宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

勝田至編『日本葬制史』一「原始社会の葬送と墓制」、吉川弘文館、2012年

2017-12-18 09:33:06 | Weblog
勝田至編『日本葬制史』一「原始社会の葬送と墓制」、吉川弘文館、2012年

はじめに 葬送と墓制の歴史をどうとらえるか(1頁):勝田至(1957-)
(1)墓と葬送の現代①:キリスト教・イスラム教・儒教
A 死体処理の方法が「葬法」である。
A-2 「最後の審判で死者が肉体を伴って復活する」との教理で、キリスト教では、土葬が標準的。
A-3 イスラム教では、土葬が標準的葬法。火葬が「地獄の炎」と関連付けられたため。
A-4 儒教(中国・韓国)では土葬。火葬は死体の破壊で、子の「孝」の道に反する。近年、墓地の土地の減少で、韓国で火葬が増加。

《感想》
①復活するするためには、土葬(キリスト教)またはミイラ(エジプト)。
②「地獄の炎」が嫌なら火葬は避け、土葬となる。(イスラム教)
③火葬は死体の破壊で、子の「孝」の道に反する(儒教の中国・韓国)。
お国柄様々だ。

(1)-2 墓と葬送の現代②:土葬と火葬
B 日本で火葬が主流になったのは、最近。数十年前までの農村部では、土葬が主流。
B-2 明治期に土葬から火葬への転換にあたり、「火葬は死体の破壊だ」、「熱いかもしれない」、「伝染病死と思われたくない」との抵抗感があった。

《感想》明治期の土葬から火葬への転換の時、反対理由が、「火葬は死体の破壊だ」、「熱いかもしれない」、「伝染病死と思われたくない」というのは、ありそうなことだ。

(1)-3 墓と葬送の現代③:家族墓と個人墓
C (葬法以外の)葬送・墓制の変化:(ア)仏教的葬儀から無宗教の葬儀へ、(イ)自然葬、樹木葬の選択。
C-2 「〇〇家の墓」という家族墓は近代(※明治時代)になってからだ。近代家制度の所産。
C-3 近世(※江戸時代)の墓石はみな個人の戒名を刻む。

《感想》「〇〇家の墓」は、江戸時代からかと思っていたが、明治民法の家制度とともに導入されたのだ。最近の事だ!

(1)-4 墓と葬送の現代④:風葬と「日本的」思惟
D 近代以前の伝統的な葬送・墓制と言っても、多くの要素が中世後期(※室町時代)以降に発達した。
D-2 中世前期(※鎌倉時代)まで、葬法は、死体を地上に放置する風葬が一般的だった。これは、歴史学・考古学上、疑問の余地がない。
D-3 葬法・葬送・墓制について一つの連続した「日本的」思惟があったかは、ひとまず脇に置く。

《感想1》中世前期(※鎌倉時代)まで、葬法は、死体を地上に放置する風葬が一般的だったとは、驚きだ。
《感想2》葬法・葬送・墓制について一つの連続した「日本的」思惟があったとは、どうも思えない。

(2)他界観:死者の行き先について日本の歴史上の4観念
E 他界観:死者の行き先について日本の歴史上の4観念&「存在するのは霊魂(モナド)のみであり、物(身体)もまたそれらの霊魂(モナド)の一部として存在する」
死者の行き先について、日本の歴史上の4つの考え方(観念)。これらが、並存し組み合わさっていた。
①死後、行く先は存在しない。消滅。唯物論的考え方。Ex. 仏教の涅槃。儒教の建前。
②死後、この世と隔たった別の世界に行く。Ex. 黄泉の国、地獄・極楽。
③死後、輪廻転生しこの世界の別の生物、人間になる。
(※六道輪廻は、本来は、この世界の別の6つの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上だ。涅槃は、この6世界の輪廻転生から解脱することだ。)
④死後、目に見えないが、この世界の何処かに居る。Ex. 墓に霊がいる。

《感想1》
死者の行き先についての考え方は、3つに大別できる。
(A)死者(=身体=物)は消滅する。(上記①)
そもそも死者の行き先などない。
つまり、物(身体)のほかに霊魂などない。霊魂は物の現象、あるいは物の一部にすぎない。
(B)死者(=霊魂(なお物は霊魂の一部だ))は消滅する。(上記①②③④のいずれでもない考え方)
物(身体)は霊魂(モナド)の一部である。
死とともに霊魂(モナド)も消滅する。
ただし異なる(=他者の)霊魂(モナド)は存在し続け、物もまたそれらの霊魂(モナド)の一部として存在し続ける。
これはモナド論の立場だ。(あるいは、このように存在論的に解釈したかぎりでのフッサール現象学!)
(C)死者の身体は消滅するが、霊魂は存在し続ける。
物(身体)のほかに霊魂が実在する。(上記②③④)

《感想2》
(B)モナド論(or現象学)の立場は、「(A)死者(=身体=物)は消滅する」の立場を含む。
物(身体)しか実在しないと考えるのが、(A)だ。
これに対し(B)は「霊魂しか存在しない」と考える。そして、「物(身体)」は、霊魂の一部と考える。
だから「(B) 死者(=霊魂(なお物は霊魂の一部だ))は消滅する」の立場は、霊魂の消滅が、物の消滅を当然含むと考えるから、「(A)死者(=身体=物)は消滅する」の立場を含む。

《感想3》
日常的態度(「自然的態度」では、死者の行き先についての考え方は2つしかない。
「(A)死者(=身体=物)は消滅する。物(身体)があるのみで、物(身体)のほかに霊魂などない。霊魂は、物の現象、あるいは物の一部にすぎない。」
あるいは「(C)死者の身体は消滅するが、霊魂は存在し続ける。物(身体)のほかに、霊魂が実在する。」
そして、(A)のみが科学的で、(B)は迷信的・非科学的・宗教的と言われる。

《感想4》
フッサール現象学的に考え抜くなら、つまり日常的態度における諸判断を中止(エポケー、判断中止、現象学的超越論的還元)して、意識について考えるなら、「存在するのは霊魂(モナド)のみであり、物(身体)もまたそれらの霊魂(モナド)の一部として存在する」のだ。
この霊魂(モナド)は、超越論的領野と呼ばれる。(Cf. フッサール『デカルト的省察』)

(3)死体に対する態度:死や死体に対する忌避感覚の4類型
F 今は死体に対する忌避感覚が強い。Ex. テレビ報道でも死体を映さない。
(ア)死の先が不明であることからする死自体への恐怖。
(イ)死体の腐敗への嫌悪。Ex. 「穢(ケガ)れ」として平安時代に制度化。
(ウ)死者の霊魂への恐怖。Ex. 出棺のさいに仮門を作り取り壊し死霊の帰還を防ぐ。Ex. 出棺のあと箒で掃きだす絶縁儀礼。
(エ)死体に取り付く魔物への恐怖。Ex. 遺体の上に刃物を置く。Ex. 猫がまたぐと死体が動き出す。
F-2 葬送儀礼で人々が恐れるのは、死者の霊か、死者に取り付く魔物かの議論が、民俗学にある。
G 死・死体への忌避の儀礼と、死者を愛惜する儀礼が、並存する。人間の態度・感情の複雑さ!
H 今日、死者への儀礼が衰退し、死や死体に対する忌避感覚をうまく処理できず、ひたすら目を背けることになっている。

