はらじゅく86のブログ

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房総で金目鯛を!

2011-11-28 22:41:51 | 日記
 
 <私が最も美しいと思っている文章に「寺の秋は、その僅かな温もりを山茶花の花に咲かして行き過ぎた」という小説の一節があり、それを思いだしました>
 tagawaさん有難うございます。上記の一節を読ませて頂いて僕なりに何かを感じようとしたのですが、難しいなあというのが一番の印象です。勝手な文章を書きなぐったり書かれてある文章を恣意的に解釈することはできるのですが、その文章を味わったり精確に理解しようと努力することは苦手なのです。ですから、tagawaさんがそれをどのように解釈し受け止めたのかなということについては非常に気になります。それから気になったことは、その小説の作者と題名についてでした。その作家については、tagawaさんが好きな小説家の一人でもあることは間違いがない様に思うのです。ですから、誰が書いた小説なのかということには興味がありますね。そしてまたその小説とその一節には、ご自分の貴重な想い出と重なりあう感慨が込められていて共感するわけなのでしょうか。更にまた隠喩的な表現の巧みさに惹かれたことでもあるのでしょうか。ただ無調法者の僕には、そのコンテキストとやらも不明なので推測することがむずかしいですね。もちろん「美しい文章」とありますから、修辞を凝らしたその文章の質がtagawaさんの五感にフィットされたのだろうとは思うのです。
 この文章を何回も読み返して見ました。また、グーグルのヒットを信じないで文章をやりくりして検索してみましたが、やはり無駄でした。この一節だけでは、誰が書いたどの小説なのかは分りませんでした。最初読んだときは短歌か俳句のような感じで読みました。そしてまた最初に引っかかった言葉の意味としては、やはり、「行き過ぎた」です。それからこの情景を眼に浮かべようと色々とやってみました。文法的には「咲かして」が何故「咲かせて」ではないのかが気になりました。そこには「寺の秋」の何かが関与しているのかなとか。ただ僕の国文法は小学優等生以下の知識なのです。そして、作者は男女どちらかなのかも気になります。「咲かして」と使っているから男性です!か?違いますね(>_<)。文藝評論家だったら分るのかな~? 例えばここで中学生への試験問題を作るとして、≪「その僅かな温もり」とは何を意味しているのか、次の選択肢の中から一つ選びなさい! ①困難に打ち勝つ ②ひたむきさ ③理想の恋 ④寺の秋の想い出 ⑤秋から冬への気配 ≫ 教師向けの虎の巻には「但し正解はありません」とか。①~③はサザンカの花言葉です。
  スミマセン勝手なことばかりで

 写真は一昨日行ってきた房総半島勝浦市の「ホテル・ブルーベリーヒル勝浦」です。行かれた方は分ると思いますが、20万坪の敷地に数棟の宿泊・研修施設が点在しているのです。リゾートホテルというのでしょうか。こんなに敷地が広い贅沢なホテルは見たのも泊るのも初めてでした。友人に誘われて6人で行ったのですが、何と宿泊費は全員無料だったのです。友人の友人が会員になっている倶楽部がホテルと契約してあって、国内の幾つかの宿泊施設を何回でも無料で利用できるのだそうです。温泉付き会員制リゾートマンションには行ったことがありますけど、それとは比較できないレベルの贅沢さでした。とにかくホテルの施設の内容も凄かったです。全ての部屋がいわゆる「スイートタイプ」なのだそうです。僕たちも6人で3部屋でその部屋の広さが半端ではなかったのです。ベッドもダブルサイズの感じでした。宿泊部屋の他に豪華応接室があり、二次会はそこでやったのです。夜食は外の魚料理専門店へ食べに行きました。そこで4人は金目鯛の定食2100円を食べたのです。何と大ぶりの金目の煮つけがドーンとメインに御座るのです。東京で食べたらいくら位になるかなとか、どうにも品のない話で盛り上がりました。そして地酒の冷酒も旨かったのでした。金目鯛は深海魚タイプなので被ばく量はベスト上位みたいですけど、そのようなことは忘れてとにかく美味しかったのでした。贅沢三昧でスミマセンでした
 朝食のバイキングは千円でしたけど、同窓会でいつも使う、昨今流行りの込みで一万円以内の宿のバイキングとは違っていましたね。テニスコートも4面あり思い切り楽しめました。…でも…というわけにはいかなかったのですが、でも楽しかったのです。そのコートは一面が丘に囲まれた谷間にあるといった贅沢な設計になっていました。ですから隣りのコートが見えない訳です。いつも使っているコートは試合中でも隣りのコートからボールが転がり込むことは普通ですから、このコートの一面全体は贅沢この上ない広さなのです。ところがこのコートは、信じられない設計ミスのコートなのです。とにかくこのコートと四方の丘や目に入る周囲の場景は素晴らしい景観で心も和むというものなのです。しかししかしこのコートの周囲には実はネットがないのです。つまりコートの外に出てしまいそうなボールを受け止めるネットがないのです。どなたでも分ると思いますが、ピンポン式テニスならともかく初心者の打ったボールでも強く打つと、かなりの飛距離を飛んだり転がったりしていく訳です。ネットがないと何処までも転がり続けて丘を越えていってしまうわけです。ただこのコートを囲むボール止め用のネットがないのは設計ミスというよりも、景観を優先した為にやむなくネットを作らなかったということなのでしょう。ただ信じられない程の広大な庭があるのだから、その片隅にでもいいから思いっきりプレーができるようなテニス施設を作ったらいいと思うのです。庭内にはサッカー場とか乗馬の国内大会もできる施設もあるのですから、コートを作ることなどは費用的に安いし、集客の営業材料の一つにもなると思うのです。

