霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

バレンタイン監督のすごさ

2005-11-16 20:58:47 | 経営/法律
 ロッテオリオンズが今年は生まれ変わった。万年Bクラスのチームが今年はセ・パ交流戦での優勝、パリーグ、日本シリーズ、そしてアジアシリーズをすべて優勝し4冠を果たしたのである。まさかロッテが優勝するとは思わなくあまり野球を見ていない素人ではあるが試合をするごとにうまくなっている感じがした、卒のない試合運びをしていて、手堅い試合であった気がする。

 それはボビー・バレンタインの名前からボビー・マジックと言われ選手起用術や掌握術が長けていたといえる。

 その1は各ポジションに入れ替わりの選手がいること、それもレギラー選手と変わらない働きができる選手に育てていることである。

その2は、ミスを責めず。気を楽にして、やる気を出す指導の徹底である。またミスをしても怒らず信頼を寄せ続けた監督の人間性が加味されて選手が最大の力を発揮したと言えよう。

その3は、優勝するには監督が常に指導するのでなく、選手自ら目標(優勝)をどう自覚するかにかかっている、そのために選手はどういうプレーをすればよいかを気づかせた。気づかせる雰囲気作りをした。

その4はデータ分析の徹底、統計アナリストをアメリカから連れてきて各投手の走者別、カウント別など細かい配球データからこの次はこうゆう球が来ると分析して相手チームを丸裸にしていく分析の成果が挙げられる。

その5は、能力の高い選手を起用するのでなく、いま調子のよい選手を、いまやる気のある選手を、相手投手に相性のよい選手をと、いまチームが最大限の戦力を出せる打線や守りを組むことに徹したこと。

その6はフロントが球団とファンを一体化し応援をしていったことにあろう。観客が1.5倍に増え、球団経営は約37億円の赤字予想が20億円の黒字になる見通しと言われている。

1から6の項目はすべて経営者として必要なスキルである。それを発揮できるバレンタイン監督がすばらしい。バレンタイン監督のような人が真の経営者といえるのであろう。

井上馨遭難の地

2005-11-16 20:03:09 | 歴史/古文書
 中園町の旧街道沿いに「世外井上馨候遭難碑」としるした石碑がある。幕末の頃幕府ははまぐり御門の変を理由に第一次長州征伐軍を進めてが長州藩ではこれに対して恭順の意を表すべきだとする保守派が少壮有意の正義派をしりぞけ時の家老を処罰し斬首した。いわゆる俗論党と正義党に分かれ対立していたのである。

 正義党の中心人物の一人であった井上馨は元治元年(1864)9月25日毛利敬親公の前で開かれた会議で井上馨は恭順派と争い武備を整へて幕府と戦うべきだと主張したため、湯田に帰宅途中、ここで反対派の壮士に襲われ重傷を受けた。しかし折り合わせた医師名医所郁太郎の手当てにより危うき一命を取り留めた。

 その後井上馨は明治政府の中枢にあって外務、農商務大臣を経て明治25年内務大臣となって、条約改正、行政整理、日清戦争後の運営などに当たった。晩年は実業に入ったが政界へも大きな力をもち各種の事業を育成するなど活躍した。

袖解き橋

2005-11-16 19:53:40 | 歴史/古文書
 中園町と泉都町の境なるこの橋は「袖解き橋」の石碑がある。ここは大内時代、いまから約600年前秋穂の港から山口までの秋穂街道は山口へ通じる主要街道であった。小郡方面から山口の町への入口であった。

この道は別名御上使道とも呼ばれ秋穂渡瀬を渡ってここから山口に入りました。

 全国各地から山口に登城した侍達は、狩衣、直垂の袖ぐくりしたものを、この橋まで来て旅装を解き、身なりを整えて入ったといわれる。このことからこの名が起こったと伝えられている。

 碑の歌人は、明治時代の歌人田辺玄節のものです。
   旅人の橋の名におう袖解きて 
         水にすがたを映してやみし
 
 今は道路拡張工事で片隅に工事の道具に囲まれて誰の目にもとらず立ちずさんでいる。