はらじゅく86のブログ

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今年も今日で終りです…

2012-12-31 00:18:27 | 日記

今日は午後からずっと雨でした。もう明日の今日?になってしまいましたけど。
昼過ぎに起きてから、本日したこと。床屋さん、運動をかねた買物(リュックに雨具で)、友人からの長電話(2時間弱、ソフトバンク同士は無料)、大掃除(適当)、食事を作って食べる(珍しく鯛が安かったのでチンをした)。そして掃除に厭きてブログやツイッターをみたりしていたら、イナザワ先生がツイートしたのを見つけたのです。

過日のブログに書いた慶応の学生さんの論文も、読もうと思ってプリントアウトしたのですが、まだ読んでいません。年の瀬も最終で、やはりあれやこれやと野暮用があるものです(その一番はなのですが)。そして、とにもかくにも僕は一家の大黒柱です。しかも一家に一人という訳ですので、いつでも只独りで「生老病死」に直面するという、限界状況的重圧下に生きているのであります

過日のブログにも少し書いたのですが、秋田大学の入試事件についてコメントをする場合には、原資料ともいうべき朝日紙の伊東記者が書いた記事の信頼性・真実性の度合いが基本的な問題としてある訳です。伊東記者は秋田総局の記者さんのようですし、記事を書く際に関係する当事者全員に直接取材されているはずです。もしも伊東記者が、当事者との面談の過程で当事者とその関係者に対して何か本質的な違和を感じたとしたら、今の記事とはもう少し違った形の記事になっていたように思うのです。とにかく、事件が訴訟という公の場で語られることがない限り、伊東記者の取材レポートとしての記事が、読者にとっての事実としての全てである訳です。そして読者である僕達がその記事をどこまで深く読み込むことができるのかが問われる訳でしょうか。

その事件の真相の理解に至る筋道は、その記事(データ)をどのレベルまで読み取れるかという総合的な読解力の有無に全てがかかってくると思うのです。どのような事件についても、実事求是という原則は徹底して確認することとしても、メタレベルでの弁証法が限りなく続くということになりそうで、テキストの何だらとかいう難しい問題が続く感じで…。…例によって、今こうして書いているのに自分が何を言おうとしているのやら、自分でもよく分らくなってしまうというお粗末な次第であります。また明日にでも読み返してみて修正するしかなさそうです。

   大峯山修行コースの一部 写真は大峯山寺の山門 TVでも紹介、西の覗き岩     
       大峯山はイナザワ先生の趣味「行」のホームだそうです。大峯山修行登山の動画http://9oo.jp/CGPTV (写真はクリックで拡大します)

上記したイナザワ先生のツイートでは、先生がご自分のブログに、お若い頃に書かれた博士論文のURLをアップされたということでした。(追録です。今ボクシングの世界タイトル戦を見ながらネットをしていたら、先生が博士論文の「はじめに」の部分をブログにアップされていました。びっくりですね。下記の記事はこのままにしておきます。URLは下記しました)

ツイッターで先生は、「自分の博士論文(1996年)がネット上に公開されていることを偶然知った。今年の10月かららしい。「はじめに」を読み返したら、かなり気合が入っていたので、『雑筆蔵』にアップした。30代半ばで、やっぱり文章が若い」とツイートされています。イナザワ先生がネット上での公開を偶然知ったということは、多分、所属大学が変ったばかりで、しかもその大学が博士号を収得した大学なのでそこで学術情報としてアップされたけれど、しかし先生はそのことをご存じではなかったということなのでしょうか。違っているかもしれませんけど。

ネットをうろついていると、大学の先生方を含めて物書きさんの中には、自分の書くものを可能な範囲で全てネット上で公開されようとしている方がいるようです。しかし、このイナザワ先生の論文に限らず何方のどのような分野の論文であっても、ご苦労して書かれたものを対価なしに公開して頂けるということは本当に有難く感謝しなければいけないことだと思います。考えてみれば、文字として書かれた全ての言葉も、人類共有の財産の訳なんですよね

以下は、イナザワ先生の博士論文「精神障害者セルフヘルプ・グループの基礎的研究一援助関係論の検討-」(全体で151p)の「はじめに」の部分を、ocr.pdfからコピペしたものです。1行の長さを伸ばしたり行変えをした際に、脱字などのコピペミスをした可能性もあります。また、行間を1段空けてあるのは、読みやすさを考慮して僕が空けました。できるだけURLからアクセスしてお読み下さい。   
上記の追録で書かせて頂いた先生のブログです。こちらでお読みください http://9oo.jp/bjvN5 全文はhttp://9oo.jp/xJV57(時間帯によってはアクセス多数で、数度の再アクセスが必要になる場合があります)

[下記の文章について、無断転載というルール違反ではないかという問題もあると思います。先生のブログには転載可といった文言はありませんが、ここにURLも記載させて頂いていていますし、先生の公開のご趣旨からしてもお許し頂けるのではないかという手前勝手な判断で、更にアクセスの問題もあるので消去せずに残させていただきます。でも、こうしたルール違反は論外であるとされた方がいましたら、どうぞ消去してください。でも、ネチケット違反に甘えは許されない可能性もあるかと思います。こうしたことに詳しい方にご教示いただけたら有難いのですが。(自分で調べなさい!…)]

  ーはじめにー

 おそらく、あらゆる哲学的課題の内もっとも確かなのは、いまという時の問題、まさしくこの瞬間においてわれわれが何者であるのか、という問題であろう。(フーコー、1984a、p. 241)

 この「われわれは何者であるのか」という問いは、哲学の独占物というわけではない。もちろん、哲学がこの問いを学問の中心的な位置に据えていることは認められるべきではあるが、しかし、一方でそれは、「私は何者であるのか」と言い換えられると、人が生きていく途上でしばしば出会うありふれた問いでもある。
 また、それは、人の「生」というものに何らかの形で関わり、それを対象として位置づけようとする学問にとっても重要な問いとして位置づけられるべきである。何者であるのかと問うことは、逆に、人の「生」をどのようなものとして学問的に位置づけようとしているのかと問うことであり、それは、その学問の根源的な視点を明らかにすることへとつながるからである。社会福祉学とは、まさにそうした学問の中心に位置するものである。

 社会福祉は、その実際において、人の「生」を大きく左右する。その人の日常生活だけではない。人生全体のあり方にまで深く影響を及ぼすものである。あるいは、人が自らの「生」をどのように意味づけるかということに直接関わるものであるといってもよいし、さらには、その社会が人の「生」をどのように扱おうとしているのかということを間接的に映し出す鏡であるといっても過言ではない。社会福祉とは、個々の援助場面において直接的に、あるいは、制度施策という形で間接的に、人の「生」に関わり続けている極めて現実的な営為なのである。したがって、そうした営為を学的に把握しようとする社会福祉学もまた、人の「生」を等閑視することは許されない。人の「生」の意味を問うことは、社会福祉学の基盤を問い直す根源的な問いであるといえる。

 だが、はたして社会福祉は、錯綜する現実から一歩退いて、人間が生きることの意味を学的に問うてきたであろうか。もちろん、理念としては、平等や人権の尊重、個別性の重視であるとかノーマライゼーションなど、多くの言葉が生み出され、磨かれ、あるいは淘汰されてきているのは確かである。だが、そうした理念や主張の中には、底の浅いスローガンに堕しているものが少なからずあることは否めない。それらは、単なるきれいごとにしか聞こえないのである。あるいは、閉鎖的なサークルでのみ通用するような独善的な主張に陥っている場合もある。恨みを晴らすために呪いの言葉を吐き続けても、それが広く受け入れられることはありえないのに。