《感想》
「死体を見つめること」が重要だ。
(ア) 死の先が不明である。死後、どこに行くのか。身体は消滅し、霊魂も消滅する。
(ア)-2 君は《虚無の虚空に顕われた不思議な、時間的に有限だが、規模としては宇宙的な広大な存在》つまり《小宇宙》だ。小宇宙は消滅が埋め込まれて(built-in)いる。
(イ)死体は腐敗する。
(ウ) 死者の霊魂への恐怖。これは自然的態度の思いこみ。
(ウ)-2 現象学的超越論的態度でも、しかし、消滅した小宇宙(モナド)への恐怖があり得る。
(エ) 死体に取り付く魔物への恐怖。
(エ)-2 死体は、霊魂または消滅した小宇宙(モナド、霊魂)の残骸である。
(エ)-3 普通、霊魂または小宇宙(モナド、霊魂)が消滅したら、この残骸が動くことはない。
(エ)-4 死体が動いたら恐い。死体が動いたら、それは死体に魔物が憑りついたのだ。

(4)葬儀と社会
I  当然だが、(葬法を含む)葬送・墓制は、生者の営みであり、死者の営みではない。
I-2 葬儀は、生者による死者との「別れ」の儀式だ。
J 葬儀は、①大昔は家族の営みだった。
②数百年を経て葬儀の互助組織が発達し、近世~近代の伝統的村落では近隣の人達によって「自動的に」葬儀がなされた。
③ここ数十年、互助が困難となり、1990年頃から地方にも葬儀社が進出してきた。
J-2 かつては葬列の立派さが社会的ランクを示したが、今は葬儀場の祭壇の立派さが、それに代わった。

《感想》
「当然だが、(葬法を含む)葬送・墓制は、生者の営みであり、死者の営みではない。」との指摘は、誠にその通りだ。


一 原始社会の葬送と墓制(11頁)
第1章 縄文人と死、そして墓:西澤明(1963-)
A 旧石器時代は、発見例が少なく不明な点が多い。以下では縄文時代について扱う。

(1)縄文時代の墓の占地場所:定住生活の普遍化により墓地形成
B 縄文時代前期後半(約6000年前)以降、集落内の一定場所に継続的な墓地が作られる。移動生活から定住生活に移行したためと思われる。
B-2 これ以前は、小規模・短期的な墓地が、一般的だった。
C 定住的生活では、中央広場、その周辺に住居、それらの近くに墓地。あるいは中央広場に墓地が作られる。
C-2 墓地は、縄文中期以降(約5000年前)、いくつかに区分される。つまり構成単位が明確になる。
C-3 構成単位は、出自、世帯、クラン(※氏族)、リネージ(※共通祖先が明確な集団)、双分組織(※2集団が対立補完する)などとされる。

《感想》
恒久的な墓地が作られるようになった理由は、移動生活から定住生活に移行したためだ。

(1)-2 縄文時代の墓の形態:土坑墓が一般的
D 土坑墓(素掘りの穴に遺体を埋葬する)が、草創期(約1万5000年-1万2000年前)から晩期(約3200年-2300年前)までは一般的だ。他に次のようなものがある。
D-2 配石墓:土坑墓の上に石を並べる。
D-3 石棺墓:石で棺状の埋葬施設を構築する。
D-4 土器を、乳児用の棺とする。
D-5 廃屋墓:使われなくなった竪穴住居に遺体を埋葬する。屋根が覆いになっていたらしい。 
D-6 周堤墓:北海道石狩低地にみられる。円形の竪穴(最大は内径32m)を掘り、掘削した土で周堤を作る。そして竪穴内に土坑墓が作られる。

《感想》
縄文時代草創期、つまり1万5000年前から、土坑墓があったのだ。
これと、遺棄葬(風葬・鳥葬、鎌倉時代まで一般的だった)の関係はどうなのか。
土坑墓への埋葬(土葬)と遺棄葬(風葬・鳥葬)が並行したのか?
有力者のみが、土坑墓に埋葬されたようだ。

(2)埋葬姿勢:屈葬or伸展葬
E 早期は屈葬、徐々に伸展葬へ、晩期に再び屈葬が多い。(山田康弘2008)
E-2 ただし同一遺跡同一時期でも、埋葬姿勢は様々。
E-3 縄文時代後期前葉から中葉の・長野県北村遺跡では、屈葬が大半。仰臥(仰向け)。脚部の曲げ方は胸に付くほどから、90度ほどまで等々。

《感想》
屈葬は、縄文時代に盛んに行われた。屈葬を行う理由の諸説:①死霊の再来により災いが起ることを防ぐ。Ex. 死者に石を抱かせる。②墓坑を掘る労力の節約、③休息の姿勢を取らせる、③胎児の姿を真似て再生を祈る。

(3)副葬品:伴っていない場合が多い
F 一般的には副葬品や装身具が、墓もしくは人骨に伴っていない場合が多い。
F-2 副葬品は、土器・打製石器・石匙・石製品など。
F-3 中期勝坂式期の副葬率は遺跡によって様々で、41%(八王子市神谷原遺跡)、15%(稲城市多摩ニュータウンNo.471遺跡)、4%(横浜市前高山遺跡)など。

《感想》
縄文時代の墓は、副葬品が少ない。(ア)誰もが、貧しかった、あるいは、(イ)死後の生活の観念がなかったため。

(4)葬送の方法
G 縄文時代を通じ、遺体を一度の埋葬で、葬送するのが一般的。
G-2 儀礼的行為が確認できる考古学的事例は少ない。Ex. 墓坑上面付近の土器、Ex. ベンガラの散布、Ex. 墓坑底面の小礫、Ex. 覆土中から焼土粒・炭化物粒。
H 後期以降になると、再葬など二次葬の確認例が増える。
H-2  Ex. 18体の遺体が掘り起こされ同一墓坑に再葬。
H-3 Ex. 105体が同一墓坑に再葬。一次葬が風葬、洗骨の可能性。
H-4 人骨を土器棺の中にいれ、再葬する再葬土器棺墓もある。(東北地方北部)

《感想》
縄文時代の墓の覆土中から、焼土粒・炭化物粒が出るのは、そこで火を使う祭祀が行われたことを示す。

(5)集落内の共同墓地
I 墓は、遺体安置と祭場の2機能を持つ。
I-2 環状墓群(中央空間を取り巻き環状に多数の墓が作られた)が、縄文時代に特徴的である。中央の空間は祭祀の場と考えられる。
I-3 環状墓群は、集落の中央広場に形成されるのが通例。
I-4 集落が移動しても、墓はそのまま利用さることがある。