 この旅は東京から7人乗りの車で行ったのですが、6人のグループでも友人3人以外は初めて会う人でした。初めて会った人達と二日間を共に過ごすというのは、非常に刺戟的で興味深いことが多いものですね。特に2人は日本語が十分ではない人だったので余計にそうでした。人と人とが出会うことは不思議なことだと思います。昔ときどき参加したエンカウンターグループのワークショップを想い出します。そこは全日本カウンセリング協会などによって設定された出会いの場所でしたが、でもいろいろなことがありました。

 福島第一原発の吉田所長が病気のため所長職を辞められるそうです。本当に突然のことでビックリです。そして心配ですね。この方のことについては新聞やネットでも話題になることが何度もありました。今回は入院の理由も伏せられていましたが、放射能の直接的な影響が関係しているのでしょうか。ご本人の会見は見ていないのですが……。

今宵はワインで!

2011-11-25 01:06:40 | 日記
  写真はこの家の庭に咲いている、多分サザンカです。ここにはツバキ科の樹が五本植えてあるのですが、その種類は何が何だか分りません。昔山に登った時に、色々な花の名前を知っていて教えて下さる人がいたのです。でも僕は折角教えてもらっても、数歩歩くとすぐにその花の名前を忘れてしまうのでした。今はもっとひどい状態です。例えばテニスの練習をしていて、前に踏み込んで打つボレーを身体に覚えさせようとしているのに、その都度繰り返して何回も忘れてしまうのです。人様の名前を記憶するのもホントウに難しいです。この団地の隣には大型のスーパーがあるのですが、その店の名前を忘れることが多くて、思い出せない時もしょっちゅうなのです。数年先の自分の脳の状態が心配になります。

 今日近くのデパートに寄ったらクリスマスキャロルの中で、毎年末恒例の輸入ワインがあちらこちらに山積みされていました。そこで今宵は僕もワインを開けました。酸化防止剤無添加の赤ワインです。ワインを呑むのは久しぶりです。呑んべいでもワインは余り好きではないので、いつもは干しブドウを食べて誤魔化しています。例のポリフェノール効果を期待してというわけです。フレンチパラドクスという訳です。
 でも、アルコールの怖さは色々あるんですよね。もちろん2合以上の日常的な飲酒や一気飲みのような多量飲酒ですけれど。例えば僕が聞いている事で、その①は、急性(慢性)すい臓炎(少し前の「ためしてガッテン」ー内臓が溶けるー)の怖さ(NHKのHPだと多分概要が)。その②は、理科大の教授(確か分子生物学でお名前は忘れた)が季刊誌『談』に書かれていた(「日本たばこ㈱」関連の機関が罪滅ぼしみたいに発行している季刊誌で、確か十数年前だったと思いますが、「老化の生物学」というような特集だったかと)要するにアポトーシスとネクローシスとかいう細胞の死の様態とまた再生の在りようについて書かれている中で、肝臓細胞への過度のアルコール飲酒によるダメージは、細胞の死と再生が繰り返される中で、その再生の回数には限界があるということだったと思います。肝硬変は肝細胞の再生が期待できなくなってしまうという末期の細胞状態だというわけです。その雑誌も探せばあるのですが家の中が。その③は、これも数十年前に千葉大医学部のどこかの医局が、「アルコールと脳萎縮の関連性」について研究をした結果が公表されていたのです。確か疫学調査だったと思いますが、その結果は、有意的にその関連性が認められたということだったと思います。呑み続けすぎると脳が縮みますよ!と。

