はらじゅく86のブログ

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読ませていただきます。

2016-06-22 23:41:56 | 日記


コメント欄に書き始めたのですが、投稿にした方がブログの賑わいにもなると
思いここに書かせていただきます。

良い本を紹介していただいて有り難うございます。
ほんとうに時宜にかなった本の取り上げ方ではないかと感じます。
今、図書館に予約を入れてみたのですけど、すでに予約者9人なのです。
明日にでも、時間があったら本屋に寄ってみるつもりです。

しかしこの「日本会議」という団体には、以前から興味をもっています。
今まで幾つかの関連記事をよんだりしたことがあるのですけど、でも大部分を
忘れてしまっています。

また、この本の著者は知らない方ですが少し調べてみると、その出自からする
履歴のすべてがとても複雑な人のようですね。また、扶桑社の出版物というと
すこし色つきで見てしまいがちですけど、この本についてはそうとも言えずわけ
の分らない部分があるようなのですが(もちろん僕にとって)。
とにかく”百聞は一読にしかず”ということで、読んでみたいと思います。

それと、今年の4月に発売された本のわけですけど、アマゾンをみたらベスト
セラー1位で、カスタマーレビューが127件なのですね。
とにかく読ませていただきます。

それにしても、参議院議員の選挙が始まりましたですね。 


おすすめ図書

2016-06-22 20:08:19 | 日記

さて、選挙も公示となりました。

その前に読んだらどうかなと思う本「日本会議の研究」扶桑社

読み終わって疲れたら岩波書店が珍しく出しているエンターテイメント系の「裏切りの晩餐」

 

ブログ継続のご要望がありましたが、その後 su-さん以外の方の投稿もなく、管理人はいささか残念で寂しい思いがしております。

どなたかの投稿があるまで、天照大神のごとく天の岩戸に隠れ、ブログを見守ることと致します。(笑)

あまり投稿がないと無料ブログのため、宣伝だらけになってしまいますので、近況やsu-さんのご提案のとおり食事、健康についての意見交換なども良いかと思いますので、皆様ご協力よろしくお願い申し上げます。


舛添さんと栗本慎一郎……

2016-06-22 01:06:05 | 日記

ニュースによれば、東京都知事としての舛添さんが登庁するのは、退職の
日付である本日の21日ではなく、昨日が最後の日だったそうです。
そして昨日、舛添さんが都知事として最後に退庁する様子はテレビニュース
で何度となくくり返してみることができました。

報道番組でもバラェテイー番組でも、その退庁の仕方がよくないということで、
ぼくが番組を見た範囲では、ほとんどのコメンテーターから批判されていました。
おまけに幾つかの局では、過去の都知事の最後の退庁時のビデオ映像と
比較されてしまって、そうした様子が余りにも好対照であったために、昨日の
舛添さんの異常な姿が際立ってしまったと思います。 

ぼくもそうした映像を見ながら、これはダメだなーと思いました。
これでは、まったく舛添さんらしくないのではないか?本当に舛添さんはあの
うな退庁の仕方で良かったのか。
舛添さんは、都議会での最後の挨拶の中で、「東京を世界一の都市にしようと、
私なりに全力を尽くしてまいりました
」と言っていたはずです。
舛添さんが全力で頑張ったのは間違いなかったとして、しかし舛添さんは一人で
頑張ったわけではなく、都庁の職員の人たちと一緒に共々に頑張ったはずです。

だったら、一緒に共々に全力で頑張ったはずの職員がいる都庁という職場に、
振り向くということもすることなくして、足早にさっさと車に乗り込んでしまうとい
う舛添さんの姿は、あってはならない映像として見たくはなかったですね。 

東京都庁という職場は、舛添さんにとって2度目のチャレンジでその職場の
トップになることができた、念願の職場であり役職であったはず。
それなのに、あのような最後のお別れの仕方というのは、ぼくには考えられ
ないし、あってはいけないことだとおもうのです。

当然ながら、最後の退庁の仕方については舛添さんなりに考えられた結果
のことなのだと思うのですが、画面で拝見する限りでの舛添さんの様子は、
何かかぎりない拘りに満ちたような表情を感じました。舛添さんの何かへの
執念のような、いい加減な憶測は控えなければ失礼だとはおもっても、
しかし舛添さんのその一途な表情と一挙一動にはなにか限りない拘りと
虚しさを感じさせられましたですね。今の舛添さんには、だれが何を言っても
聞く耳をもたないのではないかと。

