子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

56. しょうのう小屋で

2013年04月29日 | 疎開生活
下の集落にしょうのう(樟脳)小屋がありました。戸や窓のない藁ぶきの小屋があり、いつも水蒸気が立っていました。クスノキを伐採して、それから天然のしょうのうを取るのです。大きいクスノキを切っているところは見ましたが、どのようにしてしょうのうが出来るのか、出来上がった製品はどんなものか、見たことはありません。

昭和30年代半ばまで、クスノキを伐採していました。しょうのうの製品で一番知られているのは防虫剤です。このころまでは天然のしょうのうを防虫剤として使っていたのでしょう。

ここではしょうのうが主役ではないのです。
前に青年が集落にはいなかったと書きましたが、ひとりだけいたのです。それがしょうのう小屋にいたのです。二十歳代の青年が働いていました。健康そうな青年でした。そのころ、どうしてこんな青年が兵役につかずにここにいたのか、いまでも不思議です。

分散授業のお寺の近くにしょうのう小屋はありました。休み時間にわたしたち数人がしょうのう小屋に遊びに行きました。
くだんの青年がポケットからゴムみたいなものを取り出して、わたしたちになにかわかるかと聞きました。
わたしたちは頭を傾げるばかりです。
青年は口で空気を入れて膨らませました。
風船みたいだけど、違うようです。

その場にしょうのう小屋の、5年生の女の子がいました。その子が「うちは知っとる」と笑いながら言いました。その笑いはずーつと年上の女みたいでした。

後年、それは避妊ためのゴム製品と気づきました。
おくてもいますが、わせもいます。前回の高等科の先輩たちの夜這いも実話かもしれませんね。