《感想》
村の真ん中が共同墓地であるとは、(ア)死者が生者に心理的に近く忌避されず、また(イ)その祭祀が共同体に重要だったと思わせる。Ex. 東京で、皇居が、葬祭場・焼き場・お墓だったようなものだ。

(5)-2 集落内の共有の場に、墓地形成が未発達の場合もある
J 関東地方東部では、集落内の共有の場に、墓地形成が未発達。
J-2 市原市草刈貝塚では、中央広場を囲むように、8ブロックの住居群があり、世帯による領域単位と思われる。その単位内に廃屋墓などあり。
J-3 関東地方南西部の環状墓群が集落全体の共同祭祀的な場であったことと、大きく異なる。

《感想》
集落内に共有の場がある時、そこに墓がなくても、そこで共同祭祀が行われることは、想定しうる。例えば、現代の葬祭場(僧侶が葬送の儀式を行う)は、墓とは別の場所だ。

(6)再葬による墓:(a)故地の異なる2グループの統合の表象装置、(b)クランのような集団の再葬墓、(c)世帯の系譜の再葬墓
K 後期以降の再葬には、複数以上の集団による共同祭祀をうかがわせる事例がある。
K-2 (a)市川市権現原貝塚(渡辺新1991)。縄文時代後期前葉、中央広場の再葬墓は18住居群に対応する18人骨が再葬され、故地の異なる2グループの統合の表象装置だったようだ。ただし通常の埋葬は、それぞれの住居域で行われている。
L (b)中妻貝塚、後期前半頃の土坑から、再葬された105個体の人骨。半数以上が同じハプロタイプ(ミトコンドリアの塩基配列のタイプ)。ただし、異なるハプロタイプの人骨も含む。クランのような集団の再葬墓かもしれない。同一母系集団。
L-2 (c)茂原市下太田貝塚、後期の土坑3基。A土坑では再葬された40体近くの人骨。ハプロタイプ特定の結果、同一母系集団。小規模な人骨集積では、世帯として系譜を同じくする集団と想定可能。

《感想》
再葬とは、一度、埋葬した骨を、もう一度取り出し再び埋葬することだ。この時、祭祀が行われた。

(7)墓地の役割:(ア) 環状墓群などの集落内墓は〈集落の統合原理〉の表象装置だ、(イ)個別墓における系譜関係の認知・再生産の機能
M (ア)関東地方南西部では、環状墓群などの集落内墓が、〈集落の統合原理〉の表象装置として機能した。
N (イ)関東地方東部では、世帯としての系譜を同じくする人々が埋葬される個別墓が一般的。系譜関係の認知・再生産の機能は墓にある。しかし〈集落の統合原理〉は観取できない。
N-2 ただし後期には、権現原貝塚では、〈集落の統合原理〉としての墓の機能が観取される。

《感想》
墓は、一方で(ア)〈集落の統合原理〉の表象装置だ。また他方で、(イ)個別墓のように、系譜関係の認知・再生産の機能をもちうる。現代の墓は、普通、後者だ。

(8)縄文時代の終わり
O 弥生再葬墓(弥生時代前期から中期、東北南部・中部・関東地方):配石墓での土葬→掘り出し焼骨葬→選骨し壺に焼人骨納入・残余骨を配石墓・土坑墓に再葬。
O-2 縄文時代後期の多数の遺体の骨を集積する再葬から、晩期再葬が焼人骨葬を加え、弥生再葬墓に発展か?
P 一方で、縄文的な環状集落の解体で、環状墓群は、姿を消していく。

《感想》
縄文的な環状集落の解体で、環状墓群もなくなるのが、これが縄文から弥生への時代変化を反映する。


第2章 弥生時代の葬送と墓:若林邦彦(1967-)
(1)弥生時代の特性:周溝墓・墳丘墓と、甕棺墓
A 弥生時代には、時期・地域に応じ多様な葬送形態がある。
A-2 土坑墓、甕棺墓、木棺墓、石棺墓、方形周溝墓・円形周溝墓、再葬墓、四隅突出型墳丘墓・貼石墳丘墓、台状墓など。
A-2 弥生時代の共通点としては、複数の埋葬・墳墓(Ex. 方形周溝墓)が集団墓地(Ex. 方形周溝墓群)を形成する。
A-3 弥生時代固有の墓制である周溝墓・墳丘墓と、甕棺墓を以下、取り上げる。

《感想》
縄文時代は、土坑墓だ。弥生時代になって初めて、方形周溝墓のように墳丘が築かれる。

(2)周溝墓(方形周溝墓)の特徴(a):墳丘は儀礼のステージだった
B 周溝墓の代表例は、方形周溝墓である。
B-2 1辺6~25mの方形、幅1~2mの溝、土盛りして墳丘を築く。
B-3 方形周溝墓は、弥生時代を代表する墓制である。
C 方形周溝墓の墳丘上や周溝内に、儀礼に用いた土器(供献土器)が廃棄・埋置されている。
C-2 墳丘上で儀礼、葬送にまつわる供宴がなされたと考えられる。墳丘は儀礼のステージだった。

《感想》
親族集団が、埋葬ごとに墳丘上で儀礼、葬送にまつわる供宴を行った。現代の僧侶の読経と〈お清め〉だ。

(2)-2 周溝墓(方形周溝墓)の特徴(b):墳丘は多数埋葬(親族集団)である&周溝墓(方形周溝墓)は、群集する
D 周溝墓(方形周溝墓)においては、墳丘は多数埋葬である。
D-2 方形周溝墓は、親族集団の集団墓だ。
E 周溝墓は、群集する。方形周溝墓群!
F 造墓集団内には、階層差があった。

《感想》
①周溝墓(方形周溝墓)は、多数埋葬であり、親族集団の集団墓だ。親族は、血縁集団で基礎的集団だ。
②方形周溝墓は群集し、方形周溝墓群を形成する。この造墓集団内には、階層差がある。親族集団間の階層差は、支配・被支配関係を含むこともあるだろう。方形周溝墓群は、地縁集団(居住集団)を示す。

(3) 周溝墓群の造墓集団(その1):方形周溝墓群(※地縁集団を示す)とその周囲の居住域
G 方形周溝墓群とその周囲の居住域:墓群―集落形成の諸パターン
Ⅰ型 各墓群に隣接して居住域がある
Ⅰ1型:居住域径300m超:「拠点集落」が造墓集団。(Ⅰ1型の存在は確定しにくい。)
Ⅰ2型:居住域径100-200m程度:「基礎集団」(建物10-15頭棟規模の居住集団)が造墓集団。(多くはⅠ2型である。)
Ⅰ3型:居住域径100m以下:「単位集団」・「世帯共同体」(これらが最小経営単位)が造墓集団。(Ⅰ3型は近畿地方にみあたらない。)
Ⅱ型 墓群からやや離れて居住域がある。(明確でない。)
Ⅲ型 墓群の近くに居住域があり、さらにその周囲に造墓の主体集団の居住域がある。(明確でない。)
Ⅳ型 複数の墓群、それに近接して、大規模居住域がある、または中規模居住域複合体がある。(明確でない。) 

