『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

福田社

2016年07月15日 | 「吉和地区」ぶらり


石原地区の教龍寺前にある小祠の福田社であるが何が祀られているのか定かでない。祠の蟇又には福田と刻されており、耕地地名図には石原福田がみられる。
江戸期の地誌には小祠として佛田明神とありいつの時代かに福田社と称されるようになったものとみられる。福田社には木造の狛犬、神像(画像-吉和村誌)、神鏡などが残されているようである。

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教龍寺の梵鐘

2016年07月14日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和石原地区にある教龍寺の梵鐘は刻銘によると寛政11年(1799)に広島城下の妙慶院の梵鐘として芸備両国鋳物師筆頭植木直昌によって鋳造されたようである。戦時供出されていた梵鐘が戦後の混乱期に当寺へ移ったようである。
江戸初期、広島城主福島正則が大坂より広島への船での帰路播磨灘で薬師如来と梵鐘を引き上げ福島氏菩提寺の妙慶院に収めたようである。宝暦8年(1758)に大火に遭って砕けたこの梵鐘を使用して新たに鋳造した梵鐘が現在教龍寺に懸けられている梵鐘である。

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吉和線の広電バス

2016年06月29日 | 「吉和地区」ぶらり


石原地区にある広電吉和車庫に停車している広電バスで市役所前駅行きが1日3往復運行されているようである。乗車客は少なく殆ど空気を運搬しているように見受けられる。
昭和36年(1961)1月には広島バスセンターから4往復であったが同年5月には5往復となっている。(広電ニュースより)車社会になってから減便されたのであろうがいつ頃かは定かでない。また、昭和37年(1962)頃には加計~坂原~吉和中津原までの坂原線が運行されていたようである。

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蔵飾り-雲文と飛び鶴

2016年06月21日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和地区に残されている傑作の「雲文と飛び鶴」の蔵飾りで同一の左官さんの作品とみられ何度か当ブログで紹介したことがある。下画像の飛び鶴がみられる土蔵の一部は蔦が覆っており、無住で管理が行き届いていないようなので行く末が心配であり不定期で現状紹介をしていきます。


『はつかいちぶらり』開設10周年
当ブログを平成18年(2006)6月22日に開設して本日で丸10年となりました。万人向きの内容ではありませんが老化防止のために、事情のない限り毎日更新を続けおかげさんでこの間にトータル閲覧数312万PV余、トータル訪問者数62万IP余の御来訪を頂きました。皆様方のご支援と自身が健康であったことを感謝しながら次の10年に向けて頑張りますのでこれからも引き続き御来訪宜敷くお願い致します。

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旧湯の川温泉

2016年06月17日 | 「吉和地区」ぶらり


昨日紹介した自噴している湯の川温泉1号井からの冷泉は近所の家に配水されており、かつて冷泉を利用して湯の川温泉として営業されていたが平成18年頃にはすでに廃業されていた。
湯の川温泉はアルカリ性単純温泉であったようであるが一度も訪れることが無いうちに廃業されて現在は無住のようである。

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湯之元神社②-湯壷

2016年06月16日 | 「吉和地区」ぶらり


上画像は昨日紹介した湯之元神社境内から湧出している源泉地で「湯の池」「湯壷」といわれ、古くから冷泉が湧出していたものとみられ耕地地名は「湯ノ本」とある。

下画像は隣接地でボーリング(温泉名-熊崎温泉・湯の川温泉1号井)をして25℃以上~42℃未満の冷泉が毎分130㍑自噴しているようである。

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湯之元神社①

2016年06月15日 | 「吉和地区」ぶらり


先日紹介した熊崎地区のホース乾燥塔の脇にある湯之元神社で江戸期の地誌には湯牛王大明神とある。境内には湯の神を祀った境内社が建立されている。
当社には神像のほかに十二神将像(一躯-佐伯郡・大竹市の文化財より)、如来立像、十一面観音坐像など祀られているようで神仏習合時代の名残りであろうか。

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陶板画のある歩道-3

2016年06月14日 | 「吉和地区」ぶらり


陶板画のある歩道の画像は平成14年度(2002)の作品のようで、山椒魚や得意な絵などが描かれており、所々には旧吉和村の花であるレンゲツツジの陶板画が配置されている。
先月、冠高原のレンゲツツジをと訪れたが少し早すぎたのでつぼみの状態であった、満開時にと思っていたが訪れるのを失してしまった。

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陶板画のある歩道-2

2016年06月13日 | 「吉和地区」ぶらり


陶板画のある歩道の画像は平成12年度(2000)、平成13年度(2001)の作品のようで、オリンピックのスキージャンプ、カッパ、鳥、動物や得意な絵などが描かれている。
市域での陶板画は以前に紹介した廿日市スポーツセンター東側にある七尾陸橋の両側の手摺にみられる。

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陶板画のある歩道

2016年06月11日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和学園近くの国道186号から県道296号分かれ交差点付近はいつも車で通過していたが、先日来紹介していたホース乾燥塔の撮影で車を降りて歩道を歩いていると陶板画がはめ込まれていることを始めて知った。
陶板画からの情報では吉和小学校の卒業記念に作成されたもののようであり、画像は平成10年度(1998)、平成12年度(2000)の作品のようで、吉和の山や神楽面、得意な絵などが描かれている。

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細井原地区のホース乾燥塔

2016年06月10日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和細井原地区の吉和郵便局前交差点近くにある消防格納庫脇に建立されている消防ホース乾燥塔で高さは約9mくらいであろうか、三角形状の塔で上部は四角形となっている。
このホース乾燥塔はこれまでみてきた塔のうちで構造的な裏付けがされて一番安定性のあるもののようにみられる。これまで紹介してきた吉和地域でみられるホース乾燥塔は消防色の赤色に彩色されており旧吉和村時代に築造されたもののようである。

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熊崎・石原地区のホース乾燥塔

2016年06月09日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和熊崎地区の湯之元神社に隣接した消防格納庫脇に建立されている消防ホース乾燥塔(上画像)で高さは約12mくらいであろうか、三角形状の塔で上部は変形七角形となっている。
下画像は石原地区の教龍寺参詣石段に隣接した消防格納庫脇に建立されている消防ホース乾燥塔で高さは他のものとは低い約10mくらいであろうか、三角形状の塔で上部は変形九角形となっている。

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中津谷地区のホース乾燥塔

2016年06月07日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和中津谷地区の消防格納庫脇に建立されている消防ホース乾燥塔で高さは約12mくらいであろうか、三角形状の塔で上部は変形七角形となっており頓原地区のものと同じサイズのようである。

上部の床鉄板が腐食して穴が開いており頓原地区のものも同じ状態なので同時期くらいに建立されたものであろうか。

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頓原地区のホース乾燥塔

2016年06月06日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和頓原地区の消防格納庫脇に建立されている消防ホース乾燥塔で高さは約12mくらいであろうか、三角形状の塔で上部は変形七角形となっている。
吉和地区内にあるホース乾燥塔は何れも消防色の赤色に塗装されている。蔓草が頂部まで達しておりあまり機能していない施設なのだろうか。

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田植え民具-筋・交点付け

2016年05月29日 | 「吉和地区」ぶらり


吉和地区では見たことがないような六角枠と筋付け合わせたような効率的な民具が使用されていたようで、引っ張って行くと縦筋と交点の跡が付いていくものである。
下画像は吉和地区の他所にある民家跡の軒下に同じような民具の残骸がみられたので吉和地区ではこの民具が普及していたもののようである。

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