 でもでもそうしたことごとは、呑むときは忘れてしまうのですよね。そして僕は呑み過ぎた結果脳細胞が萎縮してどうなろうと、また肝硬変になってしまったとしても、呑んだ後の責任は自分が取ればいいのだと思っている訳です。つまり僕にはこの自分の身体は自分の物だという信念が、確固としてある訳なんです。
 でもこの世の中にはそうした考え方というのを否定する立場の人たちもいるみたいなのです。例えば、約40年前に亡くなったスイス生まれのカール・バルトという欧米では最も知られている神学者は、この肉体は創造主である神から貸与されているのだと、そして実は時間もそうなのだと言っています。つまり土から創られたと例えられる人間はその罪を犯したにもかかわらず(創造主に向き合うことを止めた)、被造物として「限定における自由(自由刑ではない!)」いう栄誉(目的が与えられている)を神から与えられているのだという訳です。
 そして人間は連帯的に「共に生きる」様に創られていて、またそうしなさいと命じられているのだ、というようなことをいっていたと思います。人間は連帯的に生きる道かさもなくば虚無に至る道かの二択として以外に生きる道筋はないのだと。それ以外の道筋はあり得ず、非連帯への決断は人間の在りようとしては全く不自然でしかないのだと。その選択は虚無への選択でしかないのではないかと。しかしそう言われたって、それはあなたの勝手な思い込みでしょう、というわけでもありますが。
 そしてまたバルトという人は、聖書に記録された出来事である、その時の権力によって磔刑により殺されたイエスという人物の生きざまと、そこに残された言葉に、徹底して拘らざるを得ないようにされてしまった人間でもあるみたいです。そしてまた処刑によって血に染められた十字架は今、キリスト教のシンボルになっている訳です。バルトはその十字架について、水平的なこの世界の存在と価値基準に対して、上からの垂直的な”YES”であり”NO”でもある、といったことも言っていたと思います。そしてクリスマスというのは、十字架上で処刑され馬小屋で産まれたとされる人物の生誕を祝う、キリスト教の不可思議な祝祭でもあるのだと。
 
 こうした不思議な事態というのは例えてみれば、死刑が確定してしまったオーム真理教の教祖とされる麻原被告を連想し類比することも、完全には否定できないというわけです。そして僕は、ドストエフスキーの『罪と罰』をも思い起こすのです。主人公のラスコーリニコフは金貸しのお婆さんを殺した後に、あの永遠の女性ともいわれる売春婦のソーニァに出会うのです。そして彼女との関係の中で彼は、人として間違ったことをしてしまったのだということを心の底から思うようになっていく訳です。そしてそのソーニァが生きていける原動力になっているのは、その唯一の心の支えは、福音書のキリストなのだと、ドストエフスキーはそういう不思議な世界を想像したわけです。むかしの昔に読んだきりなのですけど、数年前には亀山先生(東京外語大学長)の訳が評判になったし読み直して見るといいのかもしれません。ソーニアを「永遠の女性」と云ったのは、早大哲学教授だった松浪信三郎(サルトル等の訳者でも知られていた)さんだったと思います。この罪という言葉ですけど、聖書の原語であるギリシャ語では「的外れ」とか「矛盾」という意味もあるそうです。そうしたら正に、僕などはピッタシ当てはまりそうな「罪びとの中の罪人」です。しかし、でも、そのラスコーリニコフが到達した、解ってしまった世界は、そんなに簡単に分ったといえる事柄である筈がないことも確実だと思うのです。ラスコーリニコフも麻原被告も、イエスも、血に関わらざるをえない生き方をした結果の、何か……なのだということは明らかではないかと思います。
 この世界には、色々な考えや信仰とやらをもって生きている人たちが沢山いるみたいです。誰にしてもお互いさまで、何かを感じ思い考え、何かが信じたられり信じられなかったりして、とにかく死ぬまでは生きるというわけです。