《感想》
要するに、方形周溝墓群は、近畿地方においては、Ⅰ2型である。つまり、居住域径100-200m程度の「基礎集団」(建物10-15頭棟規模の居住集団)が造墓集団だ。

(3)-2 周溝墓群の造墓集団(その2):近畿地方(弥生時代中期)の場合、(ア)基礎集団(建物10-20頭棟規模の居住集団)内部で、方形周溝墓に葬られる者とそうでない者がいた、また(イ)基礎集団間に社会的競合があった
H 近畿地方においては、多くはⅠ2型である。つまり「基礎集団」(建物10-20棟規模の居住集団)が造墓集団だ。
H-2 方形周溝墓群は、中規模以上の集団(※単位集団・世帯共同体という最小経営単位が複数集まったもの)が形成する埋葬形態だ。
I 基礎集団(建物10-20頭棟規模の居住集団)が近接分布して形成される複合型集落では、造墓活動が活発だ。
(ア)基礎集団内部で、方形周溝墓に葬られる者とそうでない者がいる。
(イ) 基礎集団間に社会的競合があった。
I-2 方形周溝墓は、個人墓でなく、多数埋葬原理が貫徹する。
J Ⅰ2型を基軸とする墓群-居住域形成パターンは、近畿地方だけでなく、弥生時代中期の列島全体にあてはまるだろう。
J-2 このことは、方形周溝墓群とともに、円形周溝墓群にもあてはまる。

《感想》
「基礎集団」(建物10-20棟規模の居住集団)ごとに方形周溝墓群が形成される。
例えば、建物1棟(親族集団)ごとに「方形周溝墓」1基が造られると想定できる。
かくて、「基礎集団」が建物10-20棟規模の居住集団なので、方形周溝墓10-20基からなる「方形周溝墓群」が形成される。

(4)弥生時代後期の墳丘墓:四隅突出型墳丘墓(出雲など山陰地方が中心)
K 「四隅突出型墳丘墓」は、方形墳丘墓(Cf. 方形周溝墓)の四隅が突出したもの。出雲など山陰地方が中心。墳丘墓側面に貼石をめぐらす。
K-2 主たる葬送儀礼の場である墳丘の道筋が強調され四隅が突出した。(Cf. 前方後円墳と類似。)
K-3 副葬品とし鉄製品あり。(Cf. 古墳との共通性)階層表示への指向。
K-4 方形墳丘墓は複数埋葬である。周溝墓と共通。
L 四隅突出型墳丘墓は、丘陵上に築かれることが多く、居住集団が近接して確認できない。
L-2 「一定規模の集団統合」という状況のもとに形成される葬送形態と言える。

《感想》
①弥生時代中期の方形周溝墓群では、各墓群に隣接して居住域があり、「基礎集団」(建物10-20棟規模の居住集団)ごとに方形周溝墓群が形成される。
②これに対し、弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓は、丘陵上に築かれることが多く、居住集団が近接しない。つまり、より大きな「一定規模の集団統合」という状況のもとに形成される葬送形態だ。

(4)-2 台状墓:弥生後期・近畿北部
M 「台状墓」は、丘陵屋根を切り出して卓台状に形成された埋葬施設だ。
M-2 埋葬主体は複数で、周溝墓と共通する。
M-3 中心埋葬に、剣など鉄製品、ガラス製釧を副葬するなど階層差の表現が、周溝墓より高い。
N 弥生後期・近畿北部には、周溝墓と異質の葬送儀礼、古墳と関連する造墓(Ex. 双方中円墳の倉敷市楯築墳丘墓)・葬送形態が見られ始める。
N-2 しかし一墳墓多数埋葬という原理は見られ。弥生時代通有の集団墓の枠組の中にある。

《感想》
古墳時代の「古墳」と異なり、弥生時代は、「一墳墓多数埋葬」という原理が貫徹する(「集団墓」)。方形周溝墓、四隅突出型墳丘墓、台状墓は、いずれも、弥生時代通有の「集団墓」の枠組の中にある。「個人墓」ではない。

(5)北部九州の甕棺墓制
O 「甕棺墓」は、弥生前期~中期の北部九州で顕著。弥生後期からは衰退し、末期にはほとんどない。
P 甕棺墓の一部に、前漢・後漢の銅鏡やガラス製品などを副葬する「厚葬墓」が見られる。「国」の王墓とも言われる。
P-2 複数の居住集団が共有する墓地が形成され、そこに厚葬墓がみられる。

《感想》
弥生時代、北部九州は先進地域で、大陸・朝鮮半島の強い影響下にある。ここにのみ「甕棺墓」(一部に「厚葬墓」)がある。
これは、近畿地方などの「方形周溝墓」・「台状墓」、山陰地方の「四隅突出型墳丘墓」と、明らかに異なる。

(6)墓制からみた弥生社会:一方で(a)古墳へ至るプロセスとしての弥生墓制、他方で(b)「葬送コミュニケーション」への着目
Q (a)「古墳」(「個人」を表示する道具としての墓)を生み出すプロセスとして、「弥生墓制」を評価する見方が、従来の主流だった。
R 近年では、埋葬者の階層よりも、(b)具体的な葬送行為(Ex. 「葬送コミュニケーション」)へ着目する見方がある。
R-2 ここから(ア)「周溝墓」の周囲に葬送供宴で用いた土器をおく習俗、(イ)「台状墓」埋葬主体への破砕土器の副葬、(ウ)「列状配置の甕棺墓群」は墓道での葬列行為に対応する等々が、発見された。

《感想》
穿孔・打ち欠きなど土器を破砕する祭祀(土器破砕祭祀) は、この世に属する器物をあの世に送る行為、あるいは、例えば、壺に宿ると観念された穀霊を黄泉の国の死者へ送る行為だ。
この世から、あの世へ、器物に宿る霊・魂(Cf. イデア)を送り出すために、土器破砕祭祀がなされた。

(7)居住集団内外の関係性を、個人の死の際に、保持・再生産する装置としての墓制
S 墓は、集落を形成する集団内外の複雑な関係を、表示する。
S-2 一定規模以上に複合した居住集団内外の関係性を、個人の死の際に、保持・再生産する装置としての墓制。

