カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

2017第4回WBC

2017年03月19日 16時18分31秒 | スポーツ

先ほどF組の試合が終わり

アメリカ 6-3 ドミニカ共和国

となった模様です。これで準決勝の組合わせが決まり

2017/03/21(火)10:00- オランダ対プエルトリコ

2017/03/22(水)10:00- アメリカ対日本

そして決勝は

2017/03/23(木)10:00- 上記勝者の対戦

2ラウンドの経過です。

あす月曜日が休日で、火曜日から準決勝であり、日本がこれに勝って決勝へ進めるかどうか、楽しみですね。

大谷を欠いて優勝できれば、確かに凄いことだと思いますが。


韓国の醜聞208 太古の昔から瀬戸際外交

2017年03月19日 12時32分14秒 | アジア

地政学的にも、朝鮮半島は重要な場所です。

私は朝鮮半島の古い歴史を熟知しているわけではありませんが、だからこそ「慎重さ」さえあれば「公平にみることができる」とも言えます。 


ところで、この第十回遣唐使は、ふたつのことでたいへん有名だ。ひとつは同6年(754年か)1月16日、『続日本紀』に「入唐副使の大伴古麻呂が唐僧鑑真・法進(ほっしん)ら8人をつれて帰朝した」とあり、鑑真の来朝が記されていること。もうひとつは、唐の朝賀に列して新羅使と席次を争ったことである。1月30日、大伴古麻呂は次のように奏上した。

大唐天宝12年(昨年)の正月1日、百官と諸蕃(朝貢の国々の使者)が朝賀いたしました。皇帝は蓬莱宮(ほうらいきゅう)の含元殿(がんがんでん)にて拝賀をうけられました。この日、我らは西側の列で第2の吐蕃(とばん:チベット)の下におかれ、新羅使は東側第1の大食国(たいじきこく:アラブ系イスラム国タージーク)の上でした。それで古麻呂は申しました。

「古より今にいたるまで新羅は久しく大日本国に朝貢しております。しかるに今、新羅は東側の上に列し、我らはその下に在ります。これは義(ことわり)にあいません」と。

そのとき唐の将軍が古麻呂の抗議をみて新羅使を西側第2の吐蕃の下に引きつれ、日本使を東側第1の大食国の上におかれたのです。 

これは『続日本紀』で遣唐使の朝賀について書かれている唯一の例である。 

新羅は高句麗・百済とともに古代朝鮮半島の3国のひとつだったが、663年の白村江の戦いで百済、668年には高句麗を滅亡させて朝鮮半島最初の統一王朝をきずいた。

ところが統一後まもなく、(新羅は)同盟していた唐と戦争になった。そして唐に対抗する必要から日本に使者を送り、同盟をもとめた。『続日本紀』では文武天皇2年(698)の元旦に新羅使が朝賀に列したとあるのをはじめ、しばしば新羅使のことが記されている。また答礼として日本からも新羅に使者をおくった。 

しかし、新羅にとって日本への朝貢が不本意だったのはいうまでもない。唐との戦争がおさまって緊張がゆるむと、日本との関係はぎくしやくと摩擦がましてきた。天平9年(737)2月15日には遣新羅使が「新羅国はいつもの礼を失して使者をうけいれなかった」と報告。上級の官人45人を集めて内裏で協議したところ、討伐すべきだという過激な意見もあったが、4月1日に伊勢神宮・大神(おおみわ)神社、筑紫の住吉・八幡・香椎宮(かしいぐう)などに幣帛(へいはく)を奉じて新羅の無礼をとがめるにとどまった。

天平12年の朝賀には渤海使とともに新羅使も列したので関係は修復できたようだが、その後も、なにかと対立した。だから、世界に君臨する唐の皇帝(このときは玄宗)の前で席次争いに勝った大伴古麻呂は大した手柄をたてたのである。ほんとうは藤原清河(ふじわら の きよかわ)の手柄だったかもしれないが、帰っていないのでしかたがない。 

:P.94-97 大角修(おおかどおさむ)「平城京全史解読」学習研究社2009年1月30日第1刷発行


1500年も前の朝鮮半島を理解するために必要」と思いましたので、少し長めでしたが引用しました。

続日本紀」は

  • その前に編纂された「日本書紀」や「古事記」などとちがって「信頼性がより高い」という評価がされています。
  • しかし「物語としてのおもしろさ」を欠き、退屈な箇条書きのような記述がみられるとのこと。
  • ただし「箇条書き」だからこそ、そこから見えてくることもあり、また書かれていないか、ほんの僅かしか記述されていない、などから歴史を詮索できる可能性を秘めているのでしょう。日本書紀や古事記では、省かれたことがあまりにも多すぎて詮索しにくいのでしょうか。