 人の「生」には、深く悲しみをたたえた暗闇と軽やかな喜びにあふれる光輝とが織り込まれ、折にふれてその色合いを変えている。もちろん、社会福祉が暗闇をじっと見つめる眼差しを捨てたことはない。だからこそ、軽薄なスローガンに虚しさを覚えるのである。また、社会福祉が、にもかかわらず、かなたに輝く希望を見失ったこともない。だからこそ、呪いの言葉をそのまま追認するわけにはいかないのである。どんな暗闇の中でも光の在処を確信すること。どんな輝きの中でもうごめく闇の声を聞き取ること。それは、人の「生」を大きく左右する社会福祉の、また、社会福祉学の、そして、本論文の根本的な姿勢でなければならない。

 人の「生」に深く関わるとき、自らもまた一つの「生」であることを知るに至る。それが社会福祉のもつたとえようのない魅力であり、同時に恐ろしさでもある。他なる「生」を通じて、人は自らの「生」についての手ごたえを得ることができ、あるいは逆に、これまでの手ごたえを無に帰されることがある。社会福祉における援助場面とは、「生」と「生」とが互いにその意味を問い合い、確かめ合い、新たに創り出していく希有の場面に他ならない。そこでは、「私は誰か」という問いが「あなたは誰か」という問いかけの中に溶かされている。独白が対話という基盤に位置づけられるといってもよい。私を問う独白は、それだけでは「『[ 私は誰か]と問う私は誰か』と問う私は‥ ‥‥ 」と無限の中を漂って足場をもつことがない。あなたとは、私を映す鏡であり、同時に私を吸い込む闇でもある。あなたに映る私は、私を喜ばせることもあれば、目をそむけさせることもある。あなたに吸い込まれることで私は、やすらぐこともあれば、おののくこともある。私とあなたとの出会いには、未知なるものがつきまとっている。

 およそすべての「学」は、未知なるものへのおののきと、知ることへの喜びを根底に有している。おののきが「学」に深さを与え、喜びが広さを与える。社会福祉学においては、より多くの「生」を意味づけようとする意志が広がりをもたらし、一つの「生」と関わり続けようとする意志が深みを加える。政策論と援助論とは、「生」の意味をめぐり、両者あいまって、社会福祉学を立体化しているのである。

 そして、本論文は、何よりも深みに関心を注ぐものである。それは、本論文が援助論の系統に属するものであるということを示すにとどまらず、援助論をさらなる深みへと導こうとしているという意図をも示している。これまで援助論は、私とあなたが「生」の意味付けをめぐっで対話する場面を、「援助する側一援助される側」、すなわち、「意味づける側一意味づけられる側」という関係に固定した上で、「いかに援助するか」と問うことによってその領域を拡大し、技法を精緻化させてきた。そこでは、援助する側の「生」が問われることはあまりにも少なかったのである。だが、本論文は、そのように固定化された援助関係を取り払うことによって、「いかに」の問いではなく、「援助とは何か」の問いへの接近を試みるものである。従来の援助論が破綻する地点で、あるいは、「援助する一援助される」の一方向的な援助関係が成り立たない地点で生起していることがらを記述し、その意義を検討することによって、援助論の射程をさらなる深みへと到達させることが目指されている。

 セルフヘルプ・グループ(Self-help Group :以 下SHG と略す)とは、まさに、一方向的な援助関係の向こう側に位置するものである。それは、共通の問題や課題を抱えた者たちが相互に援助し合う場として生み出されたものだからである。そこでは、人の「生」が他の「生」と向き合う中で、自らの意味を問い、確かめ、新たなものへと生まれ変わっている。それは、「生」と「生」とが直接出会う場面であり、もともと援助というものが生まれ出た原風景をなしている。SHG における「生」の意味を問うことによって、援助は、自らを生み出した深みに再びふれ、援助自身の意味を再び模索し始めることになる。本論文では、そうした契機の一つを提供することが目的とされているのである。

 ここでは、「われわれは何者であるのか」という、人の「生」に関わる根源的な問いに対して、きわめて限定された立場から、きわめて限定された視角に基づいて、回答の可能性が探られる。その限定された立場とは、「精神障害者」という立場であり、限定された視角とは、「SHG において」という視角である。すなわち、本論が取り上げる問題は。「精神障害者とは、SHG において何者であるのか」という問題であるといってもよい。また、従来より、「私とは誰か」という問いに対する回答は、アイデンティティと呼ばれてきた。したがって、SHG における精神障害者のアイデンティティが本論のテーマであるともいえる。

 だが、精神障害者であることは、すでに、本人にとってのアイデンティティなのではないだろうか。だとすれば、精神障害者というアイデンティティのアイデンティティを問うという奇妙な問いが提出されていることになる。ここに「SHG において」という視角を導入することの意味がある。SHG において、精神障害者であることは、固定化された自明のアイデンティティではなくなってしまう可能性があるからである。精神障害者というアイデンティティが変容を被る、あるいは、精神障害者というアイデンティティを突き破る何かが生まれてくるといってもよい。逆にいえば、SHG という場は、そうした何ものかを生み出す可能性に満ちているともいえる。 SHG において、精神障害者というアイデンティティが新たなアイデンティティに変容する可能性を示すこと、それが本論の第一の目的である。

 とはいえ、アイデンティティの変容は、決して容易に成し遂げられるものではない。アイデンティティとは、確かに一方で自分のものでありながら、他方で、それは決して自由に選びとられるものではなく、押しつけられ貼りつけられて、本人にはいかんともしがたい圧力を感じさせるものでもある。とりわけ、精神障害者であることのように、基本的に本人が望まないアイデンティティをまとわなければならないとすれば、それは、何かに押しつけられたものとして、本人には受け取られることになる場合も少なくない。したがって、SH G がそのような圧力に対してどのような戦略的意義を有しているのかということを明らかにすることが第二の目的となる。だが、この二つの目的は、精神障害者というアイデンティティに焦点をあてるか、SHG という場の機能に焦点をあてるかの違いでしかなく、同じことの表裏にすぎない。精神障害者というアイデンティティにかけられる圧力とSHG との緊張関係を描くことがここでは目指されている。

 アイデンティティを押しつけてくるもの、それを序章では、アイデンティティ・システムと名付けている。それは、各々のアイデンティティを構成要素として成り立つシステムであり、人を何者かとして配置しようとする欲望でもある。精神障害者であることに限らず、すべての人は、アイデンティティ・システム上における自らの位置を探し求めることになる。

 アイデンティティ・システムは、人に何者でもないことを許さない。人を何者かとして配置するためにアイデンティティ・システムのとる戦略を、ここでは大きく二つに分け、質的差異に基づく「カテゴリー化」と量的差異に基づく「ライン化」と名付けている。例えば、「精神障害者であること」はカテゴリー化による位置づけであるが、「どのような精神障害者であるのか」という位置づけはライン化によって行われる。第一章では、一人の女性による精神病院入院体験を素材としてアイデンティティ・システムの戦略を事例的に概観し、精神障害者というアイデンティティがどのように付与され、本人に内面化されていくのかを検討する。

 アイデンティティ・システムの暴力にさらされた精神障害者にとって、抑圧され傷ついた自分を癒し回復していく方途の一つがSHG である。第二章では、アイデンティティ・システムの暴力に対してとりうる対抗手段を考察し、その中からSHG がとる最も先鋭的な対抗戦略としてオルタナティブ・サービスを紹介するとともに、第三章で、日本における精神障害者団体の現状を報告して、SHG における「アイデンティティを求めての共同作業」という特性を浮き彫りにする。アイデンティティ・システムは、現実において、国家や機関、世間や家族といった形態を通じて各人にアイデンティティを押しつけてくる。精神障害者というアイデンティティに関しては、医師や看護者を始めとする援助専門職がその中心的な役割をとる。しかし、そうしたシステムの手先的な役割に対する援助者の側からの反省もまた提出されてきている。第四章では、アメリカのソーシャルワーク理論の動向から、援助者自らが自身の権力性を自覚していく様子を紹介し、第五章では、精神障害者を地域で支える実践家の体験や思想から、支援体制や援助のあり方を模索し、精神障害の規定を踏まえて、従来の本人を援助によって変えようとする「変える援助観」と本人ではなく周囲を本人に合わせていこうとする「支える援助観」とを対比して、後者の意義を検討する。

