宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー:アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(2016年)(その1)①アパラチア:貧困という故郷!②1950年代の祖父・祖母:中流に移住!

2020-09-08 15:44:14 | Weblog
「はじめに」 
A 著者は2015年に31歳だ。イェール大のロースクール(法科大学院)修了。「ラストベルト」(さびついた工業地帯)のオハイオ州の鉄鋼業の町ミドルタウンで貧しい子ども時代を送る。「仕事も希望も失われた地方都市」。A-2 著者は「スコッツ=アイリッシュ」の家計に属す労働者階級のアメリカ人の出身だ。(「WASP」でない!)「ヒルビリー(田舎者)」「レッドネック(首筋が赤く日焼けした白人労働者)」「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれる。「グレーター・アパラチア(大アパラチア)」の文化に属す。
B 現在、白人労働者階層は厭世的で人生を悲観している。仕事に就くチャンスがあっても、例えば19歳のボブは1週間に1度は欠勤、いつも遅刻、1日に3回トイレに籠る(1回30分~1時間)。つまり怠惰だ。結局、自分から辞めるか解雇される。重労働から逃れようとし、よい仕事でも長続きしない。
B-2 ここには「機会の平等」とは別の問題がある。「白人」の多くの「ウェルフェア・クイーン(福祉の女王)」(一般には公的扶助を受けながら、怠惰な生活をする黒人女性=母親)がいる。
C 著者は言う「本書は学術書でない。」「本書は個人的な回想録である。」「この物語に悪者はいない。自分の道を見つけようとしているヒルビリーの寄せ集めがいるだけだ。」

第1章「アパラチア――貧困という故郷:崇拝すべき男たち、避けられる不都合な事実」
A  曾祖母の家がケンタッキー州ジャクソンにある。そこは人口約6000人の小さな町だ。住民気質(著者が子供の頃)は次の通り。(a)ジャクソンの住民は誰にでも挨拶する。(b)見知らぬ人の車でも雪に埋もれたと知ると何をおいても雪掻きを手伝う。(c)葬送の車列を見かけたら、必ず車から降りて、亡くなった人を見送る。
A-2 ママウ(おばあちゃん)と呼んでいた祖母にたずねると、「このあたりの山で暮らしていれば、誰でも亡くなった人に敬意を払うものなんだよ」と教えてくれた。
B ケンタッキー州ジャクソンには、曾祖母のママウ・ブラントン(ブラントンばあちゃん)が住んでいた。祖母と私(著者)はオハイオ州ミドルタウンに住んでいたが、12歳まで、夏の間はジャクソンに帰った。
B-2 私は、ジャクソンでは「町の誰もが知っているたくましい女性」(祖母)の孫で、また「町で最も腕のいい自動車修理の達人である祖父」の孫だった。
C オハイオ州ミドルタウンの私は「どんな人かもしれない父親に捨てられ」、薬物依存の母親と、次々と変わる母親の恋愛相手(スティーブ、アルコール依存症の警察官のチップ、ケン)を「父親がわり」と生活しなければならなかった。
D ケンタッキー州ジャクソンにいた祖母の兄弟たちは、「荒々しい気性」を持っていた。(ア)ティーベリーおじさんは飛び出しナイフを手に「右耳を切り取って犬に食べさせるぞ」と4歳の私を追いかけてきた。(イ)ペットおじさんはあまりに失礼な相手に激高し、気絶するまで殴りつけ、電動のこぎりで腹を切断しようとした。
D-2 祖母もかつて、牛泥棒を目撃した時、ライフルを撃ちまくり、一人を射殺しようとしたが、かろうじてペットおじさんが止めた。
D-3 祖母は曲がったことが大嫌いだった。バイクを盗まれたり、車上荒らしされたりしたとき、彼女は言った。「貧乏人から何かを盗む貧乏人ほど、卑しい奴はいない。絶対に許さない。」
D-4 ジャクソンの町はブレシット郡にあるが、そこは「血みどろのブレシット」と言われる郡だ。

第1章-2 ケンタッキー州ジャクソンの町は変わってしまった!
E 曾祖母のブラントンばあちゃんの家には、今現在は私のまたいとこのリックとその家族が暮らす。だがジャクソンの町はすっかり変わってしまった。「ドラッグが蔓延していて、誰も仕事を続けることに興味を持たなくなった。」そしてアパラチアでも最悪と言える貧困を目のあたりにすることになる。粗末な家屋、野良犬。そして怯えたような視線の8人の小さな子供と35歳位の父親がいた。リックにその男について聞くと、「仕事はないが、むしろその状況に満足している。あいつらは卑しいんだ」とリックが言った。
E-2 貧困線上をうろつくジャクソンの住民たち。薬物依存があとを絶たない。荒れ果てた公立学校。炭酸飲料の過剰摂取で生じた小さな子供たちの痛ましい歯(マウンテンデュー・マウス)。
E-3 しかし住民自身がそうした状況を改善しようとしない。彼らは自分たちに都合の悪い事実を直視しない。(認めたくない。)「貧窮に陥った自分たちの仲間を描いたTV番組」への強い怒り!私(著者)もまた、18歳まで同じように考えていた。
E-4 ジャクソンの人たちは働き者だ。だが政府による食費補助制度(フードスタンプ)を利用する多くの受給者は「実直に働くこと」にほとんど興味を示さない。
E-5 ジャクソンにはびこる薬物依存は、祖父母の長女(私の母)を生涯にわたって苦しめている。

第2章「中流に移住したヒルビリーたち:1950年代、工場とそして豊かさを求めて」祖父(パパウ)と祖母(ママウ)の時代!二人は1947年ジャクソンで結婚し、オハイオ州ミドルタウンに移住!
F 祖父(パパウ)(1929年生まれ)と祖母(ママウ)は1947年、ケンタッキー州ジャクソンの町で結婚した。二人は祖父17歳、祖母14歳だった。
F-2 当時のジャクソンには、2種類のタイプの人がいた。(ア)新時代の産業に活路を見出そうとする人たちと、(イ)ジャクソンにとどまる人だ。
F-3 祖父と祖母は、オハイオ州ミドルタウンに移住した。祖父はアーコム(大手鉄鋼会社、ケンタッキー東部の炭田一帯で人材を募集)に職を見つけることに成功した。アーコムはケンタッキー州の若者を募集しただけでなく、親類縁者も連れてくることを奨励した。多くの企業が同じような戦略を採用した。
F-4 北部に移住して工場で働く何百万人もの人々が、1940年代末~1950年代、「ヒルビリー・ハイウェイ」(国道23号線)に沿って移動した。
F-5 私の祖父母が経験したことは、ヒルビリーとして極めて一般的だった。また祖父母は、勤勉さとアメリカンドリームを信じていた。
F-6 祖父は民主党を支持していた。民主党が労働者を守ってくれたからだ。
G それから2世代後、移住したヒルビリーたちは、収入と豊かさという点で、地元の人たちに追いついた。
G-2 祖父母にとっての目標は、ケンタッキー州から出ることであり、また子供たちに少しでも有利な教育を受けさせることだった。
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