※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(一)「カントとの関係」「2 純粋理性批判」(続3)
(2)-3-2 「二律背反(アンチノミー)の問題」の処理においてもヘーゲルは「弁証法」的な考え方をする!(34-35頁)
★「理念」や「精神」はカントの言うように「現象界」を超えたものであり、その本来の場面は「叡智界」である。(34-35頁)
☆しかし(「叡智界」に属す)「理念」や「精神」が充実した意味をもつためには、「現象界」においてもおのれ自身を現わさなければならない。「現象界」と内面的な連関をもって初めて、(「叡智界」に属す)「精神」や「理念」は自らを現わすことができる。
☆ただしそこには、「否定すると同時に肯定する」・「肯定すると同時に否定する」という「弁証法」的考え方が必要だ。
☆かくてヘーゲルの考え方は「弁証法」的だ。
☆ヘーゲルは「二律背反(アンチノミー)の問題」の処理においても「弁証法」的な処理の態度をとる。
(2)-4 「真理は全体である」(ヘーゲル):(「叡智界」に属す)「精神」や「理念」も、それに先立つ段階すなわち(「現象界」に属す)「直観」や「悟性」を、「媒介」として必要とする!(35頁)
★カントでは積極的意味をもっていなかった(「叡智界」に属す)「理念」や「精神」が、ヘーゲルでは積極的な意味をもってくる。「理念」といっても、それは決して「現象」と切り離されてはならない。(35頁)
☆「理念」が「現象」と結びついているかぎり、カントの第一批判『純粋理性批判』は、ヘーゲルの『精神現象学』にとって重大な意味をもってくる。
★カントの第一批判『純粋理性批判』における認識能力の発展段階は、最初に①「直観」あるいは「感性」がある。それから②「悟性」の能力がある。「悟性」は「直観」によって与えられたものを、総合的に統一づける。(35頁)
☆だがそれはまだ部分的認識であり、全体的認識でない。そこで③「理性」が全体をとらえようとする。
★ヘーゲルでも「精神」の立場・「理念」の立場は、物事を「全体」的に見てゆこうとする立場だ。「真理は全体である」。(35頁)
☆しかしその「全体」も、「部分」を離れては、本当の全体ではない。かくて(「叡智界」に属す)「精神」や「理念」も、それに先立つ段階を「媒介」として必要とする。
(2)-4-2 カントの認識論(『純粋理性批判』はヘーゲル『精神現象学』に対して重大な影響を及ぼす!『精神現象学』(A)「意識」Ⅲ「力と悟性、現象と超感覚的世界」では、「悟性」の世界から「理性」の世界への導きが考えられている!(35-38頁)
★カントの認識論(『純粋理性批判』)はヘーゲルに対して重大な影響を及ぼす。ヘーゲルの『精神現象学』においても、やはり最初はカントにおける「直観」とか「感性」というものから始まる。(35-36頁)
★ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知
☆これを分析すると2つの分け方が組み合わせてされている。(53-54頁)
・一方の分け方では、(A)意識、(B)自己意識、(C)(AA)理性
・他方の分け方では、Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知
★(A)「意識」:Ⅲ「力と悟性、現象と超感覚的世界」では、「悟性」の世界から「理性」の世界への導きが考えられている。(36頁)
(2)-4-3 『精神現象学』(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」は、「理性」の段階への移り行きの役目をしている!「意識」は、「精神」の概念としての「自己意識」において、初めてその転回点を見いだす!「我々なる我」であり「我なる我々」であるところの「精神」!