 最終章では、まず、従来の「変える援助観」とアイデンティティ・システムの戦略との同一性が指摘される。続いて、アイデンティティ・システムや変える援助観への対抗戦略が模索されるが、その起点は、自分のアイデンティティを変えようとすることに対する無力さの自覚におかれている。そうした無力さの自覚が、逆に、新たなアイデンティティを求めての運動を展開する契機となりうるのである。その転回点は、自分を変えなければならないという呪縛からの解放であり、周囲を変えていくために仲間と共同していこうという意志をもつことでもある。SHG は、この転回点を生み出す潜在力を有している。すなわち、SHG には、アイデンティティ・システムに対する戦略的な意義が含まれているのである。最後には、アイデンティティ・システムによって傷つけられた精神障害者にとってのSHG がもつ意義を整理し、そこで生じている逆説的な様相、すなわち、アイデンテイティ・システムの戦略がもたらす傷の深さこそが、アイデンティティ・システムの戦略を無効にしうるという逆説を浮き彫りにしたいと思う。
 SHG とは、一つの希望であり、そこには汲み尽くしえない可能性が秘められている。その一端をたとえわずかでも明るみに出すことができればと願うばかりである。

とにかく、もっと掃除をしないと新年が始められません

今年はこの投稿で終りになるかもしれません。この投稿ということがなかったら、su-の人生は少し違う形になっていたかもしれません。いつもながら勝手なことごとではありましたが、有難うございました。よいお年をお迎えください

 


良いお年を

2012-12-27 11:15:56 | 日記

今年もあとわずかとなりました。

この記事はipadを使って書いています。情報検索には便利ですが、危ない部分もあります。さまざまな個人情報を入力し、それを商業利用されることに同意しないといけません。例えば私がどんな映画や書籍に興味があるかが、把握できることになります。

さらに、操作が簡単で数多く浸透すると予測される分、犯罪に荷担したり、被害にあったりする確率も上がります。現実の世界では良い行為と悪い行為には明確な差がありますが、お買い物も犯罪も「クリック・入力」という同じ行為で成り立ってしまうのがインターネットの怖さでもあります。

しかし、もし震災などのときは、書籍をダウンロードして、役立てることも(子供に絵本を読むなど)できますので、便利と危険を振り分けながら使いたいと思います。

 
今年もいろいろありました。年末には政権が交代しました。今、日本に必要なのは「日本の行方はどうなるのだろう」という不安ではなく「日本をどうすべきか」という一人一人の意志の力ではないかと思います。バラ色の政策などあるはずもないのですから、何かを立て直すにはどこかで痛みを分かち合わねばなりません。指導者はその明確なグランドデザインを示す勇気を、国民はその痛みを受け入れる勇気を持つことが必要ではないでしょうか。
 
このブログにも年末興味深い動きがありました。おそらくメンバー以外の方でしょう、はっとするような視点からのご意見をいただきました。ブログの話題を勉強会の題材にするのも一案ですので、こういう方をお招きして勉強会も面白いかも、などと思ったりします。
 
ユアサさん、新年会のご案内ありがとうございます。
 
2013年1月12日(土)いつもの場所だそうです。
ブログのあり方などご意見がでましたらお知らせください。
 
 
では。みなさん良いお年を。
 
 
 

掃除も年賀はがきも…

2012-12-25 22:57:52 | 日記

 掃除も年賀はがきもこれからです。一日24時間も時間があるというのに、お前は何をしているのかという訳です。この冬一番の寒さが身に沁みます。
とにかく、今こうしてPCをしていても年賀はがきと掃除のことがこの胸の真ん中にずしんと鎮座ましましているので、精神衛生上まったくよくないですね。明日はテニスも少しの用事も買物もやめて、このことをやろうと思うのです

                         
                       
                         ♪ 春よ…!


昨日のスーの投稿記事の「秋田大学医学部入試問題」について、ご親切な方がコメントを書いてくださいました。
ですので、少し調べた結果を書かせていただきます。

そのコメントでは、「サイコパスを医者にしてはなりません」とありました。サイコパスの意味を調べてみました。大辞泉では、<サイコパス【psychopath】精神病質(その人格のために本人や社会が悩む、正常とされる人格から逸脱したもの)である人。>とありました。

問題は本当に僕には難しすぎて、今すぐではなくても、多分、自分の考えをまとめることができない可能性の方が高そうです。また投稿へのコメントでは、少し懐かしい「欠格条項」という事柄も考慮しなさいということも、参照事項として指示されていた訳です(URL参照)。

昨日投稿した「秋田大学医学部入試問題」の朝日紙の記事は、ここで全文が読めます。但し、少し作成者のコメントも付加されています。http://9oo.jp/lopy6

この件の検索過程で知ったのですが、秋田大学医学部の今春の入試に関して、以下のような事件があったそうです。
「 秋田大学は28日夜、今年度の医学部入試で、1人を追加合格にしたものの、この受験生が秋田県外の公立大に入学手続きを済ませていたため、合格を取り消したと発表した。国立大学協会と公立大学協会間の決まりで、日程の異なる複数の国公立大を受験しても、入学手続きは一つの大学に限っている。公立大に手続きをした時点で、他の国公立大の合格の対象外になり、吉岡尚文副学長は「確認が足りず、合格としたのは不手際。受験生や保護者に申し訳ない」と謝罪した。」 

この件ついても、今更何ごとだろうと思うと共に、大いに議論の余地があると思います。でも、この事件が表面化したのは朝日紙の記事以降の流れからなのでしょうか。そしてまたもや秋田大学医学部です。大学側の非は限定的ではあっても過失責任は明確にあります。いずれにしても全く過失ががなかった受験生が本当にお気の毒です。在籍した高校側からも大学側に上申したが否とされたそうです。是非以下にアクセスしてみて下さい。http://9oo.jp/hiuyA

秋田大学医学部入試問題と同じような事案は、群馬大学医学部でもあり、裁判になったそうです。
原告は55歳時に受験した女性で、秋田大学と同じく面接における採点結果を不当として、大学側を相手に国家損害賠償訴訟を起こしたのだそうです。そしてその訴訟の結果は、原告側が前橋地裁と東京高裁で敗訴したということです。

以下は、この判決についての感想なども書かれているブログ記事とそのURJLです。信ぴょう性の程は不明ですが、多分間違いではないという前提でコピペとURLを書いてみます。

「2012-12-09 試験判例■[判例]国立大学医学部入試に不合格とされた受験者が年齢を理由とした差別として入学の許可を求めたが、年齢を考慮したと認めるに足りる証拠はないし、仮に年齢を考慮したとしても医学部の特殊性に鑑みれば合理的等として請求を棄却した事案(東京高判平成19年3月29日判タ1273号310頁) #試験「被控訴人(注:大学側)は,合格のためには,知力,体力,気力が必要であるとし,医師として活躍するには,6年間の課程に加えて,臨床研修2年間も含め卒業後10年くらいの経験が必要であることを考慮するように入学試験応募者に説明しているが,このような点を考慮することには合理性があり,受験者を合理的な理由なく単に年齢によって差別することとはならない。」
大学入学試験の合否判定の誤りを主張してなされた国家賠償請求につき、合否判定の性質上必ずしも一義的・客観的な判断基準に従って判断するのには適せず、公正・妥当な試験実施機関の最終的な判断に委ねるのが適当な事項であるからその当否は司法審査の対象とならないとして請求が棄却された事例(東京地判平成2年6月27日判例時報1359号83頁)と比較すると勉強になる。なお、no title【pdf注意】によれば、原判決は前橋地判平成18年10月27日判例集未登載とのこと。」   http://9oo.jp/ksP59

