先日、原地区後背山地の落ち葉が厚く堆積した山道を縦走していたら通常の落ち葉とは違って白化し目立った落ち葉があった。
茶色の葉身部分が白くなりもろくなって剥落して小さな穴が空いて透けたように葉脈のみになりつつあった。このようになるのは自然現象なのか何かの要因でこのようになったのであろうか。
呉市の休山山頂から大仁王山(標高316.45m)、西鹿田手前の尾根筋を呉市の街造り草創期の標石である呉軍港築造物制限区域標石を確認するために縦走した。「休山を歩く」参照
休山山頂から南尾根の標石は以前に探訪しており、この標石は呉港家屋建築制限法による区域の境標石で、この呉港家屋建築制限法は村落から市街地形成の推進をするための家屋建築の規準とされたもので、現在の都市計画法や建築基準法などに相当するものであり、これらに基づいて順次市街地の建設が進んで呉浦は農漁村から軍港都市への変遷を辿っていったのである。
昨日の七曲峠から後畑峠に向かって尾根筋を進んでいくと最高所の通称茶臼岩山に幕末期砲台跡の石積みがみられる。通称茶臼岩山は先人から聞いたものであり正式山名は定かでない。資料によると芸藩の御台場で陣小屋場、篝焚小屋などがあったようで何と木炮が配備されていたようである。
この場所には先日紹介した通称汐見山の標石へと続く戦時中の陸軍輸送港域第二区標石第48号が残されている。
先日紹介した表平山の尾根筋を進んでいくと郡有模範林の山境標石の番号が若くなり標高594mの石州往還山県通りの七曲峠に至る。七曲峠は潮見峠ともいわれていたようで、昭和27年(1952)の国土地理院の地図にはこの道がみられるが現在の地図には記されていない。
峠から葛原方面に少し下った所にはかつて峠越えしていた人達の喉を潤していた峠清水(御水)跡が残されており、小祠が二ヶ所祀られ上部が折損した石仏が安置されている。
昨日、雪がある極楽寺山に登山したが途中3~40人位の中高年登山者と出会ったであろうか極楽寺山は人気のある山のようである。極楽寺には今年三度目の参詣をしてこの時期の蛇の池を見たいと足を延ばした。
蛇の池全面に氷が張っていたが厚い氷ではなかろう。かつては厚い氷が張っていたものとみられ明治末期頃まで天然氷を採取して広島市に供給していたようである。また昭和初年頃蛇の池に極楽寺山スケート場の設置が計画されていたようであるがその後は明らかでない。
通称汐見山にある標高635.35m(国土地理院地図には635.4m)の三等三角点で点の記情報によると点名は南峠で山字は南峠とあったので正式山名は南峠山のようである。
三角点に隣接して戦時中の陸軍輸送港域第二区標石第49号が残されている。この陸軍輸送港域内では色々な禁止事項や制限などが行なわれていた区域を表す標石である。
後背山地の三角点がある通称汐見山からの遠望で、手前の原地区から蛇のように蛇行している国道433号が上平良地区に下っており途中山陽自動車道が横切っている。その向こうには宮内地区、地御前地区、阿品地区がみられ瀬戸内の宮島、能美島、大黒神島などが遠望できる。
山名の通称汐見山は先人から聞いたものであり正式山名は定かでない。尾根筋を歩いていると樹々の間から瀬戸内が所々みられ画像ケ所が唯一の展望場所で葛原地区から登ってくるとまさに汐見の山である。
昨日紹介した石畳が残っている石州往還の名残り道を登って行くと標高629.2mの大沢峠となる。大沢峠は大嶽峠とも呼ばれていたようである。
大沢峠には石を積み上げた塚があり中央には枝を張った大きな木がみられるが、これは村境、山境を表しているものとみられる。峠には平坦部があり茶屋、休堂、馬繋ぎ場などがあったのではなかろうか。
今朝の後背山地は大雪であろう。
大沢通り石州往還の名残り道を登って行き大沢峠近くとなると山道はガレ谷となっており、ガレ谷から外れる頃から急坂となり所々に石畳がみられる。
今まで何度か往還の名残り道を登ったが落ち葉で石畳に気づかず前回登った時に一部の石畳を確認していた。脇往還なので整備された石畳ではないが延べ20m位が残っているのではなかろうか。
七曲峠から表平山の尾根筋を歩いていると約1km先の山間集落である峠地区のテレビ共同アンテナが立てられていることを以前紹介したが、当時はアナログ放送が終了して5ケ月位の時であった。(下画像)
このテレビ共同アンテナの左側は配線が少し変わっているので地上デジタル用のものであろうか。アナログ用の機器などは山中に放置されていた。
国道433号線現在の七曲峠から表平山の尾根筋を歩いていると所々に郡一、二、三、四、五、六、七、八、一〇と刻された標石が建立されていた。
この標石は明治32年(1899)に自治公共団体として佐伯郡制が敷かれた当時のもので郡有模範林の山境である。郡は林業の発達を計るために明治35年(1902)に砂谷村に模範林7町7段歩を設けたようである。
川末地区の出合で江戸期石州往還の泉水峠、楢原通り(車が通れない県道294号線)と大沢通りが分岐しておりここに茶屋があったようである。(下絵図赤丸)
出合から大沢通りを少し進むと田んぼの中に石州往還の名残り道がみられ、出合より往還道名残りが残る山道を約1.4km登ると標高629.2mの大沢峠である。
先週末、原地区の極楽寺山に連なる後背山地を縦走した。川末地区の出合から江戸期の石州往還大沢通りを登り大沢峠から691m峰(釜ケ谷山カ)~通称汐見山の尾根筋を通り標高635.4mの三角点を過ぎて国道433号線の七曲峠に出る。ここから表平山の尾根筋を通り江戸期の石州往還山県通りの七曲峠を過ぎて幕末期の砲台跡から後畑峠に至る。
後畑峠からは自動車道を通って今年二度目の極楽寺参詣をして廿日市参道35丁碑付近から分かれて清鈴園上に至る昔の山道を通った。若い頃に通ったことのある山道であるが急斜面を一気に下る険しく不明瞭な山道であり山慣れした人以外は通る道ではないようだ。
極楽寺参道の廿日市道29.6丁付近であろうか以前にも紹介した変形木で、幹の途中で裂けて折れ曲がりその両側に2又の幹が垂直に伸びている。
本来の幹である斜めになった幹からは途中太い枝が垂直に伸びており、裂けて突起となっている部分は腐っていきつつある。
極楽寺参道の廿日市道を登っていると枯れ木などでクソナバがみられる。当ブログ主は知っている食用キノコ以外はクソナバと呼んでいるがどのキノコにも名前があるのであろうが・・・
定かではないが上画像と中画像はサルノコシカケであろうか?