この続日本紀の記述によれば

1500年も前から朝鮮半島諸国は、隣国の中国に傾いたり日本に接近しようとしたり、まさに瀬戸際外交を続けていたようです。

現代の当事者(韓国)の言葉では「バランサー」の役割を自認していた」のでしょうが、瀬戸際外交・バランサーと表現は違っても、意味するところは同じだろうと思います。

朝鮮半島の歴史のほんの一部は次のようになります。

  •  475年 百済首都陥落か(高句麗の攻撃)
  •  562年 任那が滅亡か(新羅の攻撃)
  •  600年 このころ隋が高句麗討伐(これは失敗か)
  •  627年 新羅が百済に攻められ唐に援助を要求(援助なし)
  •  660年 百済滅亡(唐・新羅連合軍の攻撃)
  •  663年 白村江で倭・百済遺民軍大敗(唐・新羅の攻撃)
  •  668年 新羅が朝鮮半島を統一(高句麗を滅ぼす)
  •  698年 新羅が日本へ朝貢(新羅と唐が危険な関係に)
  •  737年 新羅が日本の使者を受け入れず
  •  740年 朝賀に渤海使・新羅使も列した
  •  894年 遣唐使を廃止(菅原道真の建議)
  •  901年 菅原道真が大宰府へ左遷される
  •  918年 高麗国建国〔-1392〕
  • 1392年 李氏朝鮮建国〔-1910〕

今回は、朝鮮半島では相当まえから「どっちつかずの怪しげな瀬戸際外交」をやっていて、決して今に限った瀬戸際外交ではなかったことを立証しようとしています。

新羅

  • ある時は、親中(唐)派となり朝鮮半島を制覇
  • ある時は、反中となり日本に援助を求め
  • ある時は、朝鮮時代のような中国の属国化

1400年後の今でも朝鮮半島は南北に分裂したまま。

韓国(南側)は中国の機嫌を抜け目なく見たり、アメリカの軍事力に頼る姿勢を見せたり、場合によっては日本を利用しようとしたりと、相変わらずの瀬戸際外交を続けています。

北朝鮮(北側)は、ますます深まる孤立化を怖れることなく、ただ金王朝の安寧だけを追い求め、国民のことなど眼中にはない瀬戸際外交を続けています。

朝鮮半島では「瀬戸際外交」から逃れることはできないのでしょう。

この瀬戸際外交は、もはや朝鮮半島の「伝統」の域に達している、と言えそうで、瀬戸際外交でないと朝鮮半島ではない、とまで言えそうです(笑)。

そして今、韓国未曽有の危機を迎えていますが、北朝鮮もっとひどい最悪の状態にあります。

不思議なことに2017年3月現在、韓国がその北朝鮮に接近しようとしています。

韓国では近く大統領選挙があり、新しい親北朝鮮の左翼政権が成立しそうなのです

マレーシア事件の醜態は言うに及ばず、食糧難を引き起こし脱北者が無数に発生しても「ひたすら金王朝の存続だけを考えている」あのひどい北朝鮮に憧れ続けている韓国もまた異様としか言えません!

これがあるかぎり、北朝鮮はたとえ近々崩壊したとしても「生き延びていく」ことでしょう。

もう世も末ですが、こんなことは朝鮮半島の歴史をふり返れば、大したことではないのかも知れません。

たくましいというべきか、しょうこりもなく、というべきか・・・・・・

かつて朝鮮半島は

3~4カ国に分裂し、今では2カ国に分裂したままなので、まだマシなのでしょうか。

このようなバラバラの状態が望ましいと思うかたがいらっしゃるでしょう。つまり

半島統一には必ず外部の力(例えば中国)が必要

だったと考えられ、中国など外部の力に頼るほうが

  • 外部から見れば「安定している」ようですが
  • 内部的には為政者だけに恩恵があり「庶民が最悪

でした。朝鮮半島諸国がこういった「歴史」を客観的に把握しているかどうか、についてはずっと疑問がありました。

どの国でもあり得るでしょうが

不都合な歴史観を徹底的に排除してきた朝鮮半島は、そのレベルが違い過ぎる、と言えます

「歴史を学問的・客観的にみることができない欠点」がある限り、朝鮮半島諸国は、永遠に底辺をうろつくのではないか、と案じられます。

常に庶民が犠牲者になるものであり

アメリカではトランプが「それはないだろう」と稚拙に改革しようとしていますが、大統領令が裁判所によってことごとく否定されてしまい、憲法から変えなければ公約を実現できそうにはありません。

朝鮮半島では、よって

このまま分裂したままのほうが韓族に相応しい「自然な姿である」と考えられます。

その一方で韓国では、一番嫌っているとも言える中国の後押しを利用して「統一させたい」と考える勢力もあるようで、これもまた歴史の繰り返しであり、その試みが正当・正統なものなのか私には分かりません。

さてさて、皆様はどう思われますか。