。
O-3 土田によれば意識の志向性(「志向的体験」)という意識の作用は、(a)表象作用、(b)判断作用、(c)情意作用からなる。これら三つは、充実作用の場面で、その都度あらかじめ統合されている。
(a)表象作用(表象(意味)の形成):何かに対し存在性格(「ある」という性格)(意味)を与える意識作用。Ex. 何か白ぽいもの(対象)をウサギ(意味)として把握する。
(b)判断作用(事態(意味)の形成):出来事についての把握、つまり「事実命題」(意味)の形成。Ex. ウサギ(対象)が跳ねている(意味)。
(c)情意作用(価値(意味)の形成):出来事について価値を見いだし、価値判断すること。つまり「価値命題」(意味)(Ex. あそこで跳ねているウサギはかわいい)の形成。Ex. ウサギが跳ねているという出来事(対象)に、価値(意味)(「かわいさ」)を見出す。
O-4 土田はすべての意識の作用は、情意作用へ収束する、したがってすべての文(言明)は価値命題である。かくて事実命題は、短縮された価値命題にすぎない。
P 「私」とは、私の意識の対象に、私が与える意味の集合だ。(132頁)

《感想1》
事実命題は、《事実のみ見よう》という意図(あるいは感情)に支えられている。要するに、土田杏村は、《人間の行為は、すべて意図(あるいは感情)に支えられている》とするのだ。例えば、理性とは《理性的であろうとする意図(あるいは感情)》のことだ。
《感想2》
意図(あるいは感情)に収束する志向的体験が作り出す意味の総体が、「私」なるものの内実だ。

(5)-2 土田杏村の象徴主義と現象学との交差(その2)「要求体験」(リップス):対象が意識に対し自らの真理を開示するプロセス(「志向的体験」を対象の方から既述したもの)!&フッサールの「充実作用」!
Q 「志向的体験」は、意識する私から対象へ向けられるものだ。
Q-2 これに対し「要求体験」は、対象から意識する私に向けられたものだ。対象が私に対し何かを要求する。すべての《文》はこの要求に対する応答だ。(テオドーア・リップス)
Q-3 「要求体験」とは、対象が意識に対し自らの真理を開示するプロセスだ。
R フッサール的に言えば、意味志向(※対象を意味として把握すること)は何らかの対象と関係づけられているが、「空虚」(つまり対象と意識の作用との関係が不安定)であって、両者に安定した関係を設定することが、「充実作用」(空虚な意味志向を、対象によって、充実する作用)だ。
R-2 意味志向は、何らかの対象と関係づけられているが「空虚」な意味(対象との関係で言えば記号)を、次々に置き換えていくことでもある。(137頁)

《感想1》
「要求体験」(リップス)は、「志向的体験」という意識の作用を、対象の方から既述したものであって、「志向的体験」と別に「要求体験」があるわけでない。
《感想2》
「要求体験」(リップス)は、フッサールが「志向的体験」における「充実作用」と呼んだものだ。

(5)-3 「志向的体験」:一方で私の意識が世界を映し出すとともに、他方で意識の対象となるモノやコトの一つひとつが世界を映し出す!
S 「志向的体験」において、一方で私の意識が世界を映し出すとともに、他方で意識の対象となるモノやコトの一つひとつが世界を映し出す。
S-2 意識の作用に対応する言語表現について言えば、一方で私の意識における言語世界が現実の世界を映し出す。(※正確には現実の世界は意味=言語としてしか把握できない。ただし言語は《指示される意味》と《記号としての意味》に分節される。)他方で一つひとつの語と文のうちに世界全体が表現される。

《感想1》
一方で私の意識が世界を映し出す。土田は、「個々の体験の中には全宇宙の意義が映っている」という。(※ただし、正確には、実は個々の体験が、それ自身、宇宙《そのものだ》ということだ。)
《感想2》
他方、意識の対象となるモノやコトの一つひとつが、世界を映し出すとは、一つひとつモノやコトが《世界地平》を伴うということだ。あるいは、また、一つひとつの語と文のうちに世界全体が表現されるとは、一つひとつの語と文が《世界地平》を伴うということだ。
《感想3》
かくて土田杏村は『象徴の哲学』において、象徴主義、つまり瞬間の中に永遠を観る立場、あるいは個々の体験の中には全宇宙の意義が映っているとする立場を、哲学的に基礎づけた。

(6)象徴主義:「有限において無限をあこがれる」!
T 土田杏村は、象徴主義は「有限において無限をあこがれる」ことだと言う。(140頁)
T-2 これはまた、「或る有限に於いて他の或る有限をあこがれる」ことでもある。つまり「詞(コトバ)は所思の正面でない。それは詞の殺した一面だ。」「一つの詞の決定が、かくしてそれと全く反対の意味を喚び生かすことが富士谷御杖(フジタニミツエ)(1768-1824)の所謂『倒語』なのだ。」(土田杏村)

《感想》「有限において無限をあこがれる」とは、人間の《白鳥の歌》だ。君は無限にあこがれて、滅びるのだ。(※白鳥は死の直前、美しく鳴くという言い伝えが、ドイツにある。)


第4章 文化への問い:社会集団の「共同目的」である文化価値の一つひとつが、他のすべての文化価値をモナド的に表現する⁉
U 土田杏村は、それぞれの社会集団の「共同目的」として機能する文化価値の一つひとつが、他のすべての文化価値をモナド的に表現すると言う。(198頁)
U-2 土田の文化主義は、社会というものを一種の織物として、文化価値の「因陀羅網(インダラモウ)」というものをして記述する。(200頁)

《感想》土田杏村は、人間社会が相互に連関すること、ここの社会集団が目指すもの(文化価値)は他の諸々の社会集団の連関の内にあり、あるいはむしろ他の諸々の社会集団の文化価値をきわだたせると考える。


第5章 地位のプラグマティズムから文明批評へ:「万人共通の真理」実現への貢献度で、それぞれの社会集団の「共同目的」についてプラグマティックに価値評価するという土田の理想主義!
V 「人間社会には万人共通の真理などいふものは存在しない」という「相対主義」もある。「それぞれの考へ方は、それぞれの地位に対してのものだ」という立場だ。しかし「万人共通の真理」が「極限概念」としてあると信じたい。これが土田杏村の「理想主義」だ。彼は、理想主義に立つと述べる。(208-10頁)
V-2 この理想主義は、私たちの個別の努力が「万人共通の真理」なるものの実現に貢献しているに違いないとの想定のことだ。価値評価をめぐるプラグマティックな態度としての理想主義。「万人共通の真理」実現への貢献度で、それぞれの社会集団の「共同目的」について価値評価する。(209頁)
V-3 土田杏村の理想主義は、特定の美的、道徳的価値を真理=理想とみなし、これを追求する理想主義でない。(209頁)

《感想》
土田杏村の膨大な文明批評は次のような観点に立つ。
①「万人共通の真理」が「極限概念」として存在するとの「理想主義」に基づきつつ、
①-2「万人共通の真理」実現への貢献度から、事象を評価するプラグマティックなものだ。
②しかも彼は、文明批評にあたって、それぞれの社会集団の「共同目的」として機能する文化価値の一つひとつが、他のすべての文化価値をモナド的に表現するという「象徴主義」の立場に立つ。
③そして土田杏村は、「文化主義」の立場に立つ。すなわち彼は「文化価値の実現を努める主張を文化主義と言ふ。・・・・・・没価値的な生活理想論を指して自然主義と言ふ」と述べる。
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