こうした人としての在り様というのは、虚無といった言葉に近いように思います。
舛添さんの中にも、そしてそうした舛添さんを感じるぼくとのお互いの間には、
そこに底流するのは、虚無感ですね。
よく分りませんけど、ほんとうに空しい感じ以外のなにものでもない。 

話は変わりますが、
Dさんと長話をする機会が多いのです。きょうも話しているなかで、たまたま
本の話になった時にDさんが、吉本隆明さんの対談本を自分の書棚で見つけ
たよということだったわけです。ぼくもその本をもっているので、じゃあふたりで
読書会をしましょうということになったのです。

少し前に、少し回っている頭の中で、その本『相対幻論』1983年冬樹社(栗本
慎一郎との対談)のページをめくってみたのです。 そしたら、栗本さんの後書き
「経済人類学と吉本隆明」で目に入った言葉にすこしばかりひきこまれたのです。

「学者にせよ思想家にせよ、彼は徹底的に私的になることによってはじめて
時代の公傷をにないうる。私的であることを拒否し感性を解放せざる者は、
傲慢な教条主義の枠内にとどまることしか出来ない」

この部分の言葉が鉛筆の線で囲まれていたので目に飛び込んできたわけです
けど、読みながら、舛添さんのことを連想してしまったのです。この文章の理解
について文脈を抜きにしてもしなくても、いずれにしても理解が届かずよく分ら
ないということは、僕のいつもどおりのことなのですけど、でも、舛添さんは、
ここで栗本さんが言っている「私的」という言葉を、まったく間違って理解してし
まっているのではなかったのかと。

舛添さんは、時代の公傷を真摯にになおうと私的にも頑張るはずであったのに、
その公傷を徹底して私的に掘り下げて突き詰めて課題化して、というプロセス
を辿らなければならなかったのに、しかしそこを私的に流用してしまった?
そしてまた、その「私的」を私的に指摘されてしまったという悲劇。
なのでしょうか?
すみません、よくわからないことを、適当な解釈のし過ぎをして間違っているか
もしれません。そうしたら、ご指摘をいただけたならばほんとうに感謝です。

ここで栗本さんが言われている「私的」ということは、たしか小林秀雄が同じよ
うな意味合いで言われていたような記憶があるのです。
私的を徹底する方途以外に事柄の本質へと辿りうる道筋はあり得ない!
と言ったようなことだったと。大昔の微かな記憶なのですけど。
小林さんから”君は君自身でいたまえ”といった言葉をきいた憶えがある
のですが。

それにしても、 上記した栗本さんの言葉、「私的であることを拒否し感性を
解放せざる者は、傲慢な教条主義の枠内にとどまることしか出来ない」は、
「私的」という言葉を誤解しない限り、とっても刺激的なつよいことばだとお
もうのです。70年代にも通用したような、また高倉健!のその余りにも私的
・義理人情的な生きざまとも共通する可能性が秘められた。
(昔、健さん主演の映画は何本か見ました。今みたらどんな印象なのか)

でもその反対に、専門なんとかといわれ、光の向け方、方向性が間違って
いるのではないかと厳しく批判された燈台のお役人さんもいたような記憶
があります。
相変わらずいいかげんで生意気なぼくの言辞は、ここでもご批判をいただ
くことになるのかもしれません。 

明日読み返してみます。 
そして読み返してみたけれど、なんだか書いた本人がよく分らないといった。
そもそもこの本の読書会をするとしたら、だれかわけ知りの方に道案内を
お願いしないと無理ですね。wikiを道案内に頼るレベルでは無理そうだし、
でも、考えてみたら自身にに引っかかるところだけをお互いに出し合って、
お互いの分らなさを分担して調べ合えば、そして1年くらい時間をかければ
少しは理解とは言えなくても、感想を確認しあえるということなのではないかと。 

すみません、ここまで読んでくださった方は一人か二人だと思います。
もう自分でもなんだかよく分らないことについてくどくど愚だ愚だと書き連ねる
といった投稿はやめにします。健康や食事について意見交換でもできたら
いいなと思ったりします。 

きょうは、雨がいつ降ってよいといったお天気模様です。
これから、またテニスです。このテニスもいつまで続けることができるのやら