《感想》
権力者(Ex, 首長)の死は、大きな居住集団(Ex. 首長国)内外の関係性を不安定にする。墓制は、その関係性を保持・再生産する装置だ。

(6)-2 弥生墓制に列島規模の共通性は弱い
T 弥生墓制に列島規模の共通性は弱い。もちろん、「一墳墓多数埋葬」等々の造墓原理の共通性あり。
(ア)周溝墓(※近畿地方)では、居住集団諸系の代表者の表示が明確でない。しかし甕棺墓(※北九州)では複数の系列の代表者の墓域がある。
(イ)列島規模で地域ごとに墓制が異なる。(※近畿地方などの「方形周溝墓」・「台状墓」、山陰地方の「四隅突出型墳丘墓」、北九州の「甕棺墓」。)
(ウ)「方形周溝墓」は比較的普遍的な弥生墓制だが、その発達時期が地域により異なる。
(エ)北部九州の「甕棺墓」制は、繊細な社会関係表示法だが、領域が著しく小さい。

《感想》
弥生時代には、近畿、出雲、北九州の三つの勢力圏・文化圏があったのだろう。

(6)-3 紀元前1世紀~紀元後1世紀(※弥生時代)の「倭人」
U 紀元前1世紀~紀元後1世紀は、『漢書』『後漢書』に「倭人」が描写された時期だ。
U-2 列島的共通性:この時期(※弥生時代)は、考古学的に「倭人」が、自分の帰属する個々の居住集団内外の関係性確認を、墓制に表現しようとしていた。
U-3 しかしこの時期、地域性の少ない、普遍的な葬送祭式は希薄。(Cf. 古墳時代には、地域性があまりない)
U-4 2世紀以前の倭人に、列島全体として共通した社会・文化行動、人的まとまりあったのか?あったなら、それは、いかなるものか?

《感想1》
紀元前1世紀~紀元後1世紀(※弥生時代)は、『漢書』『後漢書』に「倭人」が描写された時期だ。
2世紀以前の倭人(※弥生時代)に、列島全体として共通した社会・文化行動、人的まとまり(※共通権力)はなかっただろう。
なお「古墳時代」は、3世紀後半(※239年卑弥呼「親魏倭王」)から7世紀前半(※645年大化改新)までだ。

《感想2》
①弥生時代(1980年代までの従来の見解)
前1000年頃~縄文晩期、前400年頃~弥生早期、前300年頃~弥生前期、前200年頃~弥生中期、紀元0年頃~弥生後期、紀元200年頃~弥生末期(紀元250年頃まで)
②弥生時代(1990年代以降の見解)
水田農耕の本格的な開始(弥生時代開始)は紀元前10〜9世紀の九州北部が最初とされる。つまり紀元前1000年頃、北部九州に弥生文化(稲作農耕)が発生。
約250年後(紀元前750年頃)弥生文化は西日本各地に伝播し始め、畿内の河内平野では紀元前750〜550年頃の間に弥生時代が始まった。
紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで、弥生文化(稲作農耕)は拡散した。
《参考文献》ウィキペディア「弥生時代」


第3章 古墳時代:山田邦和(1959-)
(1)古墳とは何か:箸墓(ハシハカ)古墳が古墳時代のはじまり(3世紀後半~)
A 古墳時代は、3世紀後半(※239年卑弥呼「親魏倭王」)から7世紀前半(※645年大化改新)まで。古墳時代は、「大和時代」と呼ばれることもある。
A-2 「特定の個人の埋葬を主目的として造られた、高い墳丘を外部主体とした墓」(なお今は祭祀が断絶している)が古墳。
B それ以前の段階とは桁違いの規模を誇る巨大古墳、全長280mの前方後円墳・箸墓(ハシハカ)古墳(桜井市)(※卑弥呼の墓)が、メルクマール。この被葬者の時期が、「古墳時代」のはじまり。

《感想》
邪馬台国北九州説より、邪馬台国畿内説のほうが、弥生時代の近畿地方中心の「方形周溝墓」の拡がりを考えると、妥当だと思われる。

(2)古墳の発生:弥生時代後期に「初現期古墳」出現(「特定個人のための大きな墳丘を持つ墓」)
C弥生時代前期、佐賀県吉野ヶ里遺跡には40×27m、高さ4.5mの楕円形の墳丘墓がある。
C-2 近畿地方の方形周溝墓には25×14m、高さ3mのものがある。
C-3 京都・兵庫には丘陵頂部に「方形台状墓」がある。
C-4 これらの墳丘上には数基から二十数基の墓があり、墳丘は共同墓地の墓域と言える。

D 「初現期古墳」出現(「特定個人のための大きな墳丘を持つ墓」を築く風が現れ始めた)は弥生時代後期から。
D-2 吉備・倉敷市楯築古墳:直径43m、高さ5mの円形墳丘の前後に方形の突出部あり、全長83m。
D-3 吉備には初期の前方後円墳(全長32m)もある。(総社市宮山古墳)
D-4 出雲には四隅突出型方形墓が出現。出雲市西谷3号墳は52×42m、高さ3.5mと堂々とした古墳。
E 弥生時代終末期(近畿・庄内式土器の時期)に「纏向型前方後円墳」登場。初期ヤマト政権を主導した有勢者たちの奥津城(オクツキ)。

《感想》
弥生時代の「方形周溝墓」が、一方で①巨大化し、他方で②権力の集中(Ex. 大王権力の出現)から集団墓から個人墓へ移行したことによって、「古墳」が誕生した。

(3)古墳時代のはじまりとしての大王陵の出現:全長280mの前方後円墳・箸墓(ハシハカ)古墳(桜井市)
F 「近畿・布留0式」の時期になると纏向遺跡の地に、巨大古墳、全長280mの前方後円墳・箸墓(ハシハカ)古墳(桜井市)が造営された。
(ア)弥生時代後期~終末期の初現期古墳は全長数10mからせいぜい100m未満だった。
(イ) 箸墓(ハシハカ)古墳は、不整形でなく、整然とした前方後円墳。(前方後円墳の祖形は吉備で成立。それが大和に入り整えられた。)
(ウ)後円部5段築成、前方部4段築成。(階段状の「段築」が初めて登場、以後、通例として採用される。)
(ウ)-2 斜面に葺石(フキイシ)。(葺石は、出雲の四隅突出型方墳、丹後の方形台状墓の系譜を引く。)
(エ)二重の周濠(内濠と外濠)。(周濠が初めて登場、以後、通例として採用される。)
(オ)祭祀用の土製品:特殊円筒形器台、特殊壺。(これらは吉備で成立、後に近畿地方の円筒埴輪に発展。)
F-2 箸墓古墳は、西日本各地の初現期古墳の要素の集大成であり、またその後の古墳の定式を作り上げた。「最初の定型化した前方後円墳」。
F-3 箸墓古墳は、邪馬台国大和(畿内)説の立場から、卑弥呼の墓とみなす研究者が多い。(卑弥呼の没年249年頃)。あるいは後継女王壹与(イヨ)さらに次代の男王の墓か?

