以前にも紹介したことがある浜田市金城町の恩賀山厳島神社で、境内には移祀されたと思われる境内社が5社みられるが、その1社に大の字が表されているので大元神社(下画像)とみられる。
江戸期この付近は七条村で村内に厳島神社が3社と大元神社が4社みられるので、厳島神・大元神が勧請され厳島信仰、大元信仰が広く行われていたようである。
江津市桜江町江尾にある大元神社と国指定重要無形民俗文化財である大元神楽を紹介した市山にある大元神楽伝承館を探訪した。
明治初期の記録によると旧石見国内(美濃郡、鹿足郡、邇摩郡、安濃郡、那賀郡、邑智郡)に大元神社が560余社祀られていたことが記されている。各集落で祀られていたとみられる大元神はどのように信仰されていたものであろうか。
萩市の笠山には何度も訪れたことがあるが明神池畔にある厳島神社に今まで立ち寄ったことがなかったので今回初めて参詣した。
越ケ浜厳島神社は萩藩2代藩主毛利綱広が、当家尊祖である毛利元就が信仰していた芸州厳島神社を延宝9年(1681)に勧請し祀られたようである。
青海島の大比日沖合にある大比日弁天島の厳島神社(上画像)である。由緒は不明であるが地域の漁民によって勧請されたものと思われる。
仙崎港にある弁天島の厳島神社(下画像)で仙崎漁港の整備により弁天島は陸続きになっている。仙崎の町中にある祇園社(八坂神社)が勧請されたときに厳島社も勧請されたようであるが詳しいことは定かでない。
湯本温泉近くにある大寧寺は大内義隆主従終焉の地としてよく知られており、本堂裏手の境内墓地には大内義隆主従の墓碑がずらりと並んでいる。
大寧寺歴代の住職のうちで6代大庵須益禅師は周南市長穂の龍文寺4世でもある。大庵須益禅師の孫弟子が当市洞雲寺開山の金岡用兼禅師であり洞雲寺とかすかな因縁のある寺である。
江田島市大原にある宝持寺で当寺の記録では洞雲寺15世骨岫玄的禅師が宝持寺開山で洞雲寺22世の円巌瑞明禅師が宝持寺2世となっているが、年代的にみて骨岫玄的禅師は勧請開山とみられる。
当寺は平成11年(1999)の土石流で本堂が倒壊したために他所に新しく再建されている。下画像は昭和60年代頃に訪れた時のもので山門は被害を免れて移築されているようである。(廿日市の文化第20集「洞雲寺特集」参照)
上画像は大竹市木野地区にある大元神社で社伝では天正年間以前の創建とされているが定かでない。元文5年(1740)に社殿再造の棟札あるようであるがいつの時代かに厳島大元神社が勧請されたものとみられる。
下画像は立戸地区にある大元神社で碑文によると文政7年(1824)に立戸新開の鎮守神として祀らたようで後に烏帽子新開の鎮守神として祀られたようである。
大元神社は各地に祀られており石見国内の山間集落には厳島大元神社が勧請されて560余の大元神社が祀られており、どのように信仰され祀られていたものであろうか。
大竹市中津原地区の町並み裏手の山にある厳島神社でここから町並みが一望できる。江戸期の地誌には氏野大明神がみられるが厳島神社の由緒など定かでない。近世後期から近代前期に厳島神社を勧請して改祀されたようである。
境内には摂末社の天満神社、胡子神社、人丸神社、金比羅神社、稲荷神社、祇園神社が祀られている。
県境を流れる小瀬川沿いにある岩国市小瀬の宗玄寺本堂に架けられている喚鐘で、廿日市で鋳造活動をしていた山田家の作品である。
刻銘によると「宝永3年(1706)8月2日、冶工芸州廿日市之住、山田氏貞能」とあり、山田貞能の鋳造作品は14ケ所の梵鐘、喚鐘、宝珠、九輪、相輪、釣燈籠などの鋳造をしたことが知られている。
昨日、孫達が帰る車に便乗して下関市で下車し上新地町の厳島神社に参詣した。社伝では壇の浦合戦で平家に関連して安芸厳島神社を勧請し創建されたようである。社殿は平成4年(1992)に焼失したようであるが社殿は再建されている。
参道にある一の鳥居は道路上にある石鳥居で上部の笠木・島木・貫など民有地のマンションに食い込んでいる珍しいものである。
瑠璃光寺では4~5台のバスで多くの外国観光客が・・・一時外国にいるのではと錯覚するほどの多さであった。下画像は山口県有形文化財の瑠璃光寺正法眼蔵でこの正法眼蔵は洞雲寺に伝えられていたものであるが、洞雲寺住職の遷化にあたり瑠璃光寺住職が秉炬師(導師)を勤めその謝礼遺物として享禄2年(1529)に洞雲寺から瑠璃光寺に寄進されたようである。
桂公園北麓の妙見社と北辰妙見社、興隆寺梵鐘と元地御前神社梵鐘の仏教経典の偈、勧請された二ケ所の厳島神社、洞雲寺と瑠璃光寺の関係など中世には廿日市と山口は深い繋がりがあったことがこれらから窺うことができるのである。
山口市宮島町にある御堀厳島神社で江戸期の防長寺社由来には厳島大明神は大内家芸州厳島を勧請とある。社殿内には市重文の小さな多宝塔があるようで、これは山口厳島社から移されたようである。
山口厳島社は防長寺社由来によると応永14年(1407)大内盛見が芸州厳島より勧請したようであるが、幕末の混乱期元治元年(1864)に藩庁が萩より現在の県庁場所に移されてこの地にあった山口厳島社は御堀厳島神社に合併されたようである。
大内氏全盛頃の氷上山興隆寺遺構である梵鐘で大内義隆を大願主とし享禄5年(1532)に芦屋鋳物師によって鋳造されており国の重文に指定されている。
この梵鐘に刻されている銘文で天台座主親王が記した仏教経典の偈が、以前紹介した天文13年(1544)に大内義隆を施主とし廿日市鋳物師により鋳造された元地御前神社の梵鐘(現在、福山市沼隈町西光寺の梵鐘)にも天台座主親王刻銘はないけれど全く同じ仏教経典の偈が刻されているのである。
昨日、娘と孫達が九州へ帰る車に便乗し途中山口市で下車して徘徊した。先日桂公園北麓の妙見社を紹介したが、この妙見社は厳島神主家藤原氏が大内氏との結びつきが深かった時代か、神主家滅亡後大内氏の支配時代に守護神として祀られたものと思うと記した。
桜尾城に勧請したとみられる大内氏の氏寺、氏神であった氷上山興隆寺・北辰妙見社を参詣した。大内氏全盛頃は広大な伽藍であったようであるが大内氏の滅亡や明治の神仏分離で北辰妙見社と興隆寺の遺構は釈迦堂と梵鐘のみが残されている。
昨日、地域の人達としまなみ海道沿い瀬戸田、大三島方面を訪れ、例のごとく徘徊癖が疼きだしマニアックな所を探訪した。
耕三寺に隣接した戦国時代生口水軍の拠点であった俵崎城跡の東麓にある鹿田原厳島神社で、江戸期の地誌には建暦2年(1212)に勧請するとあり海とのつながりが深かったことが窺われる。