都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「モホイ=ナジ/イン・モーション」 DIC川村記念美術館
DIC川村記念美術館
「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」
9/17-12/11
「20世紀美術に新しいヴィジョンをもたらした」(同館サイトより引用)ハンガリー生まれの芸術家、モホイ=ナジ・ラースロー(1895-1946)の全貌を詳らかにします。DIC川村記念美術館で開催中の「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」のプレスプレビューに参加してきました。
フォトグラムやグラフィックデザインから、舞台芸術に絵画、そしてバウハウスの教員と、非常に多岐に渡る分野で業績を残したモホイ=ナジですが、国内でその全体像を知る機会はなかなかありませんでした。
本展ではそうした総合芸術家モホイ=ナジの創作を、遺族の全面協力の元、国内外から集められた約270点にも及ぶ作品群にて明らかにしています。先行した京都国立近代美術館、及び神奈川県立近代美術館葉山に続き、国内最後の開催地として、このほど千葉のDIC川村記念美術館へと巡回してきました。
展示について解説する井口壽乃埼玉大学教授
プレスプレビューでは本展の監修を担当した埼玉大学教授の井口壽乃氏のレクチャーが行われました。ここではその内容に沿って、展示の様子をご紹介します。
はじめに構成です。
1.ブダペスト 1917-1919 芸術家への道
2.ベルリン 1920-1922 ダダから構成主義へ
3.ワイマール-デッサウ 1923-1928 視覚の実験
4.ベルリン-ロンドン 1928-1937 舞台芸術、広告デザイン、写真、映画
5.シカゴ 1937-1946 アメリカに渡ったモダンアートの思想
これまではどちらかと言うとナジの芸術は、例えばフォトグラム、あるいは絵画のみと、ジャンル別に紹介されることが殆どでした。しかしながら今回はそうではありません。あえてジャンルをない交ぜにして時系列に並べることで、ナジの制作の変遷はもとより、それぞれの作品の関連を探る仕掛けとなっていました。
右、「自画像」1919-20年
冒頭にはポストカード大のスケッチが登場します。ナジはブダペストの大学の法学部に入学しましたが、すぐに第一次大戦が勃発したために戦地へ赴き、そこで配給された小さなカードに戦争の様子などを多く描きました。これらは全部で400種類もあるそうです。ナジが正規の美術教育を受ける前の『手の訓練』ともなりました。
左、「風景(オーブダの造船場の橋)」、右「工場の風景」 ともに1918年-19年
終戦後、ブダペストの美術学校の夜間クラスへ進学し、そこで美術を学び始めます。面を線で捉えたクロッキーの他、キュビズム的構成をとる「風景」(1918-1919)などは、ナジが画家として確立した最初期のスタイルを伺い知れる作品と言えるかもしれません。
そして1919年、ハンガリーの前衛芸術運動のアーティスト集団「MA」に参加します。また同年にはハンガリーの政治状況の混乱からウィーンへ亡命し、翌年にはベルリンへと移って、構成主義へと至る新たな境地へと進みました。
ナジの多様な芸風はこの時期に確立したと言っても過言ではありません。ベルリンでいわゆる進歩的な思想に触れたナジは、フォトグラムやタイポグラフィと言った作品を次々と手がけていきます。
そしてこの20代の作品で最も重要なのが、両面に絵画を表した「建築1あるいは青の上の構成」と「無題」(表1922年、裏1920-21年)です。
「建築1あるいは青の上の構成」(表)1922年
元々この作品は表部分しか知られていませんでしたが、調査により裏面の絵画の存在が明らかになり、それがナジのいわば成長過程を知ることにも繋がりました。
「無題」(裏)1920-21年