この群馬大学の事案について、「東京高裁判決の判例考察」として、慶応大学法学部山元研究室の4年生橋爪英輔さんが、下記のURLで論究されています。
(この研究室のHPも凄いなぁと思いましたですね) 

橋爪英輔さんの論題は、「大学入試の面接試験の司法審査の可否及び年齢差別―群馬大学医学部入学許可請求事件の考察」です。
目次は、
<Ⅰ序、1はじめに 2事実の概要及び争点 Ⅱ司法審査の可否 1総 説 2判決の分析 Ⅲ平等原則 1総 説 2年齢による差別 3 判決の分析と問題点 Ⅳおわりに >

考察の一部を抜き書きしてみます。

< 「東京高判平成19・3 ・29判時1979号70頁の事件は、国立大学法人である群馬大学の医学部医学科の入学試験において、当時55歳の原告が個別学力試験において合格最低点以上の成績を獲得していたにもかかわらず、面接を含めた総合評価にて不合格となった事案である。憲法学においては、この判決は専ら国立大学の入学試験と司法審査という論点に焦点が置かれているように思える。実際の事件でも司法審査が及ぶかという点につき争われた。司法審査が及ぶか否かは紛争の解決の前提として非常に重要なテーマであり、本稿でとくに分析を試みたい」 >

< 国立大学法人の公の営造物性を鑑みて、以下のような理由で司法審査を認める結論を下した。入学試験における合否の判定にあたり、憲法及び法令に反する判定基準、例えば、合理的な理由でなく、年齢、性別、社会的身分等によって差別が行われたことが明白である場合には、それは本件入試の目的である前記のような医師としての資質、学力の有無とは直接関係のない事柄によって合否の判定が左右されたことが明らかであるということになり(いわゆる他事考慮)、原則として、国立大学に与えられた裁量権を逸脱、濫用したものと判断するのが相当である。そして、そのような他事考慮がなされたかどうか、なされたとしてその他事考慮が許されるものであるかどうかの問題は、試験実施機関の最終的な判断に委ねる必要のない、裁判所が具体的に法令を適用して審判しうる事柄であると解するのが相当である(下線引用者)。

 大学側に面接でいかなる要素にどのような評価をするかというのは専門技術的な判断であって終局的解決可能性に乏しいもの60)であり、その判断を裁量として認め、限定的にその裁量の逸脱・濫用の審査を裁判所が行いうることはすでにみてきたことであり、この判決もその考えにしたがって、他事考慮の審査を通して合否判定の当否を審査しようとしている。ただし、下線の部分にあるように、年齢等の差別が合理性をもたない場合に他事考慮があったとして裁量権を逸脱・濫用があったという論理展開をしており、判断過程審査とあわせて実体的な審査がなされたことに注意すべきである61)。結局、当訴訟では差別があったことが証明できずに原告が敗訴したが、面接試験の性質上、その点について原告が証明することは困難であるので、証明責任等…>

http://9oo.jp/hozCN まだ部分読みでしかでいないのですが、面白そうです。もっとも、読んで解るところだけは分りそうだよということでしかないのですが

朝日紙の伊東記者が記事にした受験生は18歳です。ですから、群馬大学事案の訴訟で一番の争点になった年齢上の問題は全くない訳です。群馬大学事案で、55歳の女性受験生は結局、高年齢故に面接での採点が減点されるという不利益を被った、という証明が不十分だったので敗訴したようです(上記に引用した慶応大生の論考の最後部分)。

上記の学生さんの論考は、秋田大学の事案を考える上で参考になる論旨が沢山あるように思うのです。僕にとっては難しくて四苦八苦ですけど、読ませて頂きます。しかし、55歳で受験した女性が訴訟を提起した気持は、よく分りますですね。入学について、どうしても無理なのことなのかな!という思いを強く持たされます。大学の医学部生の中に、こうした志を持った高年齢の方がいるということは、若い学生たちにとっても良い刺戟になると思います。それに超高齢化社会に向かっているこの日本の社会にとっても、刺戟的な問題提起になると思うのです。

入試判定の総合的な判断とは何か、という課題の中で、群馬大学には知恵と度量と気概に満ちた医学者がいなかったのが残念だと思うのですが。受験生が高年齢故の国のお金の無駄使い論などという、経済合理的な発想があったとしたら論外だと思うのです。もしこのことを厳密に考えるのだったら、その受験生の過去の納税額を考慮しなければ不公平になるといった?ことはいえないですかね 少しずれているかもしれないですが、とにかく後で、学生さんの論考を読んでからにします。

しかし、年齢が55歳位の方でも医学部合格を果たされた方がいるように思うのです。たしかテレビや新聞でも取り上げられていたように思うのですが。でも私立大学であったかもしれません。

以上、中途半端ですけど。
明日は必ず早起きして、やるべきことをやる!そしてこの頭と胸の重荷を取り除かねば、という訳であります
皆さんお忙しいし、このような蛇足記事はsu-が書かせて頂くことに本義があるのです。本当に有難いことで、tagawaさんの方向に足を向けて寝ることはできません。

 


面接0なぜ… (>_<)

2012-12-24 23:03:19 | 日記

                            

”クリぼっち”のクリスマスをしています
テレビのニュースを見ていたら、キャスターが”クリぼっち”という言葉を使っていました。調べてみたら”一人で過すクリスマス”という意味なのだそうです

テニスの帰り道、いつものように近所のイオンで買物をしたのです。でも何だか今年はイオンに限らずスーパーなどの店内で、クリスマスメロディーが流れている場面が少ないように感じています。何か理由があるのでしょうか。それとも少ないのは、自宅の近所の4店舗に限ったことなのでしょうか。このところ3週間くらい当市内から外に出ていないので、よく分らないのです。こんなことも初めてなのです。

そして、イオンから隣りのスーパーに寄って帰宅して、さて掃除だなと思ったのです。この数週間家の中の片づけを全くしていないのです。とにかく居間から台所に至る一面が散らかっていてひどい状態…惨状…なのです。この状態は時々テレビで話題になっている、ご存知のあの「掃除できない病」状態に近づきつつあるといっても間違いではないのです…

でも、Xmasイヴに掃除だなんて余りにも可哀そうすぎないかと反省して、そうだともかくXmasだ、なので呑むしかないではないかと一大決断をしたのでした。

それから、その時ふっと思い出したので、昔二十歳のころに行っていた教会のXmasイヴの燭火礼拝を覗いてみたのでした。少し前にネットサーフィンをしている中でその教会のHPに行きあたり、そこでユーストリームでライブと録画をやっていることを知ったのです。まあ幾つかの教会のサイトで公開されているのは知っていたのですが、聞きたいと思うような説教はなかなか無いのです。

でもこうした説教についての考え方は、真面目な信者さんからみたら嫌われることは確かな訳です。つまり、礼拝(日曜日などの集会)で説教だけを大事なものと考えるのは間違いであって、教会とは何か、礼拝とは、信仰の内実とは何かといった問題の中で説教を位置づけることが眼目であるという訳です。
教会の説教は礼拝の中核的なことではあっても、礼拝で一番大事なことはイエス・キリストへの感謝・賛美であり、また信徒相互の関係性・交わりが必須な事柄であるのではないか、ということの訳です。何だかどうでもいいことを、いつもながらしつこく書込んでしまってすみませんです。