《感想》
神武東征を邪馬台国大和(畿内)説の中に組み込むとどうなるだろう?
3世紀中頃の卑弥呼以前に、九州から機内へ神武東征があり(or畿内王権の創始者の出自の説明でもありうる)、その後の姿が畿内・邪馬台国であり、これがヤマト政権に発展する。
「箸墓古墳」は、西日本各地の初現期古墳の要素の集大成であり、またその後の古墳の定式を作り上げた。「最初の定型化した前方後円墳」だから、やはり「卑弥呼の墓」と思いたい。

(4)古墳時代前期・中期の古墳は、棺に入れた遺骸を密封した:竪穴式石室・粘土槨
G 弥生時代の古墳:木棺を墓坑の中に安置した木棺直葬。
G-2 弥生時代最末期(庄内式土器の時期)の纏向型前方後円墳:木棺を納めた石囲い木槨(ホケノ山古墳)
G-3 古墳時代前期前半:竪穴式石室の中に長大な割竹形木棺を置く(天理市黒塚古墳)
G-4 古墳時代前期中葉:割竹形木棺を分厚い粘土で覆う
H 古墳時代前期・中期の古墳は、棺に入れた遺骸を密封した。(埋葬終了後、二度と開けることを想定していない。)

《感想》
古墳時代前期・中期の古墳(※前期3世紀後半・4世紀~中期5世紀(末除く))は、埋葬終了後、二度と開けることを想定していない。
これに対し古墳時代後期(※5世紀末・6世紀)の古墳の埋葬主体を代表するのが、横穴式石室だ。埋葬主体(※墓)の側面に開口部をつけ、再度開口して、追葬が可能なようにした。(Cf. (9)、(9)-2参照)

(5)古墳時代前期の古墳:三角縁神獣鏡の問題&初期ヤマト政権の葬送儀礼の定式の全国的拡大
I 古墳時代前期(※3世紀後半卑弥呼箸墓古墳~4世紀)の古墳の副葬品:銅鏡、勾玉・管玉、石製腕飾類、滑石模造品、青銅製装身具、青銅製武器、鉄製武器、鉄製甲冑、木製盾、鉄製農工具、鉄製漁労具など
J 三角縁神獣鏡の問題
J-2 魏で製作され、邪馬台国女王卑弥呼が魏の皇帝から下賜されたとする説がある。邪馬台国がその支配領域の拡大に伴い全国の主張に分与したとする。(三角縁神獣鏡魏鏡説)
J-3 中国では三角縁神獣鏡の出土例がない。卑弥呼に与えるため魏の皇帝が特別に製作した鏡(「特鋳鏡」)か?
K 黒塚古墳で発見された34面の銅鏡のうち、木棺内で被葬者の遺骸に添えられていたのは画文帯(ガモンタイ)神獣鏡1面のみ。他の33面は三角縁神獣鏡で、全て木棺と石室壁の間の狭い空間にあった。呪具の可能性。Ex. 遺体を外部の悪い神霊から守護する。
L 初期ヤマト政権の葬送儀礼の定式の全国的拡大:①前方後円墳という墳形、②墳丘を囲繞する円筒埴輪列、③竪穴式石室に割竹形木棺という埋葬主体の構造、④三角縁神獣鏡を始めとする副葬品。

《感想》
一つの推測は以下の通り。
三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏の皇帝から下賜されたが、それを国内でコピー鋳造し、初期ヤマト政権が各地の豪族に送った。それら三角縁神獣鏡は、呪具として、木棺と石室壁の間の狭い空間にのみ使用された。

(6)《箸墓古墳で確立された前方後円墳の定式》による巨大古墳の展開(※前期3世紀後半・4世紀~中期5世紀(末除く))
M ヤマト政権の大王墓、同政権の有力首長の墓。6世紀後半まで。
M-2 古墳時代前期(※3世紀後半・4世紀)中葉:治定継体天皇皇后陵(230m天理市)。
M-3 古墳時代前期(※3世紀後半・4世紀)後葉:治定景行天皇陵(310m天理市)、治定神功皇后陵(278m奈良市)、治定崇神天皇陵(240m天理市)、治定垂仁天皇陵(227m奈良市)。
N 古墳時代中期(5世紀(末除く))に極限まで巨大化。
N-2 古墳時代中期前半:治定履中天皇陵(395m大阪府)、中期前半第2位は岡山市(吉備)造山古墳(350m)
N-3 古墳時代中期後半:治定応神天皇陵(419m大阪府)、治定仁徳天皇陵(486m大阪府)

《感想》
《箸墓古墳で確立された前方後円墳の定式》による巨大古墳の展開は、古墳時代前期・中期だ。(※前期3世紀後半・4世紀~中期5世紀(末除く))

(6)-2 古墳時代後期前半(5世紀末~6世紀前半)に入ると前方後円墳の規模縮小
O 古墳時代後期前半(5世紀末~6世紀前半)に入ると前方後円墳の規模縮小:治定仲哀天皇陵(240m奈良市)は例外、治定安閑天皇陵(121m大阪府)、治定仁賢天皇陵(120m大阪府)
O-2 6世紀前半に前代との血縁・地縁関係の薄い継体天皇(位507-531)が即位し、新たな王朝が成立した影響からかもしれない。

《感想》
つまり継体天皇(位507-531)の時代は、ヤマト政権が動乱期だったためかもしれない・

(6)-3 古墳時代後期後半(6世紀後半):巨大な前方後円墳2基造営
P 6世紀後半(古墳時代後期後半)に、再び、かなりの変化。近畿地方中央部で、再び巨大な前方後円墳の造営。
P-2 すなわち五条野丸山古墳(318m、橿原市):全長36mの日本最大の横穴式石室を持つ。欽明天皇(位539-571、継体天皇の子、推古天皇の父)陵かもしれない。
P-3 河内大塚山古墳(330m、大阪府松原市):天皇不明。
P-4 ただし上記2古墳以外は、全長100m台が2基(明日香村梅山古墳136m、治定欽明天皇陵等)あるのみで、あとは全てそれ以下。

《感想》
欽明天皇がヤマト政権を完全に掌握し、それを誇示するためかもしれない。『日本書紀』によると、仏教伝来は飛鳥時代552年(欽明天皇13年)に百済より釈迦仏の金銅像と経論他が献上された。(現在は538年説が有力。)聖徳太子摂政593年~。

(7)古墳時代(前・中・後期)の庶民墓地:「土坑墓」に埋葬するのは丁寧な葬法で、普通は「遺棄葬」
Q 古墳時代前-中期、堺市長曾根遺跡(径2-3mの不整形土坑約700基);古墳時代中期、奈良市池田遺跡(土坑約1500基);古墳時代中-後期、堺市万崎池遺跡(土坑約450基)。
Q-2 ただし「土坑墓」に埋葬するのは丁寧な葬法で、野山や河川に遺体を放置する「遺棄葬」が、広汎に行われていた。

