霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

波多野滋信公館跡

2005-08-16 21:55:12 | 郷土史
 勝山城主 波多野氏の館跡、堀があったが今は用水池となっている。今この家は「波多野」という家ではなく別の姓の家になっている。手前に見えるのは用水池であるが夏で水はなく水草のような植物が茂っている。勝山城の登山道の横にある。

勝山城址

2005-08-16 21:03:04 | 郷土史
 15日に勝山城址を訪ねてみた山には登山はしなかったが、地元の人びとが書いた説明板はやはり半官びいきか吉見氏側のたった書き方をしている。今は山口県になっているし大内氏の領地ともなった場所であるが。子孫がいるとどうしても吉見びいきになってしまうのがが自然でしょう。その説明板を一部引用させてもらいこの勝山の説明に変えさせてもらう。
「この山の頂上は2000平方メートル削られ平らにされている。本丸跡や出丸跡が見られる。鎌倉時代末期津和野城の支城として築かれた。1553年(天文22年)陶晴賢に攻撃され熾烈な合戦を行い翌年(1554)3月3日落城した。其のときの城主は波多野内蔵介滋信で津和野三本松城主吉見隆頼の婿であった。吉見7人衆の一人といわれているがこの合戦で壮絶な戦死を遂げた。勝山城を落とした陶、弘中、三浦らの軍勢は津和野の三本松城を包囲して攻撃を続けたが吉見氏は毛利元就に援軍を依頼し毛利氏はどちらに着くか迷っていたが、大内氏は義隆時代から緩みが出ており大内氏をつぶす好機とみたか吉見氏に援軍を送ったそれに力を得て三本松城は5ヶ月の篭城を続けたが食料・矢尽き、ついに陶氏の和睦に応じた。その翌年(1555年)陶晴賢らは厳島の合戦で戦死や自刃をした」この勝山はふもとから見上げればいかにも急峻に見える。

安賀多教会跡

2005-08-16 19:33:49 | 郷土史
 15日にビリオン神父と交流のあった地福カトリック教会の安賀多教会を訪ねてみた。
 ビリオン神父に受洗を受けた原医院、小さな医院でいまもそこに家系の人がひっそりと医院を続けておられるようであったがその隣には広い原っぱと小さな分教場のような建物が奥に一軒建っているのみである。よく近づいてみると入口いわゆる玄関側に大きな十字架が屋根に掲げてあった。また裏に回ると左右二つに分かれたステンドグラスの窓がありまさに安賀多教会であった。当時の教会のにぎわいは感じられないが細々と信仰が続けられているようである。

 石碑は「安賀多記念  + 天主公教会 大正10年12月3日」と記録されている。今から85年前のことである。

大内館溝跡

2005-08-16 19:12:28 | 歴史/古文書
 大内館跡の発掘調査で04年に大内館の周囲に張り巡らされていた溝というか側溝が見つかった。

この石組み溝は1500年代前半に構築されているが、内門である西門が作られた頃(1500年代中頃)埋められていたそうである。石組溝の底に小石が引かれていて水が通ったあとがみられた。いわゆる排水溝として使われたいたと思われる。周囲に張りめぐらされていたかは、今の段階では西側だけは確かであるが他の面が確認されていないようである。

ホルンフェルス

2005-08-16 17:53:02 | 随想
 朝から亡父の墓参に行きその後、柚木の慈生温泉に立ち寄った、当主に聞くとここの温泉は飲用も出来るが塩素やナトリュウムを含むので血圧の高い人は呑まない方がよいとまた傷等にはこの温泉をつけるとよいと説明を受けた。時間があればまた湯治に行きたいものである。

 その次は須佐のホルンフェルスへ行く駐車場からは小道の断崖絶壁を断崖沿いに降りていくスリリングな遊歩道でこわごわと降りていく。足摺り岬よりも足が摺りそうで怖かった。
 
 ホルンフェルスは1400万年前に砂岩と頁岩がマグマの熱作用で変成したもので黒と白の鮮やかな縞模様は規模が大きく自然の力の強さと偉大さを感じ地球の力を垣間見たのである。雄大な自然を満喫した一日でした。

05-08-15

大内氏館跡内門

2005-08-16 17:34:46 | 歴史/古文書
 お盆の14日龍福寺近辺を散策した。今大内に館後の発掘と復元の計画がありその一環として内門が復元されている。これは外門でなくに西門を入りその敷地内にもう一つ門がありそれを内門と呼んでいる。

 柱は穴を彫り埋めて柱の前後に御影石で固定している中世の建築方法で復元されている。また「洛中洛外図」を参考に復元もされていると説明板に書いてあった。

大内氏館跡

2005-08-16 14:52:28 | 歴史/古文書
 大内氏はもともと山口での政務より京に出て幕府を補佐する管領代としてその権威を駆使した政治を行っていた。とくに弘世から義興の代まで、京や九州、中国で戦や政治の参政に意を注いでいて、山口にはあまり居なかったのである。

 大内氏館は弘世は大内御堀からこの山口へ館を移したと巷間言われているが発掘した結果では教弘の時代までの遺物しか出ていない、また土塁も無く溝があったと実証されている。土塁は大内輝弘の乱の時に急遽本陣となり築かれたものでそれが残っている為そう伝えられているのだろう。

 この写真は龍福寺資料館に掲げてる、大内氏館跡の図である。室町時代の居館の状況がよくわかってよいと思う。1444年に居館が焼けたと記録にありその当時大内館があったといえる。

キリスト教布教裁許状

2005-08-16 11:55:40 | 歴史/古文書
 サビエル記念碑のあるサビエル記念公園行く、昼時で人は少なく中学生がデートしていて二人で談笑していた。裁許状は南側の奥に有り余り目に付かないところにあった。

 天文20年9月大内義長は義隆の後を受け大分から山口に入り、トルレスに裁許状を天文21年に交付した。

 その裁許状の内容は「周防国吉敷郡山口県(あがた)大道寺の事 西域より来朝に僧 仏法紹隆のため彼の寺家を創建すべき由(よし) 請い望むの旨に任せ 裁許せしむ所の状 件の如し 天文21年(1552)8月28日 周防の介 花押」と訳せるのである。

ビリオン神父について2

2005-08-16 11:09:07 | 歴史/古文書
 ビリオン神父は山口・萩・津和野とめまぐるしく行きかいその当時は萩に行くにも6・7時間かかっていたのであるが精力的に動いている。特にキリシタン殉教の地で布教をしていくことに使命感を持っていたようである。

 殉教の地は藩のお膝元でお寺が多く仏教や朱子学が他より盛んで「不毛の地」と云われている所にあえてチャレンジしたのである。それとサビエルの足跡も発掘し記念碑を建てることにも熱心であった。

 ビリオン神父が山口カトリック教会に赴任し、日本で最初の教会が立てられクリスマスが最初に行われた地を探すべく豪商阿部家にある山口の古地図で調べたところ山口42連隊の敷地であり、やむ得ず近くの敷地を買い取り記念碑を建立したのである。それが現在の記念地である。

 山口が最初の教会でクリスマスを開いた地というのは、「天文20年(1551)サビエルが一度義隆に布教を断られたが再度土産を以って頼んだところ布教の許可を得る。無住の寺であった大道寺を教会と宿泊所につかった同年8月に大友氏が招いたので後事をトルレスに託して山口を離れた義隆没後義長から裁許状を得て山口で6年間布教したが義長自殺後大内氏滅亡後は活動に終止符を打った。」