はらじゅく86のブログ

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新宿の酒♪

2012-10-12 23:26:38 | 日記

いよいよ夏という季節も終りのようです。きょうはテニスで今年初めてトレーニングパンツをはいてやりました。また所属するテニスクラブの会長さんは若くてとてもタフな方なのですが、風邪をひいてしまったようです。この今の端境期というのは、微妙な体調管理が必要なんでしょうね。昼と夜にそれぞれ何を着たらいいのか、夜寝るときに布団の上掛けをどうしたらいいのか、こうした選択が問題になっている今日この頃というわけです。

<大好きな夏の見事な積乱雲(入道雲)。入道雲とは雲の上部が丸く見えるのが僧侶(入道)の姿(又は坊主頭)に似ている故の通称なのだそうですね。ここに最初は夏雲と書いたのですが積乱雲の方が適切ですね。読み返したら気になったのでグーグルしてみました。>

もう夏期のスポーツに特有な猛烈な汗にも、僕はこれは大好きなのですが、いよいよお別れというわけです。スポーツの汗といっても、夏に掻く汗と冬の汗はちがうとおもうのです。冬にかく汗は何だか人工的な汗という感じがします。それに比べて盛夏に掻く汗は、地面に滴り落ちるという汗なのですがとても気持がいいのです。冬の人工的と感じるような汗とちがって、盛夏の汗は天然100%の汗という感じがするのです。汗に違いがあるなどというと、そんな筈はないでしょうと言われるると思います。でも僕の感覚のなかでは確かな実感としてあるのです。その気持ちは多分、このクソ暑さの中でも俺は今テニスをやっっているぞとか、この滴り落ちる汗は俺が生きていることの証しだぞ、といった自己確認というような意識に通じることなのかもしれません。

しかし突然なのですが、ここでなぜか読売新聞と朝日新聞そしてネット上の毎日新聞についてなのです。この3紙の数日間の記事について気になったことがあったので、ここに少しだけ書かせて頂きます。皆様はお読みになったりお聞きになったりしてご存知のことかと思いますが(僕は上記3紙以外はTVも含めて未確認です)、あの「東電OL殺人事件」の再審に関係した報道の問題についてなのです。読売新聞のこの11日朝刊の一面には、他紙を圧倒するスクープが2件ありました。一つは「ips心筋を移植」という、いま現在の情報を踏まえるとガセネタという類の記事と、もう一つは、ここで問題にしたい「東電OL殺害 検察が無罪主張へ」というスクープ記事なのです(これは朝日紙との比較です)。

読売新聞はこの記事について第一面と社会面で大きく詳しく取り上げていました。読売新聞11日http://9oo.jp/tBHT4(毎日新聞10日付ネット記事tp://9oo.jp/nqI06)。でも、朝日新聞では、今日にいたってもまったく取り上げていません。ネットでみても音沙汰?がなくとても気になったので朝日紙に電話をしてみました。担当者は、「確かに記事としては取り上げておりません」ということでした。編集とかデスクとかに回していただいて、なぜ取り上げないのですかということを聞きたかったのですが、担当者はそれはできませんというわけです。しかし、そうした問い合わせがあったことについては伝えておきます、ということでした。

しかし、朝日紙はどうしてこの事件の再審の核心的な問題について、なにも書かないのでしょうか。二番煎じはやっていられないということなのか、それとも東電に気兼ねしているのでしょうか。この事件を記事にするということは、「東電」の文字を書かないで済ますことはできないわけです。でもそんな筈はないと思うし、そんなことごととは無関係な、書かないことの何かの理由があるわけなのでしょうか。例えば、読売紙の今回の「ips心筋移植」のスクープ記事のような、勇み足以前のお粗末な情報源への認識不足の問題のように、情報源に対する信・不信といった問題があるわけなのでしょうか。しかしぼくごときがここで推測してみても始まらないということも確かなことではあるというわけですが、気になることも確かなことです。でも、「gooさん教えて?」や「ヤフー知恵袋」にお聞きしてみても分る問題ではないですよね。多分?