しかしPC画面で、懐かしくもある会堂内の一部と教会の雰囲気を感じながら、当然ビールでの乾杯をさせて頂いたのでした。リアルタイムで礼拝を視聴しながらビールを飲ませて頂くというのは、何だかとても不思議なことでした。昔、病院や特養の新年会で呑んだビールを想いだしました。自分が関係してよく知っている重篤な入院患者さんや入所者がいる場所であるにもかかわらず、そこでお酒を飲むのは、何だか不謹慎で申し訳ないといった違和感があった訳でした。

スミマセン誠に勝手ですが、ここで、僕がXmasというかキリスト教をイメージするときに連想する絵を、大きな画像ですけど貼らせていただきます。しかしこの絵は宗教画というわけなので、マイナスイメージを強くもたれる方もいると思います。ただこの絵は宗教画ではあるのですが、多分欧米では、文化的、歴史的、神学的、美術史的な意味合いでは重要な作品だということも言われていると思うのです、が。そしてこの絵には、僕にとって昔懐かしい想い出もありますのです。そして更に2012年の今宵、Xmas eveのブログに貼らせていただくという新たな想い出に、という次第でもあります  

Xmasに免じてご寛容ください。そしてお気に障ったらパスしてください。画像の下のURLは絵の解説です。

 

 

                  1512年作



(スティーアス)グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画です。http://9oo.jp/cvJTW

表題の「面接0なぜ」なのですが、今朝の朝日紙の社会面に載った記事の大きな見出しなのです。読まれた方もいると思います。
朝日紙のデジタル版に少し載っています。伊東あずさ記者、http://9oo.jp/dpstX

今春の秋田大学医学部の入学試験の採点で、面接試験で0点をつけられたという話なのです。しかし、入学試験で面接の採点が0(ゼロ)というのはあり得るのですかね。その採点基準はどのようになっているのか、これは是非とも文科省に聞いてみたいですね。大学の自治に関係したことなのかもしれませんけど、しかしこうした理不尽さは許されないように思うのです。明日あたりは他の新聞でもきっと取り上げると思いますが。秋田の本日の地方紙でもなかったです。伊東記者のスクープなのだと思います。

18歳の女子受験生は、筆記試験は高得点だったそうです。しかし前後期ともに面接で0点で不合格なのだそうです。

「 受験生は『結果は仕方ない』としつつ、中学時代から患った病気や高校に進学しなかったことの影響ではと気にしつつ『採点基準が知りたい』と訴える。大学は『総合的に判断した』と説明している 」

中学2年時から、成長期に多い「起立性調節障害」の為、進学校に入学したが諦めて、でも1年時に「高校卒業程度認定試験」に合格。その後体調も普通になり、主治医の影響もあって、医師を志したのだそうです。センター試験と2次ではともに9割以上の得点。最後の面接試験で200点満点で117点以上なら発表されている合格点以内だったそうです。そして、後期試験はセンターと小論文と面接。この面接も0点。2度の面接試験が0点だったわけです

「 受験生によると、前期の面接では最初に「食べ物では何が好き」と聞かれ、驚いたが。「うなぎ」と答えた。次いで、高校認定を取るまでの経緯を聞かれ、病気のことも話したが、途中で話を打ち切られた。その後は「秋田で生まれ育ったの?」などの質問があり、約15分で終った。後期も高卒認定について聞かれた 」

「 受験生の家族は「0点は欠席と同じ。落ち込んだ。大学に理由を尋ね、評価基準の公開を求めたが、大学は『入試の適正遂行に支障を及ぼす』として、面接の得点分布も明らかにしていない。秋田大入試課は朝日新聞の取材に「個別の事案は答えられない 」とし、「 面接は、得点差の幅が大きくなる」と話した 」

「 受験生は来春、他県の国立大を受けるつもりだ。『心の傷もありますが、次の入試に集中する。ただ、高卒認定や病気が理由の0点なら、これからも同じ思いをする人が出るかもしれない。基準を明らかにしてほしい』と話した 」(伊東あずさ記者

今思うことですが、伊東記者はこの問題をキチント取材したはずです。このことは文面から記事の公平さとして伝わってきます。しかしそれにしても、その面接官や医学部長さんはどういう方々なのでしょうか。いや、この事態は単に医学部だけの問題ではなく、国立大学法人秋田大学http://9oo.jp/qCSV7の問題だと思うのです。そしてまた、医学部をはじめ全学部の学生さんと、そして自治会は、このことを知ったとしたら、この事態を問題だとして取り上げるのでしょうか。

ここで思いだすのは、あの熊谷晋一郎医師のことです。関係するブログから、「熊谷晋一郎(くまがや しんいちろう)プロフィール 新生児仮死で産まれ酸欠状態になり、生死のふちを彷徨う。生還したものの脳性麻痺となり高校生までリハビリ漬けの生活を送る。中学1年時より電動車椅子ユーザーとなり世界が激変する。歩行至上主義のリハビリに違和感を覚える」

<「1977年生まれ。新生児仮死の後遺症で、脳性マヒに。以後車いす生活となる。 小中高と普通学校で統合教育を経験。 大学在学中は地域での一人暮らしを経験。また全国障害学生支援センターのスタッフとして、他の障害をもった学生たちとともに、高等教育支援活動をする。 東京大学医学部卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現在、他の障害をもつ仲間との当事者研究をもくろんでる。 著書に『発達障害者当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』綾屋紗月との共著)、『リハビリの夜』。 >

熊谷医師へのインタビュー記事で学生時代のことを話されている。http://9oo.jp/dyzFT  関係するブログhttp://9oo.jp/jzF69 http://9oo.jp/dgpzV  ツイッター http://9oo.jp/isUX2 

国立大学法人秋田大学は、入学試験の判定で、過去に罹患した病気を不都合なこととしてマイナス点を献ずるのだとしたら、上記の熊谷医師を入学可とした国立大学法人東京大学医学部(入学は現役、理科1類)の入試判定は間違っていたことになる訳ですよね。 多分そうなるに違いないと思う訳です。

そしてまた高卒認定についても、病気の履歴と同じく不都合なこととしてマイナス点を捧げまつられるとしたら、これは正に人権と正義に関わる問題であり、国立大学法人がやってはいけない最たる事柄であって、大学存立の根幹に関わることだと思うのです。これ以上の難しい筋道は分りませんけど、僕はそう思う次第です

また例えば、大学入学後における身体的な不都合さを入試判定の基準として考慮(採点)するというならば、東大には世界で初めて常勤の大学教員となった盲ろう者の福島智教授がいる訳です。そしてまた福島教授は、盲ろう者として日本で初めて大学へ入学した方でもある訳です。こうした事例を考えても受験生の身体的なハードルは、全く減点の対象にはならない筈です。(福島さんが入学した大学は首都大学・旧東京都立大学)ーウイキペデイアーhttp://9oo.jp/fjtwyー。

その受験生とご家族は、秋田大学の行った上記のような理不尽と思える行為に対して、法的手段に訴えることもできるように思うのですが、どうなんでしょうか。人権と正義という理念にも違背した職務上の不法行為であると思うのです。国立大学法人の入学試験判定には「公平と平等の遵守」という絶対的命題が課せられているはずです。大学がそうした基準に違背した為に不利益を被った当事者は、大学に対して、正義と権利の回復(採点の再検討)と損害賠償も請求できるように思うのです。その受験者が願えば、法廷の場でも十分に争える事案なのではないかと思うのですが。これはまたまた僕の当てずっぽう論の訳ですけど、でも多分弁護士さんにも相談されたのでしょうね。