《感想》
①「遺棄葬」は、結果的には風葬・鳥葬だ。
②地中に埋葬しない理由は何だろうか?日本の葬制では,遺体や遺骨に執着することが少く,そのなかの霊魂だけを祖霊として尊崇の対象としてきたとの説がある。

(8)殯(モガリ)の儀礼
R 奈良時代以前、人が亡くなってから遺体を一定期間、仮の建物(殯屋、喪屋、天皇は殯宮(モガリノミヤ))の中に安置し、本葬までの間に、様々な儀礼をおこなう。
R-2 『隋書』「倭国伝」では3年間とある。長いと敏達天皇で5年8カ月、短いと孝徳天皇2か月。
R-3 殯(モガリ)の儀礼の最後に、和風諡号(シゴウ)が献呈されたようだ。
S 古墳時代(前・中・後期)、さらに飛鳥時代にも、殯(モガリ)は行われていた。
S-2 しかし大化薄葬令(孝徳天皇、646年)で、殯(モガリ)禁止。
S-3 文武天皇(707崩)を最後にして、天皇の古墳築造終末。
S-4 元明天皇(721崩)は薄葬を遺詔し、崩後6日目に埋葬。

《感想》
殯(モガリ)は、死者との別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、慰め、また死者の 復活を願いつつも、遺体の腐敗・白骨化を見て死者の 最終的な「死」を確認するものだ。

(9)横穴式石室の出現:「九州形横穴式石室」(古墳時代中期(5世紀(末除く)))
T 古墳時代後半期の古墳の埋葬主体を代表するのが、横穴式石室だ。埋葬主体の側面に開口部をつけて、そこから出入りする。
T-2 それまでの埋葬主体は、竪穴形の施設だった。(竪穴式石室、粘土槨、石棺直葬、木棺直葬なと)
U 横穴式石室の初現形態「竪穴形横口石室」:それまでの竪穴式石室や箱式石棺の短辺に横口を設けた。北部九州、古墳時代中期初頭(4世紀末~5世紀初頭)に出現。
U-2 古墳時代中期前半「九州型横穴式石室」(「北九州型横穴式石室A類」):平面長方形の玄室に短い羨道をつける。
U-3 「肥後型横穴式石室」:「九州型横穴式石室」に百済からの影響が加わる。平面正方形・穹窿型天井の玄室で、玄室内に石障(板石で室内を区切る)を持つ。
U-4 これら九州系の横穴式石室は、近畿地方中央部の最初の横穴式石室に影響を与える。(大阪府堺市、藤井寺市、奈良県平群町など)

《感想》
横穴式石室(つまり追葬を行うこと)が最初、九州に出現したことは、大陸からの影響かもしれない。

(9)-2 新たな横穴式石室(古墳時代後期前半、6世紀前半に出現):古墳時代後期古墳(5世紀末~6世紀後半)のスタンダード「畿内型横穴式石室」
V 近畿地方中央部に新たな横穴式石室(古墳時代後期前半、6世紀初頭~)が出現:「畿内型横穴式石室」。
V-2 玄室は細長い長方形、平天井、羨道と玄室は両袖式または片袖式に接続。
V-3 九州系の横穴式石室が限られた範囲にしか伝播しなかったのに、「畿内型横穴式石室」は、見る見るうちに日本列島の各地に広がる。
V-4 かくて古墳時代後期古墳のスタンダードとなる。
W 横穴式石室が、竪穴系の埋葬主体(※墓)と異なるのは、再度開口し、追葬が可能なこと。追葬を予定した小集団の墓にふさわしい。

《感想》
「畿内型横穴式石室」は、見る見るうちに日本列島の各地に広がる。これは大和政権による、マニュアル化があったからだ。(Cf. 次項(9)-3「群集墳」参照)

(9)-3 古墳時代後期後半(6世紀後半~7世紀前半)、群集墳(小古墳の密集)が爆発的に拡大:「畿内型横穴式石室」を持つ
X 「畿内型横穴式石室」の全国制覇の大きな要因は、古墳時代後期後半(6世紀後半~7世紀前半)に、この形式が群集墳の埋葬主体(※墓)に採用されたこと。
X-2 内容が画一的、つまり斉一性の存在。多量の須恵器(高坏、壺など)、若干の武器・馬具。
X-3 横穴式石室の内部は死者が暮らす「黄泉(ヨミ)の国」。須恵器群はそこでの飲食用。
X-4 群集墳は、ヤマト政権の身分秩序の現れであり、ヤマト政権が、それぞれの集団に群集墳(小古墳の密集)の築造を容認し、その集団に対し斉一的な「群集墳マニュアル」が配布されたと想定できる。

《感想》
古墳時代後期前半(5世紀末~6世紀前半)に入ると前方後円墳の規模縮小(参照(6)-2)。
ところが、古墳時代後期後半(6世紀後半~7世紀前半)に、群集墳(小古墳の密集)が爆発的に拡大。「畿内型横穴式石室」を持つ。(参照(10)-3)

(10)古墳時代中・後期の群集墳(小古墳の密集):①「古式群集墳」(古墳時代中期後半から後期前半、5世紀中葉~6世紀前半)と②「新式群集墳」(横穴式石室を埋葬主体とする通常の群集墳)(古墳時代後期後半、6世紀後半~7世紀前半)
A 直径十数㍍程度の小規模古墳の密集が「群集墳」だ。
日本には10万基とも20万基とも言われる古墳が存在するが、その9割以上が群集墳を構成する小古墳である。
A-2 ①「古式群集墳」(「初期群集墳」「古式古墳」):古墳時代中期後半から後期後半(5世紀中葉~6世紀前半)が盛期。木棺直葬の埋葬主体を持つ。(※横穴式石室でない。)
A-3 ②「新式群集墳」(「後期群集墳」):横穴式石室を埋葬主体とする通常の群集墳。古墳時代後期後半(6世紀後半~7世紀前半)が盛期。

《感想》
Cf. 吉見百穴は、古墳時代の末期(6世紀末~7世紀末、Cf. 大化改新645年)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定。横穴墓は丘陵や台地の斜面を掘削して墓としたもの。死者が埋葬された主体部の構造は、古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じ。

(10)-2 ①「古式群集墳」(古墳時代中期後半から後期前半、5世紀中葉~6世紀前半)
B 「古式群集墳」の典型例は、橿原市新沢(ニイザワ)千塚(センヅカ)古墳だ。
B-2 独立丘陵上の丘の上に346基の古墳が密集する。大部分が小規模な円墳。5世紀中葉に爆発的な古墳増加。かなりの階層性あり(副葬品がないものからガラス碗・ガラス皿・金製宝飾など豪華な副葬品を持つものまであり)。

《感想》
権力誇示の方法として、古墳造営が選ばれたのだ。

(10)-3 ②「新式群集墳」(横穴式石室を埋葬主体とする通常の群集墳)(古墳時代後期後半、6世紀後半~7世紀前半)
C 例としては京都市西京区大枝山古墳群:谷間の底の平坦地と斜面に26基の小円墳。石室は南向き。
D 群集墳の被葬者像(その1):家父長的家族墓説(家父長制世帯共同体論)が著名。家父長的奴隷所有者とその家族という有力農民層。(近藤説)
E 群集墳の被葬者像(その2):ヤマト政権と関連のある身分保持者の墓。かくて、群集墳の拡大が全国で一斉に行われた。(西嶋説)
E-2 ヤマト政権が支配を広げる過程で、人々を身分秩序(カバネ制)に取り込み、そのシンボルとして古墳を造営させた。
E-3 すなわち、本来、血縁関係をもたない地域集団同士が、見かけの同族関係を結んで結合し、彼らが政権から墓域を与えられ、群集墳を築造した。
E-4 群集墳(小古墳の密集)を媒介として支配関係が貫徹される「群集墳体制」!