ポイントは表裏の比較です。後に描かれた表面は形態が完全抽象であるのに対し、その前に描かれた裏面はまだ具象の面影を残しています。この裏はベルリンの構造物、つまりは風景を示したものです。ようは裏面の発見により、ナジはベルリンへやって来てから僅か1~2年で、具象から抽象、言わば構成主義的な絵画を描きはじめていたことが分かりました。
左手前、「MA」第7巻5-6号 1922年5月(復刻版)
また前衛的芸術集団「MA」発行の雑誌でも作品を発表します。展示では一連の雑誌の復刻版なども紹介されていました。
左、「無題(ガラス建築シリーズ)」1920-21年
ナジはタイポグラフィに関して、ポスター、つまり印刷物という複製技術の中で、どうやって表現をしていくかということに関心を持っていたそうです。また建築物を幾何学的に表した「ガラス建築シリーズ」(1920-21)も、この時期のナジの制作をよく示す作品として挙げられていました。
1923年にナジはバウハウスの教員の地位につきます。そしてその1923年から1928年までの5年間の仕事を紹介する3章の「ワイマール-デッサウ」こそ、この展覧会の最も重要なセクションかもしれません。
彼は構成主義風の写真を手がけますが、その中で最も知られているのが「フォトグラム」と呼ばれる作品です。
ナジのフォトグラム
これはカメラを使わずに印画紙の上に直接物を置いて制作された写真のことですが、実は最もはじめに「フォトグラム」と名付けたのも、この種の作品を最も多く残したのもナジでした。
左、「無題」、右「自画像」 ともに1926年
ここで重要なのは「自画像」(1926年)と妻のルチアをモチーフとした「無題」(1926年)です。ナジの最初の妻であるルチアは写真家で、バウハウスでつくられた作品の撮影を担当していましたが、そもそもナジに写真を教えたのは彼女ではないかという説も存在しています。
ナジはこの「フォトグラム」で、芸術が生まれていくプロセスに、いかにして近代の技術を介入させていくのかということをテーマとしていました。
左、「バウハウス叢書8 絵画・写真・映画」1925年
またバウハウスとしての活動で象徴的なのは、自身のプランによる「バウハウス叢書」の仕事です。ここでナジはクレーやカンディンスキーらとともに、建築や写真技術に関する記述を著しています。さらにバウハウスの展覧会のカタログにも執筆していました。
タイポグラフィ、そしてフォトグラムを通し、ナジは文字と絵柄、さらには写真を交差させ、新たな視覚伝達、ヴィジュアル・コミュニケーションの在り方を模索していきました。
展覧会のハイライトとして挙げられるのが「ライト・スペース・モデュレータ(電気舞台のための光の小道具)」(1930年代)の再現展示です。これはナジの代表作としても知られるキネティック彫刻(動く彫刻)ですが、ここではオリジナルのコピーが出品されています。
「ライト・スペース・モデュレータ」1930年
ガラスや金属の玉、そしてスクリューなどが組み合わさった幾何学的な造形自体、独特の美しさが感じられますが、それを自動で回転させ、さらに光を反射させることで当てることで生まれて変化する『影』も大きな見どころであるのは言うまでもありません。
展示では外部より光を当てていますが、ナジの当初のプランでは箱の中に120個の電球を置いて照らしたそうです。出品元の要請により、この「ライト・スペース」は30分に一度、約2分間ほどしか稼働しませんが、ここは是非じっくり構えて作品と光と影の織りなすイリュージョンを楽しんではいかがでしょうか。
左、「ライト・スペース・モデュレータ」、右上、映画「光の戯れ 黒・白・灰」(6分) ともに1930年
また「ライト・スペース」を稼働させて撮った映画作品、「光の戯れ 黒・白・灰」(1930年)も重要です。ナジは構成主義の段階においても円や対角線がリズミカルに交錯する絵画などを描いていましたが、この「光の戯れ」でそれをさらに進化させたと言えるかもしれません。運動によって解放された光と影のイメージは、三次元の空間へと広がっていきました。
常に変化するナジの創作の旅はこれに留まりません。バウハウスを辞したナジはベルリンへ戻り、今度はデザイナーとしての仕事をはじめます。
左下、「紳士用上着の形をした宣伝用リーフレット」1932年