 それから今日デパートの青果売場で、生のスライスされた南瓜を買いました。いつもは北海道産の冷凍を使っているのですが、今日は試しに生をチンしてみたのです。そうしたら本当に”美味”そのものでした。冷凍とは比較にならない美味さでしたね。それから地元産のミニ人参を生でかじったのですが、これもウマかったです。この生噛りは冷凍以外に生野菜も必ず食べるようにしているからなのです。その理由は、生野菜は熱を加えたものと違って酵素が生きているということらしいのです。そしてこの酵素はとにかく身体にいいらしいのです。しかし、そんなに自分の身体のことを心配するのだったら、まずはアルコールを控えるのが筋だと思うのです。……そんなわけで今日も、取りあえず一応、健康を気にしている風な僕が存在しています。
 しかし、というか、何というべきか、僕のこうした拘り方の問題はどういう風に位置づけたらいいのかと。この日常をいい加減で無為に過ごしている者なのに、健康志向などチャンチャラおかしい、と言われても仕方ないです。昔山谷の問題に係わる中で、妻子と共に囲む山の手の食卓や自分の成り立ちを恥じ、時に山谷労働者と同じ肉体労働を自分にも課した大学教師がいました。一篇の詩のような思想書を残して、若くして脳腫瘍で急逝されたのでした。

 最近、朝日新聞の朝刊を手にすると、今日もそうだったのですが、まず「プロメテウスの罠」を読んでしまいます。今日から担当の記者は、男の人に代るみたいです。今日が初日の第4シリーズでは「無主物の責任」というテーマで内部被曝問題に焦点を当て、連載は十数回の予定だそうです。そして今日の記事なのですが、全くもって驚愕に値する内容で、ビックリ仰天なのです。朝日紙以外を購読されてい方には申し訳ありませんが、記事の内容は、とにかく近来まれにみるといえるような”信じられない!”内容なのです。今日の続きを読んでみないとまだ分らない点も多い訳ですけど、少なくとも東電の主張・理屈についての記事の内容については、信じられないよと言えるように思います。
 記事の冒頭は「放射能はだれのものか。この夏、それが裁判で争われた」とあります。この8月に、福島原発から45km圏に位置するゴルフ場が東電に汚染除去を求めて、東京地裁に仮処分の申し立てをしたそうです。
 その主旨は汚染による営業障害の補償です。それに対する東電の主張は、「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」更に答弁書では、「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」のだそうです。そして更に、「所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者(東電)が放射性物質を所有しているわけではない」
そして、その申し立てに対する地裁の決定は10月31日に下され、「裁判所は東電に除染を求めたゴルフ場の訴えを退けた」のだそうです。このゴルフ場は東北でも3本の指に入るコースなのだそうです。そして放射能の影響による営業被害は甚大で、地元の従業員17人全員も9月で退職とのことです。
 無主物とは所有者のない物なのだそうです。当該条文としては民法第239条(無主物の帰属)があります。法律用語の正確な理解は難しすぎますけれど、しかし事柄について凡その理解と全体の流れは分る訳です。そして、ここで報道されている限りでの答弁書の内容には反論できるような気がするのですが、どうでしょうか。とにかくこの争いについては、お付き合いしていけたらと思っています。ただそれにしても、まだ詳細については何も公開されていないのですから、どうしようもないわけです。司法関係に詳しい識者がきっと色々なコメントを出して下さると思います。ネットでも検索してみたいですね。