《感想》
群集墳を構成する小古墳の一つ一つは、社会階層的に見れば、〈家父長的奴隷所有者とその家族という有力農民層の墓だ〉との説(近藤説)は正しいだろう:家父長的家族墓説(家父長制世帯共同体論)。
ヤマト政権との権力関係的に見れば、〈ヤマト政権が支配を広げる過程で、人々を身分秩序(カバネ制)に取り込み、そのシンボルとして古墳を、造営させた〉との説も正しいだろう。(西嶋説)

(11)群集墳(小古墳の密集)の類型:①大王家や有力豪族の本貫が遠隔の地、②地域豪族の集団の中に群集墳あり、③群集墳を造営した擬制的共同体が、自らの系譜を、大・中型古墳に葬られた大王に結び付けた
F 群集墳の類型(その①):等質的な小型古墳からのみ構成され、群内にも周辺にも大・中型古墳が存在しない。
F-2 群集墳の被葬者集団を統括するヤマト政権大王家や有力豪族は、遠隔の地に本貫(※本籍)を置いていた。
G 群集墳の類型(その②):群集墳の中または近接した場所に、同時期の大・中型古墳が存在する。
G-2 群集墳の被葬者たちは、その土地の地域豪族の集団の中に含まれていた。Ex. 紀氏(和歌山市)、秦氏(嵯峨野)。
H 群集墳の類型(その③):群集墳に近接して、大・中型古墳が存在するが、大・中型古墳は、はるか以前に造られた場合。
H-2 群集墳を造営した擬制的共同体が、自らの系譜を、大・中型古墳に葬られた大王に結び付けた。古墳時代中期から後期(5世紀・6世紀・7世紀前半)にかけて、擬制的同族集団の結成による社会の再構成(群集墳の造営)がすすんで行った。

《感想》
群集墳(小古墳の密集)を造営した擬制的共同体が、自らの系譜を、大・中型古墳の大王に結び付けた。
血縁の系譜は、共同体(集団)の結束に不可欠だ。

(12)「北近畿型最古式群集墳」の提唱
I 兵庫県北部・京都府北部において、丘陵の尾根上に数珠玉のように小さな古墳が連続して築かれる。
I-2 弥生時代後期末(※紀元150年頃)に造営開始→中断→古墳時代中期後半(※5世紀後半)再開
I-3 近畿地方中央部の古式群集墳と立地条件が異なり、時期も古い。群の域内に弥生時代の方形台状墓群が含まれることもある。
I-4 地域共同体の紐帯が強固に残っていたと思われる。

《感想》
Cf. 弥生時代(1980年代までの従来の見解)
前1000年頃~縄文晩期、前400年頃~弥生早期、前300年頃~弥生前期、前200年頃~弥生中期、紀元0年頃~弥生後期、紀元200年頃~弥生末期(紀元250年頃まで)

(13)群集墳の終末:近畿地方では、群集墳の築造は7世紀前葉に終了
J 近畿地方中央部の前方後円墳の衰退期は6世紀後半。
J-2 6世紀後半は、新式群集墳の最盛期で、全国でおびただしい数の古墳が造られ続けていた。
J-3 7世紀前葉(Cf. 604遣隋使、622聖徳太子没)に、近畿地方中央部で、群集墳の拡大にブレーキがかかる。
J-4 それ以降は(Cf. 645大化改新)、群集墳は急速に衰退する。
J-5 かくて近畿地方では、群集墳の築造は7世紀前葉に終了。「古墳時代」が終了する。これ以後築造される群集墳もあるが、これは「終末期古墳」と呼ばれる。
K 「古墳時代タイプ」の須恵器は、古墳時代終了後も、群集墳における葬送祭祀で使われる。(7世紀後半まで。)
K-2 日常生活では、宝珠形つまみ付の「飛鳥時代タイプ」の須恵器が使われる。(※7世紀後半)

《感想》
①古墳時代後期前半(5世紀末~6世紀前半)に入ると前方後円墳の規模縮小。(参照(6)-2)
ところが② 古墳時代後期後半(6世紀後半~7世紀前半)に、群集墳(小古墳の密集)が爆発的に拡大。「畿内型横穴式石室」を持つ。(参照(10)-3)
②-2 古墳時代後期古墳(5世紀末~6世紀後半)のスタンダードは、「畿内型横穴式石室」。(参照(9)-2)
②-3 「新式群集墳」(「後期群集墳」):横穴式石室を埋葬主体とする通常の群集墳。古墳時代後期後半(6世紀後半~7世紀前半)が盛期。(参照(10))
③近畿地方では、群集墳の築造は7世紀前葉に終了。

(14)前方後円墳の終焉:近畿地方中央部においては、6世紀後半
L 大王陵では、欽明天皇(571崩)陵の可能性のある橿原市五条野丸山古墳、また明日香村平田梅山古墳が最後だ。
L-2 大王陵における最後の前方後円墳は敏達天皇(585崩)陵(石姫皇女の山稜に合葬)だとの説が有力。
L-3 例外的に千葉県・埼玉県には7世紀初頭、また山口県・福島県には7世紀中葉の前方後円墳がある。

《感想》
①聖徳太子等による(a)仏教思想の導入・寺院の建立が、(b)古墳の造営にとって代わった。
②西暦587年丁未の乱(テイビノラン)で、蘇我氏と物部氏の騒乱に決着が付き、仏教は正式に認められた。
②-2 その前から豪族たちは自邸内に仏像を安置し、建物を建て毎日拝むようになってい た。
Ex. 蘇我氏が建てた飛鳥寺。(587年馬子が発願。)
Ex. 聖徳太子が建立した法隆寺(607年)も「上宮王家」の氏寺だ。
②-3 法隆寺は、他の豪族の「氏寺」のお手本となり法隆寺式伽藍配置の寺院が各地に建てられた。
③自らの権力を示すために「古墳」を造立してきた豪族たちは、その財力を「氏寺」に向けるようになった。
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