![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/a5/ee56767ab971111178af05c1671fc01e.jpg)
写真はこの家の庭に咲いている、多分サザンカです。ここにはツバキ科の樹が五本植えてあるのですが、その種類は何が何だか分りません。昔山に登った時に、色々な花の名前を知っていて教えて下さる人がいたのです。でも僕は折角教えてもらっても、数歩歩くとすぐにその花の名前を忘れてしまうのでした。今はもっとひどい状態です。例えばテニスの練習をしていて、前に踏み込んで打つボレーを身体に覚えさせようとしているのに、その都度繰り返して何回も忘れてしまうのです。人様の名前を記憶するのもホントウに難しいです。この団地の隣には大型のスーパーがあるのですが、その店の名前を忘れることが多くて、思い出せない時もしょっちゅうなのです。数年先の自分の脳の状態が心配になります。
今日近くのデパートに寄ったらクリスマスキャロルの中で、毎年末恒例の輸入ワインがあちらこちらに山積みされていました。そこで今宵は僕もワインを開けました。酸化防止剤無添加の赤ワインです。ワインを呑むのは久しぶりです。呑んべいでもワインは余り好きではないので、いつもは干しブドウを食べて誤魔化しています。例のポリフェノール効果を期待してというわけです。フレンチパラドクスという訳です。
でも、アルコールの怖さは色々あるんですよね。もちろん2合以上の日常的な飲酒や一気飲みのような多量飲酒ですけれど。例えば僕が聞いている事で、その①は、急性(慢性)すい臓炎(少し前の「ためしてガッテン」ー内臓が溶けるー)の怖さ(NHKのHPだと多分概要が)。その②は、理科大の教授(確か分子生物学でお名前は忘れた)が季刊誌『談』に書かれていた(「日本たばこ㈱」関連の機関が罪滅ぼしみたいに発行している季刊誌で、確か十数年前だったと思いますが、「老化の生物学」というような特集だったかと)要するにアポトーシスとネクローシスとかいう細胞の死の様態とまた再生の在りようについて書かれている中で、肝臓細胞への過度のアルコール飲酒によるダメージは、細胞の死と再生が繰り返される中で、その再生の回数には限界があるということだったと思います。肝硬変は肝細胞の再生が期待できなくなってしまうという末期の細胞状態だというわけです。その雑誌も探せばあるのですが家の中が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
。その③は、これも数十年前に千葉大医学部のどこかの医局が、「アルコールと脳萎縮の関連性」について研究をした結果が公表されていたのです。確か疫学調査だったと思いますが、その結果は、有意的にその関連性が認められたということだったと思います。呑み続けすぎると脳が縮みますよ!と。
でもでもそうしたことごとは、呑むときは忘れてしまうのですよね。そして僕は呑み過ぎた結果脳細胞が萎縮してどうなろうと、また肝硬変になってしまったとしても、呑んだ後の責任は自分が取ればいいのだと思っている訳です。つまり僕にはこの自分の身体は自分の物だという信念が、確固としてある訳なんです。
でもこの世の中にはそうした考え方というのを否定する立場の人たちもいるみたいなのです。例えば、約40年前に亡くなったスイス生まれのカール・バルトという欧米では最も知られている神学者は、この肉体は創造主である神から貸与されているのだと、そして実は時間もそうなのだと言っています。つまり土から創られたと例えられる人間はその罪を犯したにもかかわらず(創造主に向き合うことを止めた)、被造物として「限定における自由(自由刑ではない!)」いう栄誉(目的が与えられている)を神から与えられているのだという訳です。
そして人間は連帯的に「共に生きる」様に創られていて、またそうしなさいと命じられているのだ、というようなことをいっていたと思います。人間は連帯的に生きる道かさもなくば虚無に至る道かの二択として以外に生きる道筋はないのだと。それ以外の道筋はあり得ず、非連帯への決断は人間の在りようとしては全く不自然でしかないのだと。その選択は虚無への選択でしかないのではないかと。しかしそう言われたって、それはあなたの勝手な思い込みでしょう、というわけでもありますが。