★(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」は、「理性」の段階への移り行きの役目をしている。(36-37頁)
☆「自己意識」は普通、「対象意識」と相即したもののように考えられている。
☆だがヘーゲルは、「自己意識」は「他の自己意識」と相即すると考える。かくてヘーゲルは「精神」というものは「我なる我々」、「我々なる我」であると言う。
・ヘーゲルによれば、「我々」に対してはすでに「精神」Geist の概念が現存している。今後、意識が認めるにいたるところのものは、「精神」がなんであるかについての経験にほかならない。すなわち「各自別々に存在し相異なる自己意識の全き自由と自立とを具えた両項」の統一であるところの「精神」という絶対的実体が何であるかについての経験、換言すれば「我々なる我」であり「我なる我々」であるところの「精神」がなんであるかについての経験である。
・かくてヘーゲルは言う。「意識」は、「精神」の概念としての「自己意識」において初めてその転回点を見いだし、「感覚的此岸の色さまざまの仮象」と「超感覚的此岸のうつろな夜陰」とを去って、「現在の精神的なる真昼」の内に踏み入る。
☆ヘーゲルの「精神」なるものは、社会的なものであり、人倫的なものである。このような「自己意識」の段階を媒介として(C)(AA)「理性」が登場する。
(2)-4-4 『精神現象学』(C)(AA)「理性」:ヘーゲルでは「理性」は根本的には社会的人倫的なものだ! (37-38頁)
★(B)「自己意識」の段階を媒介として、(C)(AA)「理性」が登場する。このヘーゲルの「理性」はカントの「理性」を積極的に生かしたものだが、ヘーゲルでは「理性」は根本的には社会的人倫的なものだ。(37-38頁)
☆そういう意味がはっきりしてくるのは(C)(BB)「精神」というところで、そこでは「我なる我々」、「我々なる我」という「精神」がはっきりしてくる。かくて(BB)「精神」:Ⅵ「精神」のはじめがA「真実なる精神、人倫」である。
・ヘーゲル哲学は実はこのような倫理的な――そうしてまた宗教的な――問題から出発している。
★こういうわけでカントの第一批判『純粋理性批判』の「直観」-「悟性」-「理性」という段階は、ヘーゲルに、その意味を変えてではあるが大きな影響を与えている。
(2)-5 カントの第一批判『純粋理性批判』はカント哲学における哲学総論である!その位置を、ヘーゲル哲学においては『精神現象学』が占める!(38頁)
★カントの第一批判『純粋理性批判』はカント哲学における哲学総論であると言える。カントの第一批判はもちろん批判であって体系ではない。しかし結局のところ、カントの哲学体系は第一批判において全部現れている。(38頁)
☆もちろんカントの第一批判はだいたいにおいて「理論」の問題を扱い、「実践」の問題は第二批判『実践理性批判』、「美学や目的論」の問題は第三批判『判断力批判』に譲られている。しかし第一批判には第二、第三批判の問題も含まれており、第一批判はカント哲学全体の鳥瞰図を成す。つまりカントの哲学概論と言える。
★第一批判『純粋理性批判』がカント哲学において占める位置を、ヘーゲル哲学においては『精神現象学』が占めている。(38頁)
I 序論(一)「カントとの関係」「2 純粋理性批判」(続3)
(2)-3-2 「二律背反(アンチノミー)の問題」の処理においてもヘーゲルは「弁証法」的な考え方をする!(34-35頁)
★「理念」や「精神」はカントの言うように「現象界」を超えたものであり、その本来の場面は「叡智界」である。(34-35頁)
☆しかし(「叡智界」に属す)「理念」や「精神」が充実した意味をもつためには、「現象界」においてもおのれ自身を現わさなければならない。「現象界」と内面的な連関をもって初めて、(「叡智界」に属す)「精神」や「理念」は自らを現わすことができる。
☆ただしそこには、「否定すると同時に肯定する」・「肯定すると同時に否定する」という「弁証法」的考え方が必要だ。
☆かくてヘーゲルの考え方は「弁証法」的だ。
☆ヘーゲルは「二律背反(アンチノミー)の問題」の処理においても「弁証法」的な処理の態度をとる。
(2)-4 「真理は全体である」(ヘーゲル):(「叡智界」に属す)「精神」や「理念」も、それに先立つ段階すなわち(「現象界」に属す)「直観」や「悟性」を、「媒介」として必要とする!(35頁)
★カントでは積極的意味をもっていなかった(「叡智界」に属す)「理念」や「精神」が、ヘーゲルでは積極的な意味をもってくる。「理念」といっても、それは決して「現象」と切り離されてはならない。(35頁)
☆「理念」が「現象」と結びついているかぎり、カントの第一批判『純粋理性批判』は、ヘーゲルの『精神現象学』にとって重大な意味をもってくる。
★カントの第一批判『純粋理性批判』における認識能力の発展段階は、最初に①「直観」あるいは「感性」がある。それから②「悟性」の能力がある。「悟性」は「直観」によって与えられたものを、総合的に統一づける。(35頁)
☆だがそれはまだ部分的認識であり、全体的認識でない。そこで③「理性」が全体をとらえようとする。
★ヘーゲルでも「精神」の立場・「理念」の立場は、物事を「全体」的に見てゆこうとする立場だ。「真理は全体である」。(35頁)
☆しかしその「全体」も、「部分」を離れては、本当の全体ではない。かくて(「叡智界」に属す)「精神」や「理念」も、それに先立つ段階を「媒介」として必要とする。
(2)-4-2 カントの認識論(『純粋理性批判』はヘーゲル『精神現象学』に対して重大な影響を及ぼす!『精神現象学』(A)「意識」Ⅲ「力と悟性、現象と超感覚的世界」では、「悟性」の世界から「理性」の世界への導きが考えられている!(35-38頁)
★カントの認識論(『純粋理性批判』)はヘーゲルに対して重大な影響を及ぼす。ヘーゲルの『精神現象学』においても、やはり最初はカントにおける「直観」とか「感性」というものから始まる。(35-36頁)
★ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知
☆これを分析すると2つの分け方が組み合わせてされている。(53-54頁)
・一方の分け方では、(A)意識、(B)自己意識、(C)(AA)理性
・他方の分け方では、Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知
★(A)「意識」:Ⅲ「力と悟性、現象と超感覚的世界」では、「悟性」の世界から「理性」の世界への導きが考えられている。(36頁)
(2)-4-3 『精神現象学』(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」は、「理性」の段階への移り行きの役目をしている!「意識」は、「精神」の概念としての「自己意識」において、初めてその転回点を見いだす!「我々なる我」であり「我なる我々」であるところの「精神」!