このXmasの間でも頑張っているでしょう受験生には、本当にお気の毒さまです!としか言いようがないですね。風邪などひかれませんように
それにしても、国立大の医学部に入学する学力というのは大変なのですね。学力劣等生であった昔の我が身を考えると、頭と胸がボーッとしてしまう訳です
 


…いつもながらの蛇足で(@_@)

2012-12-20 01:29:08 | 日記

…いつもながらの…蛇足で…

…その後のパソコンの状態ですが。(突然モニター画面が消える。酷い時は1分間に3回。その間の復旧時間も入れて)

今日は、パソコンの状態が100%良好です。昼、夜、深夜と、まったく問題なく使うことができています。
一体全体どういうことなんだ  というわけなのです。

不具合の原因は、素人考えというより当てずっぽうですが、どうも「起動ソフトのトラブル」
のような感じです。今回調子が悪くなってからPCを起動するときに、ディスプレイに「セーフモード」「正常起動」といった選択肢が表示され、このどちらかを選択して実行し、起動できた訳です。そうしたことが日にちを置いて3,4回続いた後に、起動の際のメッセージが表示されなくなってからは、画面が消えるということがなくなりました。
多分、何かの原因で起動ソフトがおかしくなってしまい、それがセーフティモードで実行することによって、修復されたのではないかと思うのです。しかし、こうしてキーを打ち込んでいても、おっかなびっくりという訳でもあるのです。

でも、何だか違うような気がしてもいます。何故なら、不具合な状態になってからも、起動についてはある程度正常に出来ていた訳ですからね。しかし、上記のことがあってからは、画面が消えてしまうということが無くなったことは確かなのですよね 。…何だか、狐につままれたような感じがします
 

 
                                
          
           今年初めて咲いた山茶花! この木だけ発育不良、何故!


しかし、衆議院選と都知事選が終わって、何だかんだと思っていたら、お隣の韓国の大統領選も結果がでました。このニュース解説を聞いていたら、日本と韓国の政情の違いが大きいのにびっくりして、大いに興味を持たされましたですね。
また以前、在日の友人が言っていたことを想い出します。「いずれにしても、朝鮮民族は感情の表し方一つにしても過激なんだ!」と。民族性と感情の過激さについて、その是非の問題はどうでもいいと思うのです。でもテレビのニュースで韓国の熱烈な選挙運動をみている中で、何だか日本人よりも韓国の人たちの方が一生懸命生きているのではないのかなぁ、と思ったのです。選挙運動を見守る人たち(支持者)の気持ちが、羨ましい程に入り込んでいいるように思えたのです。その入り込むというのは、「今・現在という時間」になのです。

この世界という現実の中で、白けることなく、この今という時間を、「今を今として今の直中で!」といったように生きているということは、素敵なことであるし羨ましいなぁ、と感じたのです。少しオーバーかもしれませんね。こうした喜怒哀楽といった感情の過激な表出力を持つ民族は、世界を見回したら幾つもの民族で散見される訳です。でも、韓国と日本は文化的・民族的・歴史的に類縁関係にある訳ですから、韓日の類比をストレートに感じ取ってしまうということも仕方ないですよね。

昨日、一昨日と、ずっと時々?かなりなのかな、ネットの世界に入り込んでいました。ツイッターの世界では、政治のことには何も発言しない人もいたし、ツイートし続ける人もいたりと、いつもながらの様々さの世界があった訳でした。

猪瀬さんの初仕事は、各部局にツイッターのアカウントを持ちなさいという指示だったようです。それから、猪瀬さんは当選者の万歳三唱はやらなかったのですが、これはよかったですね。それと奥様を拝顔できたことも面白かったです。猪瀬さんだけではなく、この可笑しな万歳三唱の場面で、当選者の横で頭を下げているのは、大体奥さまですよね。この方の奥様はこういう方なのかとか、どうでもよいことですね
。都職員の稼働目標は仕事率120%で、100%は都民に、20%は国民になのだそうです。確かそのような。しかし、銀行とオリンピックは、やっぱりみたいですね

「東京都庁広報課のツイート」19日
<【お知らせ】猪瀬知事の初登庁や職員への挨拶、就任会見など、知事就任初日の様子をまとめた動画を、ニコニコチャンネル東京都チャンネルで公開しました!是非ご覧下さい!>
http://9oo.jp/fklF5 http://twme.jp/TMG/00eh (このURLは両方共同じ画面です。広報課のとユーチューブから直接のと。今日だとニコニコでは登録が必要かもしれません。無論、無料枠で見れます)

それにしても、宇都宮さんは票が伸びなかったですね。どうしてなのか意味不明な点もあるのです。新宿2丁目のブログで支持されていたのは、宇都宮さんでした。都知事選の各候補者にアンケートをして、その結果、最も真面目にしっかりと答えを述べてくれたのが宇都宮さんだからだそうです。その一問一答が公開されていました。宇都宮さんはgayの様々な問題についても、以前から取り組まれていたようなのです。実に丁寧に回答されていましたですね。何だかよくは分りませんが、韓国の文候補と宇都宮さんはダブって見える点がありました。二人とも落選でした

しかし、テレビで偶然見た3人の候補者の演説で圧倒的に素晴らしかったのは、「マック赤坂」さんでした。とにかく見ていて引きずり込まれるように画面にくぎ付けでした。表情が実に生き生きしていたし、とにかくこの人は、嘘がつけない正直な人なんだなということが伝わってきました。話の内容は全く忘れてしまいましたけど、話の間中、面白かったし楽しかったし笑ったし、という具合でした。

< ※追録 マックさんが気になったのでウイキペディア http://9oo.jp/clmpU してみました。読んでみると、京都大学出身で、「
 2011年東京都知事選挙でNHK、テレビ朝日で放映された政見放送では、そのパフォーマンスをビートたけしが「東国原より面白い!」と高く評価し、またナインティナインの岡村隆史やスガシカオもブログ等で取り上げるなど、各種メディアで話題となった」だそうです。
「財団法人スマイルセラピー協会会長として全国で講演活動を実施、老人介護施設等でボランティア活動を行っている。スマイル党党首」とあります。
また、ブログを見てみましたが、面白いです。「伊藤忠社長(大学の後輩)、京大総長(同窓会を挙げて応援)、あの山中博士(面識がある)からも、激励電報が届いたそうです >
http://9oo.jp/CEGHZ 
まだ、勝手に書かせていただきたいことが沢山あるのですが、明日は午前中に用事があるのを思い出したので、もう寝ます  
 


パソコンが(@_@)

2012-12-15 23:43:30 | 日記

パソコンが絶不調です…                                 
昨晩から、画面が消えてしまうことが続いています。以前同じような症状になったことがあるのですが、何故だ!