 それからこの記事を読んだ後に判例を読みたいと思って、僕は早速グーグルに取りつきました。でも頑張って検索してみても、該当なしなのです。これだけタイムリーな案件だから絶対に掲載されていると思ったのです。しかししかし、僕はお粗末でした、判例がでてこないので仕方なく東京地裁に電話で問い合わせたのです。親切な広報の方がでて下さって、仮処分の申請は「決定なのです」と。僕は「エッ!判決ではない」。記事には確かに、決定と書かれていたわけでした。当然「決定」は「判例」とは違うので(正確な法律用語の理解は難しいので分りませんが)社会的に注目されている訴訟ではあっても、判例としては掲載されるはずがないという訳でした。そして、記事にはこの後の訴訟の行方はまだ書かれていません。連載はまだ始まったばかりなので、これから記事にされるのだと思います。高裁に「即時抗告」をしたのかどうかということなのですが、いずれにしても本訴訟になることは間違いがないことなのでしょう。

 余談の余談ですが、検索の過程での僕のお粗末さはとめどない程でした。というのは、判例は読めるのかもしれないと思ってはいたのですが、判例が検索可能なHPを探すのに法務省から始めたのです。しかし、法務省の組織図を探しても最高裁はでてこないのです。そして僕はそこで初めて、「そうだ、三権分立なのだ!」と気がついた次第なのです。普通だったら、最初から最高裁に行きますよね。それからそこで、いくつかの判例を読んでみたのですが、気になったのはそこに掲載されるかされないかという取捨選択の基準は何か、ということでした。判例全体がHPに掲載されるはずはありませんから。先ほどの地裁の広報にまた電話で問い合わせた結果は、「その訴訟を担当した裁判官の(合議でも単独でも)判断(希望)で掲載が決まる」のだそうです。何だか?という気持ちになりました。とにかく判事さんの中にはその感覚や思考過程が一般人から見て、「エッ!」と言わざるを得ないタイプの方がかなりいらっしゃるみたいだし(無位無能の僕が生意気な言い方でまことに申し訳ない次第です)、僕が時々お訪ねする司法専門家の方々のブログでは、そうしたことについてよく嘆かれているのを見かけるからなのですが。<仮処分申請に対する裁判所の「決定」も、HPではなく判例集(決定集?)には載るはずですよね。その辺のことはネット調べることもできそうですけど、……>

 ところでその原発訴訟の裁判所の「決定」についてなのですが、裁判所は東電側の言い分に理があると認めたことになるのでしょうか。いずれにしてもこれは略式裁判な訳でしょうから、判事さんは面倒くさいので、そして本訴訟になることは間違いがないので、「そちらの方で本格的にやって下さい」などということは、あり得ないですね。とにかく「決定」の全過程を把握した上ででなければ、本来は何も言えないわけです。
 しかし、こうしたこの記事で報じられている東電の主張について、これを読んだ東電の社員さんはどんな受け止め方をするのだろうかと思いますね。恐らく学業成績が抜群に優秀だった大方の社員さんは、「エッ本当に!」と思うに違いないと思うのですが。違うかなあ? 少し前にこのブログにも書いたノンフィクションライターの佐野眞一さんは週刊誌の中で、『東電OL殺人事件』の被害者の女性について思いを寄せていました。この被害者の東電OLは社内でも優秀で、エリートコースに乗っていたのだそうです。そして父親も役員候補の優秀な東電社員だったそうですが、役員を目前にして病没したそうです。またこの女性の特異な性行については、社内の一部では認知されていたようなのです。また佐野さんがこの事件の取材と記事を書き進める中で、確か東電からの圧力や誘惑もあったということです。「東電」という名前を外して欲しい、と。

 以上いつも通り、何事についても中途半端な内容といい加減な文章で、勝手な感想を書かせて頂きました。アルコールも切れてきた感じなのでもうやめます。

雨も上がり、また今日が!