これがまたジャンルを問いません。紳士服の立体広告のデザインにはじまり、演劇「ベルリンの商人」の舞台美術、さらにはオペラ「蝶々夫人」の舞台や衣装デザインを手がけました。
ナジのストレートフォト
それにもう一つ、この時期の制作として見逃せないのがストレート・フォトです。ナジは移り住んだ都市や農村の風景、また人物のポートレートなどをいくつか撮影しています。展示ではさほど強調されていませんでしたが、私としては強く惹かれました。
さてナチスの台頭によりベルリンでの活動に制約を感じたナジは、ドーバーを越えてロンドンへと移ります。
ここでも航空会社のデザイン、ウィンドウ・ディスプレイ、また絵画としてアクリル樹脂を用いた作品をつくるなど、ナジの制作意欲は全く止むことがありません。
映画「ロブスターの一生」(16分)1935年
展示ではこの頃にナジが制作した記録映画が何本かスクリーンで紹介されています。中でもロブスター会社のコマーシャルフィルム、「ロブスターの一生」は注目の一作ではないでしょうか。ロブスターが漁師によって収穫されるシーンからはじまりますが、最後は何とも思いがけない形で結末を迎えます。その展開には驚かされました。
終焉の地はシカゴです。ナジは1937年、シカゴの「ニュー・バウハウス」の学長に就任すべく渡米します。当初、彼は高い理想を掲げ、この「ニュー・バウハウス」での教育活動に邁進しますが、学校の経営は困難を極め、僅か一年で閉校してしまいました。
しかしながらここで簡単に引き下がらないのがナジです。「ニュー・バウハウス」では殆ど無報酬であり、なおかつ運営資金のために作品を描き、販売しながら講義をしたそうですが、そうした努力も報われたのか、1939年に新たな「スクール・オブ・デザイン」を設立することに成功します。
そしてアメリカへと渡ったナジの芸術でとりわけ注視すべきなのは平面の展開です。
左、「V-003:CH6」1941年、右、「スペース・モデュレータ・スピッグ」1942年
中でも興味深いのがいわゆるオプティカル・アートとして知られる「スペース・モデュレータ・スピッグ」(1942年)ではないでしょうか。これはフレームの中に二つの円と透明なアクリル板を置くことで、立ち位置によって見え方が変わるものですが、ナジはこの頃インタラクティブアートに関心を持ち、このような作品と観客との関係を問うシリーズをいくつか生み出しました。
左、「スペース・モデュレータ CH For Y」、右「スペース・モデュレータ CH For C」 ともに1942年
また同じく「スペース・モデュレータ」シリーズのペインティングも見応えがあります。ナジはこうした絵画の領域において、アメリカのモダンアートの先鞭をつけました。
1943年にはそれまでの教育実践をまとめた「ヴィジョン・イン・モーション」の執筆にとりかかります。また1945年には原爆投下に心を痛め、それに関する連作にも着手しました。
右上、「ヴィジョン・イン・モーション」1947年
ナジが人生の幕をとじたのは1946年、まだまだこれからという51歳の時です。「ヴィジョン・イン・モーション」は生前刊行されることがありませんでしたが、没後、すぐに妻の手によって世に出版されました。それらは日本の「実験工房」の芸術家たちにも伝わります。幅広いジャンルで横断的に活動したナジは、その後の美術やデザインの世界においても様々な影響を与えました。
「5.シカゴ 1937-1946」展示室
さて展覧会に関する情報です。まず直近では10月12日より16日まで、「FOLK notebooksとDRAWING AND MANUALによる視覚の実験室」と題したイベントが予定されています。
「FOLK notebooksとDRAWING AND MANUALによる視覚の実験室」(PDF) 庭園内付属ギャラリー 10/12(水)~16(日)
ノート職人・黒澤俊介氏による工房「FOLK notebooks」とNTTドコモのCM「森の木琴」を手掛けた「DRAWING AND MANUAL」が、インタラクティブな仕掛けを施されたノートで楽しく遊べる実験室を5日間限定でオープンします。ご自分の頭の中のイメージが羽ばたいていく実験をお楽しみください。