ノートンでパフォーマンスの最適化をしたけど無関係か?チューンナップもしたばかりだし。最近酷使したためなのでしょうか?今、少し安定しているので(*^^)v

デスクトップも軽くしてみたし、バックアップも最近済ましたばかりだし。先ほども、1回不安定化!つまり、画面が消えて…無線ランも一時的に途切れてしまう。2008年からだとマザーボードが寿命なのかな?今、少し安定した状態が続いています。パフォーマンス効果かな?車の故障だったら多少の原因は想像できるけど、PCは見当がつきません。
……やはりまた再発してしまった!
これから、年賀ハガキもあるのだよ…(-。-)y-゜゜゜  

 

 


とにもかくにも(=_=)

2012-12-13 03:55:20 | 日記

昨日の投稿記事「『天のしずく』を観て」のコメントを書こうと思ったのですが、少し長くなりそうなので投稿としました。
また、勝手なことを書かせていただきます。

このところ、一日に数回は熱を測っているのです。今は36.4~36.8度位をうろついています。罹患直後は37.2度位あったので、微熱だなと思いました。でも、普段は熱を測ったこともなく、平熱が何度なのか分らない訳です。自分の平熱が何度なのかは知っていないとダメだなと思いましたですね。大分前から各種マスコミの報道では、平常体温は高目の方が免疫力も高くなって、発がん予防とか健康にはよいということが言われていました。とにかく、元気になったら平熱を調べておこうと思います。そして、必ず、記録を書きとめておくことも忘れないように  実は以前平熱を測ったことがあるのです、でも忘れてしまいました

このところテニスもできないので、終日家の中に閉じこもっています。隣りのスーパーに買物に行く以外には外にでることもなく、この数日はパソコンとテレビの前で過しています。寝てばかりいると身心がもっとクルッテしまいそうなのです。それにしても、老後の楽しみにと集めておいた本が今こそ読める時だというのに、手に取ることもなくというわけです。
そしてまた、今よりもう少し若い頃は、少し体調が悪くても仕事やテニスをやった方が安静にしているよりも回復が早いように思い、そのようにしたものでした。今は、どうにも気合いが欠如しています。「気合いだ~!」という誰かのコマーシャルは、他人ごとではないですね。

そしてまた、、自分に貸与されている筈の余命とやらが残り少ないにもかかわらず、まだ沢山残っているのではないかという錯覚が抜きがたくある訳です。その内しっかりと詰めて考えるから!などと、呑気に考えてしまっているようなのです。こうして書いていても当事者性が限りなくゼロに近く、過酷で悲惨な全体状況と、向き合えていない

この全体状況!という事柄。例えば亡くなった吉本さんは、ものごとを究極的に考えるという過程で、「往きと還り」という視線を常に意識していた訳です。この「往きと還り」というのは、「登りと下り」といっても「全体と細部」といってもいいように思うのですが。また、この往還を踏まえようとすることは、全体状況を捉えようとする精神でもある訳です。つまり、そういった視線なしには、「生と死の全体性」について考えることが成り立たないのではないのか、といったことだと思うのです。あのイナザワ先生の「敗北の援助論」も、この往還の視点が根底になっていると思うのです。が。

なんだか、こんな歌が…「死んだ男の残したものは ひとりの妻とひとりの子ども 他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった」…~にもかかわらず、だが、しかし~ということなのでしょうか。またまた、自分でもよく分らないことを書いてしまっています

 

                                                                                     


「『天のしずく』を観て」の記事とコメントを読んでいたら、ふっと思い出すことがありました。
昔、学習会なのか飲み会でなのか、あるいは皆で山に登った時なのかは忘れましたけど、ヨシダさんが言われていたことなのです。それは、「志村ふくみさんは素敵な人だよ!」といったことでした。この言葉はヨシダさんの言われた言葉とは違うし、その時に何をお聞きしたのかは全く記憶にないのです。でも僕はその時、その方のお名前だけは頭に入れたのでした。そして後で、志村さんの著書を1冊買って読んだ記憶があるのです。

こうしたことを想いだしたのは、「『天のしずく』を観て」の記事とコメントを読んでいるなかで、何故か突然、志村さんのお名前がひょっと思い浮かんだ訳です。何だか懐かしい人に出会ったような感じがしたわけです。そして、辰巳芳子さんと志村ふくみさんを連想してしまった訳です。むろん志村さんについても、その読んだ本の印象と以前雑誌や新聞で極々たまに目にするお名前でしかなかったので、勝手な連想ではあるのですが

しかし、このお二人は取り組む対象は違っても、その事柄に対する姿勢や生きざまの総体はとても似ているような気がするのです。もちろん僕がお二方について知っていることは、ほんの少しの聞きかじった知識でしかない訳です。でも、僕の共通感覚的な部分では、仕方なくそう感じてしまうのです。そして、お二方の在り様というのは、僕などとは全く対蹠的な体様であることも感じていることなのです。つまり、鋭敏な感性と鈍感なそれといった、残念ながら生得的なことごとなのかもしれません。

志村ふくみさん <染織家 志村ふくみ(人間国宝)2012年8月19日 NHKラジオ「明日へのことば」ー時代を創った女たちーPDF http://9oo.jp/ltEW6 > 

ところで僕は先月の終り頃ですが、「株式会社 茂仁香」さんから、スーパーミール800g、1袋と有機玄米フレーク150g、4袋を買いました。商品は五千円弱でした。買った理由ですけど、以前から夜中とか急に何かを食べたくなった時に、すぐに食べられるものが欲しかったのです。それで、先月、ネットサーフィンをしている中で、辰巳さんのお名前から上記の会社に出会ったのです。その会社は、多分ご存知だと思いますが、辰巳芳子さんの会社なのです

しかしこのフレークは抜群ですね。ごく淡くて品の良い甘さがあって、牛乳にオリゴ糖や蜂蜜と一緒に入れてもいいし、そのまま牛乳を混ぜても食べられます。ビールのつまみにもなります。近くのスーパーで売っているものは砂糖が沢山だし、添加物が多すぎます。そしてミールの方は、栄養価抜群です。見ただけでそれが分ります。むろん両方ともに無添加製品です

しかしミールは、見た目は何だか配合飼料(鶏などの餌)みたいで、食べるのに工夫が必要です(幾つかの食べ方が案内されています)。でも、僕の食事作りは直截簡明な「餌派(≠料理派)」なので余り気にならない方なのです。食事について、辰巳さんや前記投稿者とtagawaさん方と僕との比較をすると、皆さんが作るのは、人間が味わって感謝して食べる料理なのに比べて、僕が作って食べる食事は、間違いなく「餌(非料理)」でしかないと思います。

でも僕が餌派と自称するのは、自分なりに意義がある思っています。とにかく、食事を作って食べるということは、毎日欠かせない作業であり行事の訳です。しかし、一日2回~3回繰り返してという作業は腹が空くという結果からではあっても、食べなければ身体に悪いというプレッシャーでもあり、とにかく一連の作業が面倒くさい、と思うことが多い訳なのであります。

僕はどちらかというと舌(味覚)でよりも頭(栄養)で食べる方です。ですから、朝昼晩と適当なバランスを考える訳ですが、それもけっこう面倒くさいのです。つまり、考えるのも作るのも面倒くさいという訳です。そういう次第なので、言ってみれば「作らず食べず」を貫ければ一番いい訳です。でもそうしたならば、自然の摂理ならぬ因果の故に、生きるのを止めるということになってしまいます

つまり、「自死は嫌だ!死ぬまで生きたい!」 ⇒ 「面倒くさくても、作って食べる!」 ⇒ 「全くいい加減な手抜きの即席調理でもよい」 ⇒ 「でも、栄養(調合飼料)は必須だ」 ⇒ 「餌」 という図式が成り立つという次第であります。こうした流れの中で、僕の究極の餌は、1日「丸薬1錠」です。この丸薬を1錠飲めば、満腹中枢も味覚も食欲も、そして栄養価も満たされる、という具合になったらベストなのですね。そうなのです、そのように希望します!という次第なのであります。多分!

