霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大内氏とゆかりの遺跡

2005-08-20 20:49:39 | 歴史/古文書
 考古学の基本的な思考は最初に収集→調理加工→一定のイメージ・仮説と進んでいくのである。

 大内氏ゆかりの遺跡で一番古いのは防府の多々良地方、周防国府跡から出た木簡である。平安時代初期の頃稲わらを達良(多々良の君)の納めると木簡に名が載っているのが出土した。周防国府の在庁官人であった。国庁跡のすぐ近く国司の館跡の近くの池状のくぼみで見つかる。中心的な位置で見つかったのが大きな意味がある。そこから力をつけ大内氏は鎌倉時代は幕府の御家人、室町時代は長門・周防外の守護と勢力を拡大したのであろう。

 大内弘世が山口を開府したといわれているが、教弘以前は一の坂川左岸には住居はなかった、鎌倉時代の後半、円政寺町のところに円政寺があり門前に家があったであろう。山口の人家が大きく広がるのは大内氏の館が築かれた教弘以降からである。政弘の代になりあらゆるものの整備が進み山口集住が始まる。

 大内氏館遺跡からの出土物は教弘ぐらいの頃までで、教弘以前は出てこない。弘世時代、明の超鉄が雨蒙一曲で書いてあるのが防州、長春城、日新軒といっており、山口という言葉は出てこないし山口という言葉が載っていない。日新軒というくらいなのでそう大きな館では無く教弘より前は寺社の一部を館としていたのかもしれない。

 教弘以前は都での動きが多く、山口での動きは多くない、香積寺、八坂祇園社など勧請した。一の坂川右岸、香山町、木町、古熊神社、ふしの川の左岸、大内盆地、興隆寺・乗福寺、仁平寺勧請。
などから見て五重塔がある辺り(香山町、木町)か大内盆地に大内氏の本拠地が置かれていたのではないか、大規模な館があったか?大きな館ではなかったと推定せざるを得ない。

 1444年大内氏実禄にある古文書で居館焼くと記録がある。その後大殿大路に居館が本格的に建設されたと思われる。周囲200メートル四方が大内氏滅亡後、龍福寺が建ち150から160メートル四方に縮小されている。

大内氏館の絵図は無いが、一遍上人の洛中洛外図の館・将軍邸に近い館と似ていると見てよいのではないか。

 教弘、政弘の時は広さは150メートル位の四方であったが義興の頃に200メートル四方に拡大した。土塁は無く溝があった程度、大内輝弘の乱の時輝弘が築山龍福寺を本陣として陣を張ったので、其のとき土塁と堀を築いた。其のときの館のイメージか伝わってきているのではないか。

築山館跡
 花御所将軍邸(百田正雄) 北御所・南御所→室町御所 義満→北御所に住んでいた。南御所→義持が住んでいた。 
 築山館もそういった使われ方もしていたかもしれない。
 大内館としての別邸として築いた。築山館を造ったのは教弘といわれてれいる・・・一般的に・・・厳密には造営した記録は無い。教弘が築いたは否定的。
 義興時代の遺物は見つかった。
 今残っている土塁があるが周囲を囲っていたのは土塁ではなく石組み・石垣であったと思われる。今の土塁は幕末の藩庁移転の時大量の石が必要で遠くからの調達は間に合わなく築山館の石を運んで藩庁を建設したものでその取り崩した残犀がいま残っているのが土塁に見えるのである。この見解がつじつまがあっているとのこと。
 今の土塁を壊すと石組みの残骸が出てきた。
 明治の初めに古老の説に、この築地四面にありて竹生い茂りとある。

高ノ嶺城
 規模は広い、数十万平方キロメートル、くるわの数59、堀切2箇所、さらに外側に遺構がある。大内氏が山口大神宮を勧請した頃から城としての役割を見ていたが、義長が築き、本格的には毛利氏が築城した。この高の嶺が萩本藩の砦とみなされていたが一国一城の令で廃城となった。

凌雲寺跡
 古文書が無い。「つわものどもが夢のあと」 了庵圭悟、1486年と1507年2度山口を訪れ乗福寺に出入りしていた。乗福寺臨済宗。凌雲寺も臨済宗ではないか

興隆寺跡
 大内館と同時代 300キログラムの銭が備前焼の壷に入り発掘された。大きな財力を持っていた。

乗福寺跡
 臨済宗の先駆的な役割、鳳凰の絵柄のかわらが出土朝鮮半島のかわら、政弘の頃領国運営が整備された、朝鮮半島との交易でかわらなどが入ってきている。

雲谷庵(軒)
 跡があったのか良くわからない。20年前に調査したとき中国製の素焼きの碗が出土しているということが事実といしてある。

常栄寺庭園
 雪舟庭として名高いが資料も無い。作庭伝承として1700年ごろの記録はある。庫裏の建替えの時境内の中で雪舟時代の素焼きのお皿が見つかる。

公開歴史講座・山口市史編纂室長のお話から05-07-02

十朋亭(じっぽうてい)

