物置の片隅からかつて廿日市の銘酒であった家納喜のカップ酒のガラスカップが出てきた。
家納喜のダンボール箱は紙コップ酒180mlが30本入っていた出荷用容器で、ガラスカップ、ダンボール箱に廿日市町とあり町時代に製造されていたもののようである。
昨日紹介した福山市沼隈町にある元地御前神社の梵鐘は天文13年(1544)に大内義隆と厳島社神主を施主として鋳造されたものであるが、この梵鐘に刻されている銘文と同じものが刻されている梵鐘がある。
この梵鐘は享禄5年(1532)に大内義隆が寄進した山口市の興隆寺の梵鐘でこれに刻されている銘文のうち涅槃経、阿含経、地獄経の経文が全く同じであり、大内義隆寄進ということでこの経文が地御前神社の梵鐘に引用されたものとみられるのである。
福山市沼隈町にある西光寺の梵鐘でこの梵鐘は元地御前神社の梵鐘で大内義隆と厳島社神主を施主として天文13年(1544)に廿日市の鋳物師久枝直家によって鋳造されたものである。
江戸期の地誌(文政2年-1819)編纂頃には東広島市四日市の真光寺にこの梵鐘があったようであるが、いつの時代かに西光寺に移っており流転の梵鐘である。
毛利元清の母親である秋根の御大方は慶長6年(1601)に没しており、30年位前には普賢寺の道路向いに灰塚が残されていた。(上画像)
現在は納骨堂や開山墓碑、秋根の御大方供養墓碑などが整備建立されて灰塚は残存していない。秋根の御大方の墓碑は功山寺の毛利家の墓地に建立されている。
新下関駅近くの秋根本町にある普賢寺でこの寺は江戸期には普済寺と称されていたが明治期以降に改称されたようである。(下画像は30年位前の普賢寺)
毛利元就の継室である乃美氏は元清、元政、秀包を生んでおり、元就没後は元清の桜尾城に居たが、毛利氏の防長移封に伴って長門国秋根村に居住し秋根の御大方様と呼ばれていた。乃美氏没後にその邸跡に功山寺5世(洞雲寺17世)基外嶺雄の弟子である星岸伝寿が普済寺を開き位牌を安置し供養したようである。
昨日にも紹介した笑山寺(功山寺)は毛利秀元の請いにより功山寺3世(洞雲寺12世)三庭龍達が開いて後に弟子功山寺4世(洞雲寺13世)大雲守的に譲って隠退していた。
秀元の請いにより三庭龍達は廃寺であった潮音院に妙寿大姉の位牌を安置して妙寿寺と改めて住持となっており、三庭龍達は師である洞雲寺11世天翁玄播を開山とし自らは遠慮し中興2世となった。後に元清の位牌を安置して笑山寺と改称している。
笑山寺は洞雲寺の末寺で長府に移封された毛利秀元は廃寺であった潮音院を母親妙寿大姉の位牌を安置して妙寿寺と改めた。
以前紹介した功山寺は父親元清の位牌を安置して笑山寺と称していたが、秀元没後に法号巧山玄誉居士により巧山寺と改称しており、元清の位牌を妙寿寺に移し安置して笑山寺に改称している。
昨日小倉に帰る娘達の車に下関市まで便乗し長府など廿日市との関わりのある所を散策したので紹介します。
桜尾城にいた毛利秀元は関ヶ原の合戦後毛利氏防長移封に伴って長門豊浦郡などを分知され長門櫛崎城に入り毛利支藩長府藩の祖となった。
城跡は民有地、居館跡は県立豊浦高校の用地などになっており画像付近の石垣が唯一当時を偲べる遺構である。
呉市倉橋町は古くから造船の盛んな地であり、旧暦6月17日に厳島神社で催される管弦祭の御座船が厳島管弦船倉橋御用講によって建造され奉納されているようである。
昨日、倉橋町桂浜を訪れ倉橋建造の御座船展示場と厳島神社管弦船格納庫が桂浜海岸にあった。御座船展示場のものは昭和37年(1962)と昭和61年(1986)に建造され管弦祭に使用後倉橋町に寄贈されたもののようである。
大分県宇佐市内には当市洞雲寺の孫末寺である安楽院(上左)、賢勝寺(上右)、東光寺(下左)、大善寺(下右)の4ケ寺があり探訪してみた。
洞雲寺17世の基外嶺雄は洞雲寺を去って長府巧山寺の5世となっており、法嗣である星岸伝寿が安楽院、賢勝寺、東光寺、大善寺を開いて師である基外嶺雄をこれら4ケ寺の開山とした。
長府にある大乗寺は明治時代に改称されており、江戸期は浄厳寺でそれ以前は専称寺であった。
浄厳寺は桜尾城主毛利元清の子宮吉丸法名清厳院浄厳幻了の菩提寺であり、浄厳寺は中世廿日市後小路の光明寺の地にあった寺で、毛利氏防長移封に伴って専称寺を浄厳寺とし位牌を安置して菩提寺とした。
※ 昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数40万IPのご来訪と3日にはトータル閲覧数180万PVの閲覧をして頂きました。老化防止のために何とか更新している面白くもなく万人向きでない当ブログに多くの方々がご来訪して頂きまだまだ頑張らなくてはと思っているところです。
長府の巧山寺は毛利秀元が洞雲寺の十二世である三庭龍達を招いて開かれた寺である。
三庭龍達は師である洞雲寺十一世の天翁玄播を巧山寺中興二世とし洞雲寺開山の金岡用兼を勧請開山として自ら三世となった。巧山寺墓地には実際には関わっていなかった金岡用兼と天翁玄播の供養塔が建立されている。
長府にある巧山寺は関ヶ原の合戦後に移封された毛利秀元が古くからあった長福寺(下画像は長福寺の遺構仏殿-国宝)を修営して曹洞宗に改め、洞雲寺12世の三庭龍達を招いて開かれた寺である。
毛利秀元は父元清の位牌を安置して笑山寺と称していたが、秀元没後に法号巧山玄誉居士により巧山寺と改称した。
先日小松市に送った娘達は小倉に転勤となって転居し当ブログ休止中に手伝いに行っており、雨中の帰り道に廿日市と関わりのある下関市長府を訪れてみた。
中世桜尾城に居城していた毛利秀元は関ヶ原の合戦後、毛利氏の防長移封に伴って長門櫛崎城に入り支藩長府藩の祖となっている。毛利秀元の墓は長府功山寺の裏手長府毛利家墓地に葬られている。
東広島市河内町小田で深山峡上流部の椋梨ダム堰堤近くにある深山速谷神社で、なぜこのようなところに速谷神社の分祀があるのかと思った。
詳しいことは不明であるが表示によると昭和52年(1977)に当市速谷神社を分祀して祀られた新しい神社のようである。