会場では、自分好みの仕様が選べるセミオーダーメード・ノートの制作実演販売も予定しています。 *公式サイトより転載。
また11月末より会期中の土日の6日間、千葉市美術館との間に無料シャトルバスが運行されます。
「川村記念美術館-千葉市美術館無料シャトルバス」
運行日:11月26日(土)、27(日)、12月3日(土)、4日(日)、10日(土)、11日(日)
千葉市美術館発 13:00 / 15:00
DIC川村記念美術館発 14:00 / 16:00 所要時間:40~50分。
千葉市美術館での「瀧口修造とマルセル・デュシャン展」(11/22~2012/1/29)の開催にあわせたバスです。以前も一度、運行されたことがあり、私も利用したことがありましたが、思いがけないほどに両美術館が近くて驚かされました。瀧口+デュシャン展とナジ展をはしごするには最適ではないでしょうか。
facebookのアカウントをお持ちの方には朗報です。ナジ展の公式ファンページが開設されています。
「モホイ=ナジ展 視覚の実験室」@facebook
様々なジャンルに業績を残したナジは、かのレオナルドにも例えられることがあるそうです。それはともかくも、彼の辿った波瀾万丈の生き様と、何物にもとらわれない創作への探求心は、日本初となるこの一大回顧展からもひしひしと伝わってきました。
モホイ=ナジ写真
12月11日まで開催されています。
「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」 DIC川村記念美術館
会期:9月17日(土)~12月11日(日)
休館:月曜日。但し9/19と10/10は開館、10/11(火)は休館。
時間:9:30~17:00
住所:千葉県佐倉市坂戸631
交通:京成線京成佐倉駅、JR線佐倉駅下車。それぞれ南口より無料送迎バスにて30分と20分。東京駅八重洲北口より高速バス「マイタウン・ダイレクトバス佐倉ICルート」にて約1時間。(一日一往復)
注)写真の撮影と掲載は主催者の許可を得ています。
「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」
9/17-12/11
「20世紀美術に新しいヴィジョンをもたらした」(同館サイトより引用)ハンガリー生まれの芸術家、モホイ=ナジ・ラースロー(1895-1946)の全貌を詳らかにします。DIC川村記念美術館で開催中の「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」のプレスプレビューに参加してきました。
フォトグラムやグラフィックデザインから、舞台芸術に絵画、そしてバウハウスの教員と、非常に多岐に渡る分野で業績を残したモホイ=ナジですが、国内でその全体像を知る機会はなかなかありませんでした。
本展ではそうした総合芸術家モホイ=ナジの創作を、遺族の全面協力の元、国内外から集められた約270点にも及ぶ作品群にて明らかにしています。先行した京都国立近代美術館、及び神奈川県立近代美術館葉山に続き、国内最後の開催地として、このほど千葉のDIC川村記念美術館へと巡回してきました。
展示について解説する井口壽乃埼玉大学教授
プレスプレビューでは本展の監修を担当した埼玉大学教授の井口壽乃氏のレクチャーが行われました。ここではその内容に沿って、展示の様子をご紹介します。
はじめに構成です。
1.ブダペスト 1917-1919 芸術家への道
2.ベルリン 1920-1922 ダダから構成主義へ
3.ワイマール-デッサウ 1923-1928 視覚の実験
4.ベルリン-ロンドン 1928-1937 舞台芸術、広告デザイン、写真、映画
5.シカゴ 1937-1946 アメリカに渡ったモダンアートの思想
これまではどちらかと言うとナジの芸術は、例えばフォトグラム、あるいは絵画のみと、ジャンル別に紹介されることが殆どでした。しかしながら今回はそうではありません。あえてジャンルをない交ぜにして時系列に並べることで、ナジの制作の変遷はもとより、それぞれの作品の関連を探る仕掛けとなっていました。