2005-08-20 18:21:01 | 歴史/古文書
 大内文化探訪の途中大殿地区の十朋亭に立ち寄った。お盆の14日のことである。路地を入ると右手に通路のような長屋風の家を行くと中ほどに庭に出る空間があった。庭に出ようとすると突然おばさんが「いらっしゃい」といわれびっくり受付があるのである。

 初めは無人の見学かと思ったのであるが「いつでもアートフル」の時と土日はオープンしているとのこと今日は土曜日である。

 この建物は約100年経過していると。明治の初期の建築物で二間しかない確かに作りはシッカリしている.庭の軒下の土間はコンクリートのように硬いが、これは土に炭を混ぜて固めたものでコンクリート様に硬くなっている。また色も黒い。

 この十朋亭は幕末、萩藩主毛利敬親が藩府を萩から山口へ移した文久3年(1863)ごろから藩士の宿所として使われ始めた。この家は醤油業の万代利兵衛の離れで醤油屋亀屋の3代目であった。高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、伊藤博文、井上馨など幕末志士や明治の高官が泊まった幕末史の史跡である。

核の廃絶に声を!

2005-08-19 20:31:32 | 随想
今朝の新聞では北朝鮮は核弾頭をすでに6から8個保有しているとアメリカの国防長官の諮問機関である米国防科学委員会のウイリアル・シュナイダー委員長発表である。

 すでに北朝鮮の高官もテレビニュースで核を作る知識は保有国並に持っているし核を作っている、保有している云々の発言をしていたがそれが事実に近くなった。

 報道ではパキスタンから技術を強引に入手したかして作ったのではないかと推測されている。

 日本近辺では中国、インド、パキスタン、ロシア、米国と核保有国は多く取り囲まれているのである。核ミサイルを積んだ潜水艦や戦闘機が空海と動きまわっているのがどのぐらいの数かわからないが、いずれにしても核戦争が起これば、いやボタンの押し間違いで爆発が起これば人類の存亡にもかかわる問題である。英知を出し合い核拡散防止と廃絶に少しでも近づける努力をして欲しいし惜しんではならない。唯一核被爆国として声を大きくしたいものである。

05-07-05

勝山城址と合戦

2005-08-17 09:01:55 | 郷土史
 勝山合戦(1554)の時代について、その合戦でついた地名や出来事が伝わっている。その例を拾ってみた。それ以前にも数度の合戦を陶氏との間でおこなわれいるので1554年についたものと断定は出来ないがこの合戦は壮絶であったのでほぼこの合戦で言い伝えられているものと思われる。

黄金の井戸・・・勝山城に本丸にある唯一の井戸であるが濁って困るので黄金を投げ入れたところきれいになった澄んだ水になったという。

風呂が浴(ほろがたん)・・・勝山城の水汲み場であったが、江戸時代に農業用溜池に改修された。

吊り岩・・・伝説では一本のかずらで吊って合戦に備えたという、今でも底の半分は浮いている。

源十郎台・・・陶氏との合戦の時、家臣源十郎が陶方に城から打って出て多数の敵を倒したのでこの名がついている。

千人塚・・・合戦の戦死者を祭る2基の塚が、古作法にのっとり城の北側に祀ってある。

鳴る道・・・ここを通ると鳴るといわれ刀が埋めてあるといわれている。

茶臼山・・・陶軍の弘中三河守が津和野の吉見氏の援軍を防いだ陣跡。

姥が迫・・・落城の時、若者を連れた乳母がここで味方に連絡するためほら貝を吹いたが、陶軍に聞きつけられたという伝説のある地

嘉年八幡宮・・・平安時代初期に宇佐から勧請、八幡縁起がある。神楽でも有名。勝山合戦の時、津和野より援軍に来た吉賀氏が高佐で戦い陶軍に追われて帰路ここで自害した。

荒神山・・・嘉年八幡宮は最初ここに勧請され、後に現在地の森山に遷宮された。

和田山・・・陶方の三浦越中守が陣を張り勝山城に篭る波多野滋信を攻めた。

龍昌寺・・・城主波多野氏の菩提寺。日限地蔵尊がある。

肩斬・・・合戦のとき敵方(陶軍)の肩が切られたところ

這原(はいばら)・・・敵(陶軍)の大将がひざを射抜かれ、はって逃げたのでこの地名がある。

若宮様・・・1554年陶氏と戦い壮絶な敗死をした波多野滋信の墓がある。

陶寄せ陣・・・合戦の時陶氏が陣を張ったのでこの名がついている。

写真は城主波多野氏の館跡である。

波多野滋信公館跡

2005-08-16 21:55:12 | 郷土史
 勝山城主 波多野氏の館跡、堀があったが今は用水池となっている。今この家は「波多野」という家ではなく別の姓の家になっている。手前に見えるのは用水池であるが夏で水はなく水草のような植物が茂っている。勝山城の登山道の横にある。