僕はこの事件については、事件当時からいろいろな意味でとても興味をもっていました。(事件について例のウイキさんですがhttp://9oo.jp/kstWX、もうひとつhttp://9oo.jp/bcpsY) 以前このブログにも少し書いたことがありますが、佐野眞一さんの本によって事件の全体と細目について教えられてからは特別な思いをもたされていました。こうした気持ちをもったのは、佐野さんのとてつもないエネルギーの下で調べられ(例えば、被告とされたゴビンダさんの故国ネパールに行ったり、とにかく事件の中心と周縁について徹底した掘り下げがなされていると思うわけです)書かれた事柄が多分正しいであろうということを、信じさせられたからなのです。

この事件の特異性については言うまでもないのですが(上記URL)、しかしこの事件の核心的な問題は、犯人であるという証拠がない東南アジアの外国人が犯人とされてしまったことです。そこでは、法と正義を守るべき検察が、事件現場で収集し保全されていた物的証拠を冷静に科学的に判断することをせずに、曖昧な状況証拠を根拠に誤った予断を作り上げてしまった訳です。11日読売紙の社会面の大見出しは「決定的証拠 検察白旗」とあります。この証拠とされた物件は、事件発生後の警察による捜索で収得されていた訳ですから、今更といわれても何とも不思議なことという以外にないわけです。

この記事が本当だとしたら、検察が殺人犯としてでっち上げた人について”検察が無罪を主張”する、ということはどういうことなのかと思うわけです。まあ、ある意味では何でもありというのがこの世の中の成り行きである、ということにしても、しかし、検察はこれから、どのような総括をするのかということに注目したいわけです。あの菅谷さんの冤罪・無罪との異同にも興味を持たされます。

こうした冤罪事件や東電・福島原発などでも思うことなのですが、間違ってしまった!ということについての責任はどうするのかということなのです。先の戦争では裁判という形で戦争責任が問われ、死刑判決も下されたわけです。でもこの冤罪事件で、約15年間を犯人とされて虐待され続けたゴビンダさんへの責任はどうなるのだろうと思うのです。国家賠償責任という金銭での法的責任が果されるべきであることは、言うまでもないことです、でも、それだけでは何だか違うような気がする訳です。例えば、この事件の担当検事さんの責任はどうするのでしょうか。関係した検事さんだけでも数十人はいる訳です。この事件で検察は、「間違えましたすみません、白旗です!」「粛々と法的措置をとらせて頂きます」ということだけになるのでしょうか。そして検事さん方については、敗訴に伴う検察内部での配置替え的な内部処理をして、そしてそれで事件の片が付き、一件落着!ということになってしまうのでしょうか。

判例では、検察が敗訴したという事例は何故か極端に少ないと思うのです。でもそうなった場合でも検察は、「判決は残念です、当方の錯誤ではなく見解の相違です」といったことですませてきたように思うのですが、どうなんでしょうか。まあ、間違いは誰にでもあるということについて異議申し立てをする人はいない訳です。間違いやすい同じ人間同士がすることですから、死刑判決を間違って下してしまうこともあるというわけでしょうか。

それにしてもこうした問題をきちんと考えようとしたら、どの程度の学習や研鑚が必要なのでしょうか。僕だったら「人生が二度あれば(井上陽水の歌)」では済みそうもありません。しかしもしかしたら、どれほど学習をし研鑚を積み上げたにしても、結局間違った検察調書や判決文を書いてしまう可能性はあるということも事実なのかもしれません。僕にしては新聞購読後の感想という以外には言えないわけで、どなたかに上記紙面についても講読をお願いするしかありません。僕の手に負えない感じになってしまいました。

でもいつぞやの新聞にも書かれていましたけど、東電の事件について今回、責任はだれ一人としてとってはいないと。勿論、経産省とその御用達の科学者さん達にしてもノープロブレム!ということみたいですが。しかし少し前に、検察が検索を始めたということもニュースで知らされました?東京電力の福島原発事件について、特捜が捜査に着手をした、ということらしいのですが

セーさんの撮った逗子の夏雲です。セーさんコバヤシさんユアサさんお疲れさまでした。ユアサさんは200人90分の講師役が終った後に駆けつけて頂いて有難うございました。すみません、レジュメも頂いてしまいましたです。しかしお蔭さまで御用達の割烹風の素敵なお店も教えていただけました。あの山陰のいろいろなお酒は旨かったですね。それにしても、西口から西新宿一帯はユアサさんの昼夜の勤務先なのでは?そのお店にしても、店員さんもそうだけれど、帰るときには店長さんがエレベーター迄お見送りという手厚い待遇なのでした。でも東口から歌舞伎町の主もどきだったらsu--だったりして。あり得ないか! しかしそれにしても、呑んで食べて楽しかったけど、なにを話し合ったのでしたっけ?