★(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」は、「理性」の段階への移り行きの役目をしている。(36-37頁)
☆「自己意識」は普通、「対象意識」と相即したもののように考えられている。
☆だがヘーゲルは、「自己意識」は「他の自己意識」と相即すると考える。かくてヘーゲルは「精神」というものは「我なる我々」、「我々なる我」であると言う。
・ヘーゲルによれば、「我々」に対してはすでに「精神」Geist の概念が現存している。今後、意識が認めるにいたるところのものは、「精神」がなんであるかについての経験にほかならない。すなわち「各自別々に存在し相異なる自己意識の全き自由と自立とを具えた両項」の統一であるところの「精神」という絶対的実体が何であるかについての経験、換言すれば「我々なる我」であり「我なる我々」であるところの「精神」がなんであるかについての経験である。
・かくてヘーゲルは言う。「意識」は、「精神」の概念としての「自己意識」において初めてその転回点を見いだし、「感覚的此岸の色さまざまの仮象」と「超感覚的此岸のうつろな夜陰」とを去って、「現在の精神的なる真昼」の内に踏み入る。
☆ヘーゲルの「精神」なるものは、社会的なものであり、人倫的なものである。このような「自己意識」の段階を媒介として(C)(AA)「理性」が登場する。
(2)-4-4 『精神現象学』(C)(AA)「理性」:ヘーゲルでは「理性」は根本的には社会的人倫的なものだ! (37-38頁)
★(B)「自己意識」の段階を媒介として、(C)(AA)「理性」が登場する。このヘーゲルの「理性」はカントの「理性」を積極的に生かしたものだが、ヘーゲルでは「理性」は根本的には社会的人倫的なものだ。(37-38頁)
☆そういう意味がはっきりしてくるのは(C)(BB)「精神」というところで、そこでは「我なる我々」、「我々なる我」という「精神」がはっきりしてくる。かくて(BB)「精神」:Ⅵ「精神」のはじめがA「真実なる精神、人倫」である。
・ヘーゲル哲学は実はこのような倫理的な――そうしてまた宗教的な――問題から出発している。
★こういうわけでカントの第一批判『純粋理性批判』の「直観」-「悟性」-「理性」という段階は、ヘーゲルに、その意味を変えてではあるが大きな影響を与えている。
(2)-5 カントの第一批判『純粋理性批判』はカント哲学における哲学総論である!その位置を、ヘーゲル哲学においては『精神現象学』が占める!(38頁)
★カントの第一批判『純粋理性批判』はカント哲学における哲学総論であると言える。カントの第一批判はもちろん批判であって体系ではない。しかし結局のところ、カントの哲学体系は第一批判において全部現れている。(38頁)
☆もちろんカントの第一批判はだいたいにおいて「理論」の問題を扱い、「実践」の問題は第二批判『実践理性批判』、「美学や目的論」の問題は第三批判『判断力批判』に譲られている。しかし第一批判には第二、第三批判の問題も含まれており、第一批判はカント哲学全体の鳥瞰図を成す。つまりカントの哲学概論と言える。
★第一批判『純粋理性批判』がカント哲学において占める位置を、ヘーゲル哲学においては『精神現象学』が占めている。(38頁)