2011-11-12 09:04:13 | 日記
 
 当地も秋本番です。この木を見たときは奇麗だなぁと思ったけど、写真にするとよくわかりませんね。数日前テニスの帰りに近所のデパートに寄ったら、クリスマスキャロルのメロディーが流れていました。その時僕は店内をうろうろしていて、そのメロディーにはズット気が付きませんでした。でもその懐かしいメロディーが突然耳の中に飛び込んできたのです。丁度お酒の売り場だったのですけど。えっ!もうクリスマスなのか、と。そして少しして、またクリスマスが来るのだなぁと思ったのでした。こうした四季折々の行事には誰でも幾つもの想い出があるはずですよね。僕のクリスマスの想い出は、二十歳の時の本郷近辺での想い出が一番です。クリスマス礼拝に参加した後希望者で、子供たちも一緒に西片町から弥生町にかけてキャンドルを手にしてキャロリングをしたのです。確かその頃はご存命だった”小さい秋見つけた”などの作詞で有名なサトウハチロウさんの家の前を通ったのも憶えています。厚紙で巻いたロウソクを手にしてクリスマスキャロルを歌いながら、数軒の信者さんのお宅の玄関口をお邪魔したりするのです。キャロリングの行程の中心に位置し交番がある本郷弥生の交差点は、本郷通りと言問通りが交差しているのですが、この「言問通り(コトトイ)※」という名前は大好きなのです。この通りは、文京区小石川の「こんにゃく閻魔」というお寺がある交差点が出発点で、東大農学部の横から根津神社の近くの交差点を通り、上野寛永寺脇から入谷へ、そして浅草寺と浅草見番の間を通り言問橋へと続く道です。スミマセン、本当ににどうでもよい勝手な想い出話ですね。
 しかし本郷といえば、この街の象徴ともいえる東大のとりわけ安田講堂があります。そしてこの安田講堂へ機動隊がガス弾を打ち込み始めたのは、この数年後、1969年1月18日でした。確かその日の僕は仕事を休み、正門の向かい側あたりのビルの屋上で何人かの人達と一緒に檸檬を手にして、空の方を見上げていたように記憶しているのですが。 

 ※ 勝手ついでに、「言問い」をウイキペディアでみましたら、広辞苑では、こと‐どい 【言問ひ】(コトトイとも) 言葉を交わすこと。物をたずねかけること。特に、異性に思いを打ちあけること。万葉集20『今日だにも―せむと』だそうです。
 『東京おもしろ雑学』では、≪言問い通りの由来≫として、言問橋の由来は平安時代まで、さかのぼるようです。平安時代の六歌仙の一人、古今集歌人の中でも一二を争う人気歌人だった 在原業平(ありわらのなりひら)が、京を離れ、当時湿地帯が広がる辺境だったこの地に左遷され、はるばると隅田川の畔までやってきた時に、鳥の名に託して都の恋人を偲んだという伊勢物語の故事から言問を転用したものと考えられています。ちなみにこんな歌です。
「名にしおはば いざ言問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと」 (都鳥はユリカモメだそうです)
来年、墨田区押上に開業する「東京スカイツリー」の最寄駅の片側は、今の東武浅草線「業平駅」です。

前に投稿した記事を読み返していたら、僕の質問に対して田川さんが答えていて下さったのを僕が無視してしまっているのに気がつきました。昔母親から言われた、「…お前は自分に甘いよ…」という言葉を確認せざるをえません。例えば酸とアルカリについては、「つまり、人間の体は脳がコントロールしているので、自分に気分がいいか、食べたいか聞いてみるのが一番、ではないでしょうか」。結石については「食品を組み合わせて摂取することにより、余分なものは排出され、必要な成分は良好な状態で体に吸収されていきます」と、有難うございました。僕もそのように思います。仰られるように、自分の身体とよく話し合うこと、また一日30品目ともいわれるように食べ合わせ組み合わせに気をつけることをしたいと思っています。
 