右、「自画像」1919-20年
冒頭にはポストカード大のスケッチが登場します。ナジはブダペストの大学の法学部に入学しましたが、すぐに第一次大戦が勃発したために戦地へ赴き、そこで配給された小さなカードに戦争の様子などを多く描きました。これらは全部で400種類もあるそうです。ナジが正規の美術教育を受ける前の『手の訓練』ともなりました。
左、「風景(オーブダの造船場の橋)」、右「工場の風景」 ともに1918年-19年
終戦後、ブダペストの美術学校の夜間クラスへ進学し、そこで美術を学び始めます。面を線で捉えたクロッキーの他、キュビズム的構成をとる「風景」(1918-1919)などは、ナジが画家として確立した最初期のスタイルを伺い知れる作品と言えるかもしれません。
そして1919年、ハンガリーの前衛芸術運動のアーティスト集団「MA」に参加します。また同年にはハンガリーの政治状況の混乱からウィーンへ亡命し、翌年にはベルリンへと移って、構成主義へと至る新たな境地へと進みました。
ナジの多様な芸風はこの時期に確立したと言っても過言ではありません。ベルリンでいわゆる進歩的な思想に触れたナジは、フォトグラムやタイポグラフィと言った作品を次々と手がけていきます。
そしてこの20代の作品で最も重要なのが、両面に絵画を表した「建築1あるいは青の上の構成」と「無題」(表1922年、裏1920-21年)です。
「建築1あるいは青の上の構成」(表)1922年
元々この作品は表部分しか知られていませんでしたが、調査により裏面の絵画の存在が明らかになり、それがナジのいわば成長過程を知ることにも繋がりました。
「無題」(裏)1920-21年
ポイントは表裏の比較です。後に描かれた表面は形態が完全抽象であるのに対し、その前に描かれた裏面はまだ具象の面影を残しています。この裏はベルリンの構造物、つまりは風景を示したものです。ようは裏面の発見により、ナジはベルリンへやって来てから僅か1~2年で、具象から抽象、言わば構成主義的な絵画を描きはじめていたことが分かりました。
左手前、「MA」第7巻5-6号 1922年5月(復刻版)
また前衛的芸術集団「MA」発行の雑誌でも作品を発表します。展示では一連の雑誌の復刻版なども紹介されていました。
左、「無題(ガラス建築シリーズ)」1920-21年
ナジはタイポグラフィに関して、ポスター、つまり印刷物という複製技術の中で、どうやって表現をしていくかということに関心を持っていたそうです。また建築物を幾何学的に表した「ガラス建築シリーズ」(1920-21)も、この時期のナジの制作をよく示す作品として挙げられていました。
1923年にナジはバウハウスの教員の地位につきます。そしてその1923年から1928年までの5年間の仕事を紹介する3章の「ワイマール-デッサウ」こそ、この展覧会の最も重要なセクションかもしれません。
彼は構成主義風の写真を手がけますが、その中で最も知られているのが「フォトグラム」と呼ばれる作品です。
ナジのフォトグラム
これはカメラを使わずに印画紙の上に直接物を置いて制作された写真のことですが、実は最もはじめに「フォトグラム」と名付けたのも、この種の作品を最も多く残したのもナジでした。
左、「無題」、右「自画像」 ともに1926年
ここで重要なのは「自画像」(1926年)と妻のルチアをモチーフとした「無題」(1926年)です。ナジの最初の妻であるルチアは写真家で、バウハウスでつくられた作品の撮影を担当していましたが、そもそもナジに写真を教えたのは彼女ではないかという説も存在しています。
ナジはこの「フォトグラム」で、芸術が生まれていくプロセスに、いかにして近代の技術を介入させていくのかということをテーマとしていました。
左、「バウハウス叢書8 絵画・写真・映画」1925年
またバウハウスとしての活動で象徴的なのは、自身のプランによる「バウハウス叢書」の仕事です。ここでナジはクレーやカンディンスキーらとともに、建築や写真技術に関する記述を著しています。さらにバウハウスの展覧会のカタログにも執筆していました。
