子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

51. じゃがいもとえんどう豆とたけのこ

2013年04月18日 | 疎開生活


写真は庭のグリンピースの花です。これが実になり食べられるようになるのは、もう少し先です。戦争中はグリンピースはえんどう豆と言っていたと思います。野球のストライクは「よし1本」と言っていたそうですから。そんな時代の少し先の季節のことです。

疎開先の母屋のおばあさんが皿にじゃがいもとえんどう豆とたけのこを煮たものを持ってきてくれました。
たけのこは最初に出る孟宗竹ではなく、真竹か淡竹(はちく)でした。じゃがいもは新じゃが、えんどう豆もたけのこも取れたてでした。
そのうまかったこと!忘れられません。だしを使ってあったか、よくわかりません。醤油だけで煮てあったかもしれません。

旬の味でうまかったのか、飢えていたからうまかったのか。その両方かもしれません。

貧乏のわたしは一流の日本料理も三ツ星、五つ星のフランス料理もこれまで食べたことがありません。
これまでに食べて一番おいしかったのは、このときのじゃがいもとえんどう豆とたけのこです。

50. 戦力になる農家の子ども

2013年04月09日 | 疎開生活
麦刈りでも田植えでも戦力にならなかったわたしですが、農家の子どもたちは戦力になっていました。

町の子はほとんど家の手伝いはしませんでしたので、学校から帰ったら路地や広っぱで遊んでいました。でも、農家の子どもは違います。疎開中農繁期に遊んだ記憶はありません。学校から帰ったら、畑や田んぼに出ていました。

伯母さんの孫、K子ちゃんのことを書きます。
K子ちゃんは当時小学3年生でした。家のことをよく手伝っていました。伯母さんちはこのころ水道が来ていませんでした。井戸は家から200メートルくらい離れたところにある共同の井川でした。そこに汲みに行きました。

天秤棒の両端にロープを下げ、その先にかぎがあります。そのかぎにバケツを下げます。それで井川から水を汲み、家まで運んできます。井川から家まではほとんど坂道です。

小さいK子ちゃんは地面にバケツが当たりそうになりながら、家まで水を運んでいました。風呂の水はなかなかいっぱいにはなりません。わたしも風呂はもらうので、この水運びをしましたが、6年生でも難儀しました。

K子ちゃんはよくこの水運びもこなしていました。子どもながらも彼女には感心していました。 

49. 田植えでも戦力にならない

2013年04月06日 | 疎開生活
麦刈りで全然戦力にならなかったが、田植えでも戦力になりませんでした。

麦刈りの次の奉仕作業は、田植えでした。
いまは田植えも機械でしますが、昭和20年代はもちろん手植えでした。苗の間隔をひもでわかるようにしたロープか竹を植え手の前に置き、苗を手で植えていきます。ロープのときには4,5人が苗を持って並び、自分の前の目印に植えていきます。苗を左手に持ち、右手でそれから3本くらい取り分け、親指と人指・中指で田んぼに差し込みます。

書くといとやすいようですが、これがなかなか難しく、土の中にうまく立ってくれません。倒れてしまいます。それを直していると、横で植えている人に遅れてしまいます。
横の人は自分の分を植えてから、わたしの分まで植えることになります。遅れないようにするためにはそうするよりほかないのです。

遅れないように気が急きます。苗は倒れます。足は水田に取られます。

戦力になりません。いるほうがかえって邪魔でした。