勝山城址

2005-08-16 21:03:04 | 郷土史
 15日に勝山城址を訪ねてみた山には登山はしなかったが、地元の人びとが書いた説明板はやはり半官びいきか吉見氏側のたった書き方をしている。今は山口県になっているし大内氏の領地ともなった場所であるが。子孫がいるとどうしても吉見びいきになってしまうのがが自然でしょう。その説明板を一部引用させてもらいこの勝山の説明に変えさせてもらう。
「この山の頂上は2000平方メートル削られ平らにされている。本丸跡や出丸跡が見られる。鎌倉時代末期津和野城の支城として築かれた。1553年(天文22年)陶晴賢に攻撃され熾烈な合戦を行い翌年(1554)3月3日落城した。其のときの城主は波多野内蔵介滋信で津和野三本松城主吉見隆頼の婿であった。吉見7人衆の一人といわれているがこの合戦で壮絶な戦死を遂げた。勝山城を落とした陶、弘中、三浦らの軍勢は津和野の三本松城を包囲して攻撃を続けたが吉見氏は毛利元就に援軍を依頼し毛利氏はどちらに着くか迷っていたが、大内氏は義隆時代から緩みが出ており大内氏をつぶす好機とみたか吉見氏に援軍を送ったそれに力を得て三本松城は5ヶ月の篭城を続けたが食料・矢尽き、ついに陶氏の和睦に応じた。その翌年(1555年)陶晴賢らは厳島の合戦で戦死や自刃をした」この勝山はふもとから見上げればいかにも急峻に見える。

安賀多教会跡

2005-08-16 19:33:49 | 郷土史
 15日にビリオン神父と交流のあった地福カトリック教会の安賀多教会を訪ねてみた。
 ビリオン神父に受洗を受けた原医院、小さな医院でいまもそこに家系の人がひっそりと医院を続けておられるようであったがその隣には広い原っぱと小さな分教場のような建物が奥に一軒建っているのみである。よく近づいてみると入口いわゆる玄関側に大きな十字架が屋根に掲げてあった。また裏に回ると左右二つに分かれたステンドグラスの窓がありまさに安賀多教会であった。当時の教会のにぎわいは感じられないが細々と信仰が続けられているようである。

 石碑は「安賀多記念  + 天主公教会 大正10年12月3日」と記録されている。今から85年前のことである。

大内館溝跡

2005-08-16 19:12:28 | 歴史/古文書
 大内館跡の発掘調査で04年に大内館の周囲に張り巡らされていた溝というか側溝が見つかった。

この石組み溝は1500年代前半に構築されているが、内門である西門が作られた頃(1500年代中頃)埋められていたそうである。石組溝の底に小石が引かれていて水が通ったあとがみられた。いわゆる排水溝として使われたいたと思われる。周囲に張りめぐらされていたかは、今の段階では西側だけは確かであるが他の面が確認されていないようである。

ホルンフェルス

2005-08-16 17:53:02 | 随想
 朝から亡父の墓参に行きその後、柚木の慈生温泉に立ち寄った、当主に聞くとここの温泉は飲用も出来るが塩素やナトリュウムを含むので血圧の高い人は呑まない方がよいとまた傷等にはこの温泉をつけるとよいと説明を受けた。時間があればまた湯治に行きたいものである。

 その次は須佐のホルンフェルスへ行く駐車場からは小道の断崖絶壁を断崖沿いに降りていくスリリングな遊歩道でこわごわと降りていく。足摺り岬よりも足が摺りそうで怖かった。
 
 ホルンフェルスは1400万年前に砂岩と頁岩がマグマの熱作用で変成したもので黒と白の鮮やかな縞模様は規模が大きく自然の力の強さと偉大さを感じ地球の力を垣間見たのである。雄大な自然を満喫した一日でした。

05-08-15

大内氏館跡内門

2005-08-16 17:34:46 | 歴史/古文書
 お盆の14日龍福寺近辺を散策した。今大内に館後の発掘と復元の計画がありその一環として内門が復元されている。これは外門でなくに西門を入りその敷地内にもう一つ門がありそれを内門と呼んでいる。

 柱は穴を彫り埋めて柱の前後に御影石で固定している中世の建築方法で復元されている。また「洛中洛外図」を参考に復元もされていると説明板に書いてあった。