タイポグラフィ、そしてフォトグラムを通し、ナジは文字と絵柄、さらには写真を交差させ、新たな視覚伝達、ヴィジュアル・コミュニケーションの在り方を模索していきました。
展覧会のハイライトとして挙げられるのが「ライト・スペース・モデュレータ(電気舞台のための光の小道具)」(1930年代)の再現展示です。これはナジの代表作としても知られるキネティック彫刻(動く彫刻)ですが、ここではオリジナルのコピーが出品されています。
「ライト・スペース・モデュレータ」1930年
ガラスや金属の玉、そしてスクリューなどが組み合わさった幾何学的な造形自体、独特の美しさが感じられますが、それを自動で回転させ、さらに光を反射させることで当てることで生まれて変化する『影』も大きな見どころであるのは言うまでもありません。
展示では外部より光を当てていますが、ナジの当初のプランでは箱の中に120個の電球を置いて照らしたそうです。出品元の要請により、この「ライト・スペース」は30分に一度、約2分間ほどしか稼働しませんが、ここは是非じっくり構えて作品と光と影の織りなすイリュージョンを楽しんではいかがでしょうか。
左、「ライト・スペース・モデュレータ」、右上、映画「光の戯れ 黒・白・灰」(6分) ともに1930年
また「ライト・スペース」を稼働させて撮った映画作品、「光の戯れ 黒・白・灰」(1930年)も重要です。ナジは構成主義の段階においても円や対角線がリズミカルに交錯する絵画などを描いていましたが、この「光の戯れ」でそれをさらに進化させたと言えるかもしれません。運動によって解放された光と影のイメージは、三次元の空間へと広がっていきました。
常に変化するナジの創作の旅はこれに留まりません。バウハウスを辞したナジはベルリンへ戻り、今度はデザイナーとしての仕事をはじめます。
左下、「紳士用上着の形をした宣伝用リーフレット」1932年
これがまたジャンルを問いません。紳士服の立体広告のデザインにはじまり、演劇「ベルリンの商人」の舞台美術、さらにはオペラ「蝶々夫人」の舞台や衣装デザインを手がけました。
ナジのストレートフォト
それにもう一つ、この時期の制作として見逃せないのがストレート・フォトです。ナジは移り住んだ都市や農村の風景、また人物のポートレートなどをいくつか撮影しています。展示ではさほど強調されていませんでしたが、私としては強く惹かれました。
さてナチスの台頭によりベルリンでの活動に制約を感じたナジは、ドーバーを越えてロンドンへと移ります。
ここでも航空会社のデザイン、ウィンドウ・ディスプレイ、また絵画としてアクリル樹脂を用いた作品をつくるなど、ナジの制作意欲は全く止むことがありません。
映画「ロブスターの一生」(16分)1935年
展示ではこの頃にナジが制作した記録映画が何本かスクリーンで紹介されています。中でもロブスター会社のコマーシャルフィルム、「ロブスターの一生」は注目の一作ではないでしょうか。ロブスターが漁師によって収穫されるシーンからはじまりますが、最後は何とも思いがけない形で結末を迎えます。その展開には驚かされました。
終焉の地はシカゴです。ナジは1937年、シカゴの「ニュー・バウハウス」の学長に就任すべく渡米します。当初、彼は高い理想を掲げ、この「ニュー・バウハウス」での教育活動に邁進しますが、学校の経営は困難を極め、僅か一年で閉校してしまいました。
しかしながらここで簡単に引き下がらないのがナジです。「ニュー・バウハウス」では殆ど無報酬であり、なおかつ運営資金のために作品を描き、販売しながら講義をしたそうですが、そうした努力も報われたのか、1939年に新たな「スクール・オブ・デザイン」を設立することに成功します。
そしてアメリカへと渡ったナジの芸術でとりわけ注視すべきなのは平面の展開です。
左、「V-003:CH6」1941年、右、「スペース・モデュレータ・スピッグ」1942年
中でも興味深いのがいわゆるオプティカル・アートとして知られる「スペース・モデュレータ・スピッグ」(1942年)ではないでしょうか。これはフレームの中に二つの円と透明なアクリル板を置くことで、立ち位置によって見え方が変わるものですが、ナジはこの頃インタラクティブアートに関心を持ち、このような作品と観客との関係を問うシリーズをいくつか生み出しました。