今朝は、大分前に従兄弟から貰った大きなビーフステーキを食べました。冷凍庫に半年以上眠っていたのです。以前「ためしてガッテン」で解凍方法をやっていたので手順は知っていました。でも適当に解凍して食べたら、実に軟らかくて旨かったですね。ステーキは過日、箱根でも皆と一緒に食べたのですが、自分から望んで食べることはないですね。肉も食べないとダメなんですよね。できたら、鶏の胸肉(抗老化)か脂身が少ない豚肉がいいですね。僕にとって霜降りバッチリのステーキを食べるということは、望まない仇討をするようなものです?でも、ステーキはもう一枚残っています    

書きながら8chのドキュメンタリーをみていたら遅くなってしまいました。 宮崎県在住のピアニスト、野村あすかさん。広汎性発達障害ということで大変なご苦労の中でも、元気いっぱいなお譲さんでした

しかし、それにしても、とにもかくにも 選挙というわけです

                                           


「天のしずく」を観て

2012-12-11 20:32:56 | 日記

 記録映画で辰巳芳子さんにお逢いしてきました。「食は生死を分かつ」それも出来れば良い

食を。良い食とはいい食材。良い土(土壌)を作ると良い食物が出来ると農家の方は言い、よい

野菜が出来ると辰巳さんに渡したいと言ってました。きっと美味しいものができると・・・

食事つくりは食材をやさしく丁寧に扱い時間をかけることにより食材のもつ本来の味を上手く

引き出すなど、最近の何でもすぐにという風潮を考えるきっかけになります。あまり難しい料理

が出来ない私には昔の田舎料理を思い出します。私でも出来そうなメニューをいくつか拾いま

した。近いうちに作ってみたいと思います。


急性上気道炎なのだそうです!(@_@)

2012-12-08 02:27:06 | 日記

まだ生きています!という感じなのですが、最悪の身体状況でここ数日を過ごしてしまいました。といっても、まだ経過中でもあるのですが。
まず、テニスの試合中、靴が滑った時に足首を少し捻ったのです。そしてその時は大したことがなかったのです。でも帰宅後少し痛みがでた訳です。それで湿布薬を塗って、何とか治るのではないかと期待したのです。しかし、翌日になっても、痛みは少し残っていた訳です。それにもかかわらず、翌日には、スポーツ用のサポーターを二種類、二枚を重ね合わせて、テニスをやってしまったのです。

その日帰宅後、前日以上に痛みがひどくなってしまいました。こうした事態になるであろうことは、全く当りまえのことなんですよね。汝自身を知れ!という訳です。おそらくこうした場合には、若者でもテニスを控えると思うのです。それが、もうすぐ古希になるというお爺さんが身の程知らずにも、なのでした。そこで思うことは、家の中に、いい加減にしなさい!、と言ってくださる人がいなかったという不幸もあるというものなのでありますのですが

それから数日して痛みが取れたので、コートへの復帰が遅くなると嫌だなと思い、ストレッチを始めたのです。それにしても、少しずつ負荷をかければいいものを、痛みがなかったので患部を逆方向に曲げるストレッチを強くやってしまったのです。その結果、何と、再び

そしておまけにその夜に、喉の違和感が急に出てきたのです。それから、咽喉のいがらっぽさが増してきて、少しの咳も出はじめた訳です。そして更に、いわゆる風邪をひいた時の全身的な不快な感覚が出現してきたのでした。僕はこれは要するに風邪だろうなと思ったのです。でもこうした症状というのは、「急性上気道炎(かぜ症候群)」ということなのだそうです。この病名は、ネットで調べた結果の自己確定診断なのです。それにしても、ネットは有難いなぁと、またまた感謝した次第です。でも、まだ現在、喉のいがらっぽさとそれに刺戟されて、咳がけっこう出てもいるという具合です。とにかく、早くてテニスがしたい!という訳でもあります。

<>内の短縮URLは、時間帯によってはアクセスが殺到し、エラーになる可能性もあります。< 急性上気道炎(倉敷第一病院) http://9oo.jp/drzTU  急性上気道感染症 ・治療法ガイドライン(東京女子医大) http://9oo.jp/pvxNX  「うがい」について、ウイキペディア http://9oo.jp/LQRU2  この「うがい」の解説も参考になりました。他のサイトを参照してみても正確だと思いますが>  

              

  
           自宅の小さな紅葉 11月27日         ⇒⇒⇒               11月30日、クリックで拡大します。

 
tagawaさんが「終の信託」をご覧になって、感想を書かれていました。ここで、感想についての感想を書かせていただきたいのですが、コメントは映画を見てからにしたいと思っています。その理由は、感想を読ませて頂いたのですが、スーの客観性を欠いた読解力では、多分正確な理解に届きそうもありません。それに、そもそも映画の感想について、その同じ映画を見ていない人がコメントするということはあり得ない訳です。せめて映画を見たならば、多少でも緊張感をもって、tagawaさんの言葉にも向き合えるのではないかと期待する訳です。

でも、tagawaさんの感想について、su-の今現在の印象としては、su-が予告編をみたりネットで読んだ範囲での知識からして、tagawaさんと同じような印象をもたされています。といっても、全くいい加減なsu-なりの理解ともの言いでしかあり得ない訳ですけど。

文章の中でよく理解できかったことばが三つありました。一つは「法治国家が持つ大きな矛盾」といわれていたこと。それから、①の「本来明確には分類できない人間の行為」。②のコメントの、「いずれの場合も欲が介在する故に起きる問題」と「死は本来忌むべきものではないにもかかわらず、安らかな死を得られないのは、死に伴う欲が介在するからでしょう」の、「欲」という言葉です。

こうした言葉の理解が怪しいという事態は、どうもsu-は、抽象的な言葉に対してアレルギーがあるということでもあります。要するに、抽象的・観念的な言葉についての理解があやふやでしかないという訳です。こうしたことは、思いかえしてみると、小学生の時から感じていたような気がします。でもそれから幾星霜…、という努力は全くしなかったということになってしまいます。

でも、こうした言葉について、su-なりの何とはないあやふやな意味づけというか解釈は一応あるのですが、でもどこまで的を得ているものなのか全く覚束ないという訳です。 何にしても、この身の基礎体力が不足しているのが致命的です。

でも、上記にも引用したtagawaさんがそこで書かれた、「欲」という言葉には触発されました。そこで「欲」という過激な言葉が使われていることには、少しびっくりしました。su-にとって、この「欲」という言葉は大変懐かしいことばであり、何だかよく分らないけれども、過激でストレートな直情的でもあるといった言葉なのです。例えば、どこかの何方かが、政治の場で「愛」について声高に言われていたこととも多少響き合うといった感じなのです。

ただし、「欲」と「愛」は対蹠的な関係性にあるわけですし、およそその発言者の言葉の定義づけや存在の態様によっても、意味合いは全く異なると思う訳です。su-の理解するところからすると、tagawaさんがそこで使われた「欲」という言葉は、言ってみれば根源語の一つとして使われたように感じるのです。「人間存在⇔欲」といった絶対的な対の関係性という感じなのです。違っているかもしれませんけど、そのようなイメージで受け止めてしまうのです。根源語という言葉は、マルチンブーバーの『我と汝』で使われていた言葉であったように記憶しています。憶えているのは、その本の中で「我と汝」という対の関係性としての言葉は、人間実存の存立基盤を表現するような根元的な言葉として使われていたように記憶しているのですが、少し違うかもしれません。

つまり、tagawaさんが「欲」と書かれた意味合いは、人間の実存の根底的・本質的なあり様の一つとして使われているように感じたのです。何だかこうして書いている自分でもよく分らないことを書いているのですけど、「欲深」とか「我欲」や「貪欲」といった言葉は、人間倫理の負のイメージそのものでもあるわけです。でもまた、「欲」は、人間の本能に絡まるというか、付随する自然性としての人間の必然でもあるという訳でしょうか。また、仏教やキリスト教といった宗教が直面する、根源的な領域の問題でもあるように思うのです。でも、何だか頭がごちゃごちゃになりそうですので、いや、なってしまっているので、また書かせていただきます