※ハイデガー(1889-1976)『存在と時間』(1927)「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第6章 時間性と、通俗的時間概念の根源としての内時性」「第80節 配慮される時間と内時性」(その2)
(5)公開された時間は、《・・・・すべき時》の連関として「世界時間」である!(414頁)
F 「公開された時間は、このような(※《・・・・するによい時》とか《・・・・するによくない時》とか)《・・・・のためにある》という連関によって、われわれがまえに有意義性として見ておいた構造をあらわにしている。この構造は、世界の世界性を構成するものである。」(414頁)
F-2 「公開された時間は、《・・・・すべき時》として、本質上、世界的性格をそなえている。」(414頁)
F-3 「時間性の時熟において公開される時間」が「世界時間」(Weltzeit)である。(414頁)
《感想5》ハイデガーは言う。「世界の世界性としての有意義性」とは「道具立て全体」に含まれる「指示連関の全体性」のことである。(第18節)
《感想5-2》要するに「世界時間」は《客観的な》宇宙時間でなく、人間(現存在)の《・・・・するため》と結びついた《人間(現存在)的な》時間だ。
(5)-2 「《未開的な》現存在」と「《発達した》現存在」における時計!
G 「《未開的な》現存在」と異なり「《発達した》現存在は、時間を確かめるさいに、太陽とその高さをわざわざ直接に眺めることを必要としない」。(415頁)
G-2 「《未開的な》現存在」も、「影」の「長さ」と「位置」を測る「日時計」では、すでに「空をみて直接に時を知るということからすでに独立している」。(416頁)
(6)「時計を用いて《何時か》を確かめる」とは、「本質上、《今と言うこと》だ」!
H 「日時計」や「懐中時計」から「時間」を読み取る。だが「時間は、いったいどこにあるのであろうか」。(416頁)
H-2「時間を読みとるというのは、どういうことなのであろうか。」(416頁)
H-3 「時計を用いて《何時か》を確かめる」とは、「本質上、《今と言うこと》だ。」Ex.《いまは何時だ。いまは・・・・する時だ》(416頁)
H-4 「《今》がいつもすでに日付け可能性、緊張性、公開性および世界性というゆたかな構造的様相において了解され解意されている」が、このようなことは「あらためて意識されずにいる」。(416頁)
(6)-2 時計において時間は・・・・あたかも《今の多数性》であるかのような形で眼にふれる!
I 「時間測定において遂行される時間の公開にあっては、時間はそのつどいつでも何びとにとっても《いま、そしていま、そしていま》という単調な形で出会う」。(417頁)
I-2 「こうして時計において《一般に》接することのできる時間は・・・・あたかも《現実に存在する今の多数性》であるかのような形で眼にふれる。」(417頁)
I-3 「日付け」(※時間測定)は「《空間的な》客体的存在者」(※例えば時計の文字盤の目盛)をもとにする。(418頁)
I-4 「時間測定においては、尺度を獲得することに気をうばわれて、測定される当のもの(※時間)はいわば忘れ去られている。」(418頁)
《感想6》時計の文字盤は「時間を空間化する」ように見えるが、そうではない。この場合、「時間を読みとるというのは、どういうことか」、「時間とは何か」との問いが忘れられている。
(5)公開された時間は、《・・・・すべき時》の連関として「世界時間」である!(414頁)
F 「公開された時間は、このような(※《・・・・するによい時》とか《・・・・するによくない時》とか)《・・・・のためにある》という連関によって、われわれがまえに有意義性として見ておいた構造をあらわにしている。この構造は、世界の世界性を構成するものである。」(414頁)
F-2 「公開された時間は、《・・・・すべき時》として、本質上、世界的性格をそなえている。」(414頁)
F-3 「時間性の時熟において公開される時間」が「世界時間」(Weltzeit)である。(414頁)
《感想5》ハイデガーは言う。「世界の世界性としての有意義性」とは「道具立て全体」に含まれる「指示連関の全体性」のことである。(第18節)
《感想5-2》要するに「世界時間」は《客観的な》宇宙時間でなく、人間(現存在)の《・・・・するため》と結びついた《人間(現存在)的な》時間だ。
(5)-2 「《未開的な》現存在」と「《発達した》現存在」における時計!
G 「《未開的な》現存在」と異なり「《発達した》現存在は、時間を確かめるさいに、太陽とその高さをわざわざ直接に眺めることを必要としない」。(415頁)
G-2 「《未開的な》現存在」も、「影」の「長さ」と「位置」を測る「日時計」では、すでに「空をみて直接に時を知るということからすでに独立している」。(416頁)
(6)「時計を用いて《何時か》を確かめる」とは、「本質上、《今と言うこと》だ」!
H 「日時計」や「懐中時計」から「時間」を読み取る。だが「時間は、いったいどこにあるのであろうか」。(416頁)
H-2「時間を読みとるというのは、どういうことなのであろうか。」(416頁)
H-3 「時計を用いて《何時か》を確かめる」とは、「本質上、《今と言うこと》だ。」Ex.《いまは何時だ。いまは・・・・する時だ》(416頁)
H-4 「《今》がいつもすでに日付け可能性、緊張性、公開性および世界性というゆたかな構造的様相において了解され解意されている」が、このようなことは「あらためて意識されずにいる」。(416頁)
(6)-2 時計において時間は・・・・あたかも《今の多数性》であるかのような形で眼にふれる!
I 「時間測定において遂行される時間の公開にあっては、時間はそのつどいつでも何びとにとっても《いま、そしていま、そしていま》という単調な形で出会う」。(417頁)
I-2 「こうして時計において《一般に》接することのできる時間は・・・・あたかも《現実に存在する今の多数性》であるかのような形で眼にふれる。」(417頁)
I-3 「日付け」(※時間測定)は「《空間的な》客体的存在者」(※例えば時計の文字盤の目盛)をもとにする。(418頁)
I-4 「時間測定においては、尺度を獲得することに気をうばわれて、測定される当のもの(※時間)はいわば忘れ去られている。」(418頁)
《感想6》時計の文字盤は「時間を空間化する」ように見えるが、そうではない。この場合、「時間を読みとるというのは、どういうことか」、「時間とは何か」との問いが忘れられている。