浜田市市街地から国道9号線を益田方面に向かって行くと折居地区で県道303号線が分岐しており、県道に入りすぐの山裾に折居厳島神社がある。由緒などは不明であるが弁天島とあるので海との関わりで安芸国厳島神社を分祀勧請されたものとみられる。
地図をみると10数年前に県道303号線を進んだ室谷地区の山中にある菊の紋様が刻された墓碑を案内してもらったことがあるところの入口であった。
今日も元気で徘徊。。。。~~~
瀬戸ケ島にある厳島神社で瀬戸ケ島は浜田藩の主要な港であり、厳島神社には瀬戸ケ島捕鯨図、廻船図、和船模型などが奉納されているようで海との関わりを窺うことができる。
看板表示には宗像大社の分霊を勧請したとあるが、旧暦6月18日には神輿船による海上渡御があるなど宮島管弦祭を彷彿とさせる行事があるので、安芸国厳島神社を分祀勧請したものと思われる。
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所要で浜田市に行き例の如くの徘徊癖で石見路にある2~3の厳島神社を巡ったので紹介します。
浜田城跡の東北麓で松原湾に面したところにある厳島神社で看板表示によると応保2年(1162)に安芸国厳島神社を分祀勧請したようで、歴代の浜田藩主が尊崇していたようである。
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所要で松江市に行き出雲大社のお膝元に厳島神社があることが分かったので寄り道して探訪した。出雲大社から4km位であろうか出雲市八島町の広い田園地域に鎮座している。
文献では少し離れた乙見神社より万治3年(1660)に現在地に移すとあるのみで、なぜ出雲大社のお膝元に勧請されたのかは明らかでない。
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昨日、礼文島・利尻島の厳島神社を紹介したが、宗谷沿岸にも厳島神社があることが日刊宗谷の記事で分かった。
稚内の宿泊ホテルで記念にと最北端のローカル新聞「日刊宗谷」を貰った。帰宅して記事を見ていると宗谷地区にある厳島神社で25日、神事の後に神輿の渡御が行なわれたようである。ネットによると稚内にも厳島神社があるようでこれらから厳島信仰が最北の地にまで及んでいたことがわかるのである。
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礼文島の地蔵岩付近の民家に上画像の張り紙があったので、厳島神社の場所を聞きバス車中からチラッと見ることが出来た。
利尻島では海の岩上に北の厳島弁天宮が祀られていた。ネットによると当島には他所にも厳島神社が祀られているようで、遠く離れたこの地にまで海を介しての交流があって厳島神社が祀られたものであろうか。
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益田市匹見町にある高目速田神社で以前石組速田神社と紹介したが、拝殿内に高目速田神社と記されていたので呼称変更をする。
拝殿後方に2つの社殿があり左側が速田神社で右側は大元神社のようである。観光協会の表示によると「女神を祀る速田神(はいたがみ)」とあるが典拠は定かでない。匹見地方は廿日市と吉和通りの石州往還を経ての交流があったものとみられ速田神社や大元神社が祀られたものとみられる。
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大竹市栗谷地区にある瑞照寺で佐方の洞雲寺と関わりのある寺院である。
当寺の開山は洞雲寺4世興雲宗繁とされているが時代が離れているのでこれは勧請開山で、23世霊潭昭澄の弟子である昭巌俊亮が開山し自ら中興2世となり師である霊潭昭澄を伝法始祖とされている。
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湯ノ山温泉の湯の山温泉館裏手にある湯ノ山明神社には廿日市の鋳物師山田平左衛門が鋳造した鉄燈籠一対がある。
この鉄燈籠は広島藩主浅野吉長が湯ノ山入湯の際に山田氏に鋳造依頼し湯ノ山明神社に奉納したもので、山田平左衛門には褒美銀が下賜され鋳物細工人には下され物があったようである。
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湯来町、湯の山温泉の元温泉旅館に廿日市の銘酒ですでに廃業されてから久しい勝谷酒造の「勝力」が2ケ所と別の場所に家納喜酒造の「家納喜」の照明付き看板が残されていた。
玄関上の「勝力」看板には酒瓢箪と盃が表され瓢箪にうまい酒と記されており、現在飲食店として営業され常時照明が点けられているようである。
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岩国市美川町藤ケ谷にある速田神社であるが木造の両部鳥居は倒壊、本殿も崩壊しており拝殿も長くは存続できないであろう。藤ケ谷集落はかつて10数軒あったようであるが、現在高齢者2名のみの居住であり集落消滅はさけられないであろう。
江戸期の地誌には藤ケ谷に速田社がみられ明治3年(1870)に速田神社と改称したようである。江戸期には山代地方に9ケ所の速田社がみられるので古い時代には廿日市と山代地方の関わりが深かったことが窺われる。
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岩国市美和町阿賀にある速田神社で古い時代に上平良の速田神社(現在速谷神社)が分祀され祀られたものとみられ、江戸期には6月の十七夜や御鳥喰飯神事などが記されており、厳島神社との深い関わりが窺われる。
下画像は美和歴史民俗資料館に展示してある速田神社の神輿で、江戸期の地誌に神輿三基とあるのでその内の一基とみられる。
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折角の山口であるのでよく知られている瑠璃光寺を参詣した。ここ瑠璃光寺はなんと中世に当市の洞雲寺と繋がりがあったのである。
下画像の瑠璃光寺の正法眼蔵は洞雲寺に伝えられていたものであるが、享禄2年(1529)に洞雲寺から瑠璃光寺に寄進されたようである。詳細は廿日市の文化第20集を参照してください。
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京都の賀茂神社を分祀して祀られた歴史のある柳井市伊保庄の賀茂神社に参詣した。
享徳3年(1454)頃に廿日市の鋳物師であるひがしかり屋三郎次郎が賀茂の鐘を鋳造したところ柳井の金屋より独占権を侵害したと抗議をされたために詫びており、賀茂の鐘とはこの神社の梵鐘を鋳造したのではないかと思われるのである。
宇佐八幡神社本殿脇の覆屋の中にある鉄燈籠で、笠、火袋、中台、基礎部分が残され錆で表面はボロボロになっており以前にも紹介したことがある。この鉄燈籠の基礎部分には向い合った獅子が鋳出されており、下画像は以前紹介した生見の鉄燈籠基礎部分の獅子で両方ともよく似ている。
生見の鉄燈籠は廿日市の鋳物師である久枝綱家が鋳造したもので、宇佐の鉄燈籠は藤原朝臣安信が鋳造しておりこの鋳物師は廿日市の鋳物師ではないかと思われるのである。