左、「スペース・モデュレータ CH For Y」、右「スペース・モデュレータ CH For C」 ともに1942年
また同じく「スペース・モデュレータ」シリーズのペインティングも見応えがあります。ナジはこうした絵画の領域において、アメリカのモダンアートの先鞭をつけました。
1943年にはそれまでの教育実践をまとめた「ヴィジョン・イン・モーション」の執筆にとりかかります。また1945年には原爆投下に心を痛め、それに関する連作にも着手しました。
右上、「ヴィジョン・イン・モーション」1947年
ナジが人生の幕をとじたのは1946年、まだまだこれからという51歳の時です。「ヴィジョン・イン・モーション」は生前刊行されることがありませんでしたが、没後、すぐに妻の手によって世に出版されました。それらは日本の「実験工房」の芸術家たちにも伝わります。幅広いジャンルで横断的に活動したナジは、その後の美術やデザインの世界においても様々な影響を与えました。
「5.シカゴ 1937-1946」展示室
さて展覧会に関する情報です。まず直近では10月12日より16日まで、「FOLK notebooksとDRAWING AND MANUALによる視覚の実験室」と題したイベントが予定されています。
「FOLK notebooksとDRAWING AND MANUALによる視覚の実験室」(PDF) 庭園内付属ギャラリー 10/12(水)~16(日)
ノート職人・黒澤俊介氏による工房「FOLK notebooks」とNTTドコモのCM「森の木琴」を手掛けた「DRAWING AND MANUAL」が、インタラクティブな仕掛けを施されたノートで楽しく遊べる実験室を5日間限定でオープンします。ご自分の頭の中のイメージが羽ばたいていく実験をお楽しみください。
会場では、自分好みの仕様が選べるセミオーダーメード・ノートの制作実演販売も予定しています。 *公式サイトより転載。
また11月末より会期中の土日の6日間、千葉市美術館との間に無料シャトルバスが運行されます。
「川村記念美術館-千葉市美術館無料シャトルバス」
運行日:11月26日(土)、27(日)、12月3日(土)、4日(日)、10日(土)、11日(日)
千葉市美術館発 13:00 / 15:00
DIC川村記念美術館発 14:00 / 16:00 所要時間:40~50分。
千葉市美術館での「瀧口修造とマルセル・デュシャン展」(11/22~2012/1/29)の開催にあわせたバスです。以前も一度、運行されたことがあり、私も利用したことがありましたが、思いがけないほどに両美術館が近くて驚かされました。瀧口+デュシャン展とナジ展をはしごするには最適ではないでしょうか。
facebookのアカウントをお持ちの方には朗報です。ナジ展の公式ファンページが開設されています。
「モホイ=ナジ展 視覚の実験室」@facebook
様々なジャンルに業績を残したナジは、かのレオナルドにも例えられることがあるそうです。それはともかくも、彼の辿った波瀾万丈の生き様と、何物にもとらわれない創作への探求心は、日本初となるこの一大回顧展からもひしひしと伝わってきました。
モホイ=ナジ写真
12月11日まで開催されています。
「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」 DIC川村記念美術館
会期:9月17日(土)~12月11日(日)
休館:月曜日。但し9/19と10/10は開館、10/11(火)は休館。
時間:9:30~17:00
住所:千葉県佐倉市坂戸631
交通:京成線京成佐倉駅、JR線佐倉駅下車。それぞれ南口より無料送迎バスにて30分と20分。東京駅八重洲北口より高速バス「マイタウン・ダイレクトバス佐倉ICルート」にて約1時間。(一日一往復)
注)写真の撮影と掲載は主催者の許可を得ています。
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