宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

中西進『古代史で楽しむ万葉集』「四 壬申の乱」:天智崩御(671)!壬申の乱(672)!天武天皇(673-686)と飛鳥浄御原宮!大津皇子事件(686)!

2021-07-28 14:23:14 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(4)大友皇子(天智の子)と「皇太弟」大海人皇子の対立!671年天智崩御!(65-67頁)
D 天智の弟、大海人皇子は天智の即位(668年)以来、実質的な皇太子と見られていた。(万葉集には「皇太弟」という表現がある。)しかし671年、天智はわが子大友皇子を太政大臣に任命した。大友を首脳とする新政治体制を発足させた。大友皇子は風骨が世間並みでない優れた「人物」だった。天智は次の天皇の地位を、大友に与えるつもりだった。(65-66頁)
D-2  大海人は身の危険を感じ出家し、仏道修行と称して吉野に去った。(66頁)
D-2-2  その年、671年12月、天智は崩じた。

(4)-2 壬申の乱(672):近江朝大友皇子(弘文天皇)が「皇太弟」大海人皇子に敗れる!(67-71頁)
D-3 天智の死後、近江朝では大友を主上として新しい政治が出発した。(日本書紀は大友の即位を認めないが、明治政府は弘文天皇と諡号オクリナした。)大友は大海人攻撃を準備した。それを知った大海人は672年6月、大友に対する戦いを決意する。舎人(大海人に仕えた地方豪族の子弟)に美濃での蜂起を命じ、また諸国の国司にも蜂起を命じた。(67頁)
D-3-2 大海人側の東国の動員が着々とすすんだ。近江朝(大友側)は混乱し、諸国の軍兵動員もうまくいかなかった。例えば、吉備国の兵も大宰府の兵も動員に応じなかった。(68頁)
D-3-3 激戦1か月の後、近江朝は惨敗し、敗走した大友は首をくくって死んだ。

(4)-3 大海人は673年、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位した!
D-4  大海人は673年、飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)で天武天皇(位673-686)として即位した。(72頁)
D-4-2  壬申の乱は、少数の側近「舎人」の力を原動力として勝ち取られた。(73頁)
D-4-3  天武は天皇親政の立場をとり、豪族の首長を首脳部に入れなかった。天皇中心の官僚機構における軍備を強化し、豪族の力の削減を狙った。また地方豪族の子弟で才能ある者は官吏に任用した。(74頁)
D-4-4  天武は浄御原令(キヨミハラリョウ)の編纂を681年に命じ、その死後、689年、持統(終始天武の政治をたすけた鵜野讃良ウノノサララ皇后)の代に完成した。(75頁)

(4)-4 天武天皇が679年、吉野宮に行幸した際の歌!(75-76頁)
D-5 万葉集には天武の作として、吉野を尊厳化するとともに機知に富んだ歌がある。(76頁)
「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」(巻1、27)
よい人が、よき所としてよく見て、「よし(の)」と言った(or名づけた)。この吉野をよく見るがいい。(その昔)よい人がよく見た地だ。
D-5-2  この歌は天武天皇が679年、吉野宮に行幸した際の歌だ。天武は、草壁・大津・高市(タケチ)・忍壁(オサカベ)の4皇子と、天智の遺児である川島・志貴(シキ)の2皇子、計6皇子に異心のないことを、また争いせずお互いに助け合うことを盟約させた。天武にとって吉野は生なましい記憶の地だった。(76頁)
《参考》万葉集では「《淑》人乃 《良》跡《吉》見而 《好》常言師 《芳》野《吉》見与 《良》人《四》来三」と漢字で書かれ、六種類の「よし」が記されている。「よし」の繰り返しには、自らの出発点となった吉野の地と自らの治世を言祝(コトホ)ぐ意図があったと考えられる。(『県民だより奈良』平成31年1月号)

(4)-5 実子の草壁を天皇として即位させたい鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)は、大津皇子に「謀反」の罪をかぶせ処刑した!(76-84頁)
D-6  686年天武天皇が亡くなった。天武の死後、次に天皇となるべきは鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)との間の子、草壁皇太子のはずだった。ところが一歳年下の大津皇子(母は天智天皇皇女の大田皇女)は文武両道に勝れ人望があった。草壁(662-689)を天皇として即位させたい鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)は、大津皇子に「謀反」の罪をかぶせ処刑した。天武死後20日余りのことだった。だがその3年後、草壁も689年、病死した。(27歳)(76-82頁)
D-6-2  大津皇子(663-686)(オオツノミコ)が自らの死(23歳)を悼む歌が、万葉集に載っている。(83頁)
「ももづたふ 磐余(イハレ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(クモガク)りなむ」(巻3、416)
(百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去るのだろうか。)※磐余(桜井市)には大津皇子の宮があった。
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