 それから健康問題については昨日も、NHKの「ためしてガッテン・きのこパワー」を見ました。僕はこの番組のファンなのです。例えば、LDLコレステロールを減らすための工夫として少し前の番組の「お茶の摂取」とか今回の「きのこの食べ方」などは大変参考になります。また長寿番組なので過去の放映内容に誤りがあったりした場合には、反省点をキチンと報告していますので、今回もそうでしたけど信頼性も高まります。もちろん視聴者の自己責任が第一なのですが、いつも説得力があって実証的な内容が多いように思っています。
 ただ医学的な内容の番組については、監修的な立場の医師の選択の問題があると思います。難しい話題については、NHKの枠組みでは扱いきれない内容になるのは確実だと思います。例えば血液の生化学的な各種の数値などについても、正常の基準値となる上限~下限の数値はその関係する個別の学会が決めるわけだと思います。少し前まで盛んに云われていた総コレステロールの数値などが典型だと思いますが、その上限の数値を幾つにしたらいいのかは簡単ではないみたいなのです。欧米の標準医療・治療や国内の少数派の学説もキチンと紹介して、その学会認定の基準数値がどの程度確かで正しいものなのかを、そしてその治療に使われる薬についても、効能のプラス・マイナスの検証とか学会と製薬メーカーとの様々な関係とかについても検証するという作業は、深夜帯向けの特番ならありうるかもしれませんけど、通常のテレビ番組では扱えないように思いますね。民放ではより難しいかもしれないし。いずれにしても、医学的な話題を扱うのだったら徹底した取材や検証を繰り返し、どこから見ても公平だと思われるような番組を作る。そうしないと、不公正で正確さを欠く番組になってしまうと思います。そして何よりも、その結果を信じた視聴者がいたとしたら大変なことだと思います。余談で知人から聞いた話なのですが、多くの製薬メーカーさんは主に土曜日を中心にして都内のホテルで、勉強会と懇親会を年間を通して開いているそうです。もちろん恐らく自社製薬品についての勉強会・説明会・懇親会という名の、医師や看護士さん方への接待が眼目であるのは間違いないという話なのですが。しかし今読んで下さった方の中には、「でもだからどうしたの、そして間違っている部分が多いよ」といわれる人も沢山おられると思います。ただ僕としてはここで書き足りないことが沢山あるのも事実です。上記のことごとは、僕が信頼している何人かの専門家が書いたものを通して教えられたわけなのですが

 tagawaさんのブログで、僕が撮った二匹のネコちゃんの写真を見ました。何だか嫁にやった娘達を見るような気持になりました。そのブログのコメントには、「……~降りるべきか降りざるべきか、猫も迷っているのでしょうか(笑)」この前段では「TPPについてのニュースが連日メディアを賑わせています。賛否両論ですが、この機会に日本の経済構造、食糧事情についての理解を国民に広め、そのうえでどういう選択肢が良いのか、消費者として国益をどう考えるべきかなどを議論すべきではないかと思います」とありました。恥かしながら僕は、最近初めて、TPPをどう考えたらいいのか、真面目に少し悩んでいます。そして、TPP問題よろしく降りるべきか降りざるべきかと迷っている二匹のネコちゃんですが、テニスコートがある当市の総合運動公園の一角ではいつも、4匹のノラ猫ちゃんがウロウロしているのです。ブログに使って頂けてノラ達もきっと喜んでいることでしょう。僕もノラちゃん同様、光栄です!(^^)!。そしてノラというと、イプセンの『人形の家』のノラさんもいました……

 今日も一日が終ろうとしています。読み直して書き足したりしてみました。しかし、こうした自分の為に書く(自己表出(^。^))という意義以外には余り意味を持たない文章というのはどうなのかなと……。しかし自分で何かを書こうとして自分専用のブログを開設したとします。でもそこで日記代りというのはどうも無理だし、随筆というにもおこがまし過ぎるし、類語辞典を見たら「漫筆」とか「漫文」がでてきました。「その時の気分で、とりとめもなく書いたもの」という意味だそうですので、僕が書く文章にはピッタリな感じがします。でも聞いたことがない言葉で少し立派な感じもします。でも漫画という言葉があるから、これでいいのかもしれません。そう雑文というのもいいかもしれません。それから今こうしてこのブログで書くということ、つまり公開を前提にして他者を意識しながら書くということは、読み手を意識しないで書くのと違って多少の緊張感を持ちながら書くという事ができる訳です。これは凄く重要なことだと思いますね。こうしたブログを書く副産物の一つであるのは間違いないわけです。万が一どなたか上に書きならべた活字をよむという作業をして頂いた方がいらっしゃったら、この漫文ともいえないような「生徒の作文・雑文」にお付き合い頂き、誠に有難うございました。今まで文章を書くという作業をしたことが全くなかったのですが、こうして気が向いたことを書ける場所があることには意義があると思いますね。文章修業という言葉があります。朝日新聞社には、初心者に文章の添削指導をしてくれる通信で有料のコースがあるらしいのです。でもまずは、小学生の国語からやるしかないですね。 
 どうも、いつもお忙しいtagawaさんにばかり貴重なお時間をお付き合い頂いて、本当に申し訳ありません su-