そしてまたバルトという人は、聖書に記録された出来事である、その時の権力によって磔刑により殺されたイエスという人物の生きざまと、そこに残された言葉に、徹底して拘らざるを得ないようにされてしまった人間でもあるみたいです。そしてまた処刑によって血に染められた十字架は今、キリスト教のシンボルになっている訳です。バルトはその十字架について、水平的なこの世界の存在と価値基準に対して、上からの垂直的な”YES”であり”NO”でもある、といったことも言っていたと思います。そしてクリスマスというのは、十字架上で処刑され馬小屋で産まれたとされる人物の生誕を祝う、キリスト教の不可思議な祝祭でもあるのだと。
こうした不思議な事態というのは例えてみれば、死刑が確定してしまったオーム真理教の教祖とされる麻原被告を連想し類比することも、完全には否定できないというわけです。そして僕は、ドストエフスキーの『罪と罰』をも思い起こすのです。主人公のラスコーリニコフは金貸しのお婆さんを殺した後に、あの永遠の女性ともいわれる売春婦のソーニァに出会うのです。そして彼女との関係の中で彼は、人として間違ったことをしてしまったのだということを心の底から思うようになっていく訳です。そしてそのソーニァが生きていける原動力になっているのは、その唯一の心の支えは、福音書のキリストなのだと、ドストエフスキーはそういう不思議な世界を想像したわけです。むかしの昔に読んだきりなのですけど、数年前には亀山先生(東京外語大学長)の訳が評判になったし読み直して見るといいのかもしれません。ソーニアを「永遠の女性」と云ったのは、早大哲学教授だった松浪信三郎(サルトル等の訳者でも知られていた)さんだったと思います。この罪という言葉ですけど、聖書の原語であるギリシャ語では「的外れ」とか「矛盾」という意味もあるそうです。そうしたら正に、僕などはピッタシ当てはまりそうな「罪びとの中の罪人」です。しかし、でも、そのラスコーリニコフが到達した、解ってしまった世界は、そんなに簡単に分ったといえる事柄である筈がないことも確実だと思うのです。ラスコーリニコフも麻原被告も、イエスも、血に関わらざるをえない生き方をした結果の、何か……なのだということは明らかではないかと思います。
この世界には、色々な考えや信仰とやらをもって生きている人たちが沢山いるみたいです。誰にしてもお互いさまで、何かを感じ思い考え、何かが信じたられり信じられなかったりして、とにかく死ぬまでは生きるというわけです。
それから今日デパートの青果売場で、生のスライスされた南瓜を買いました。いつもは北海道産の冷凍を使っているのですが、今日は試しに生をチンしてみたのです。そうしたら本当に”美味”そのものでした。冷凍とは比較にならない美味さでしたね。それから地元産のミニ人参を生でかじったのですが、これもウマかったです。この生噛りは冷凍以外に生野菜も必ず食べるようにしているからなのです。その理由は、生野菜は熱を加えたものと違って酵素が生きているということらしいのです。そしてこの酵素はとにかく身体にいいらしいのです。しかし、そんなに自分の身体のことを心配するのだったら、まずはアルコールを控えるのが筋だと思うのです。……そんなわけで今日も、取りあえず一応、健康を気にしている風な僕が存在しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
しかし、というか、何というべきか、僕のこうした拘り方の問題はどういう風に位置づけたらいいのかと。この日常をいい加減で無為に過ごしている者なのに、健康志向などチャンチャラおかしい、と言われても仕方ないです。昔山谷の問題に係わる中で、妻子と共に囲む山の手の食卓や自分の成り立ちを恥じ、時に山谷労働者と同じ肉体労働を自分にも課した大学教師がいました。一篇の詩のような思想書を残して、若くして脳腫瘍で急逝されたのでした。
最近、朝日新聞の朝刊を手にすると、今日もそうだったのですが、まず「プロメテウスの罠」を読んでしまいます。今日から担当の記者は、男の人に代るみたいです。今日が初日の第4シリーズでは「無主物の責任」というテーマで内部被曝問題に焦点を当て、連載は十数回の予定だそうです。そして今日の記事なのですが、全くもって驚愕に値する内容で、ビックリ仰天なのです。朝日紙以外を購読されてい方には申し訳ありませんが、記事の内容は、とにかく近来まれにみるといえるような”信じられない!”内容なのです。今日の続きを読んでみないとまだ分らない点も多い訳ですけど、少なくとも東電の主張・理屈についての記事の内容については、信じられないよと言えるように思います。
記事の冒頭は「放射能はだれのものか。この夏、それが裁判で争われた」とあります。この8月に、福島原発から45km圏に位置するゴルフ場が東電に汚染除去を求めて、東京地裁に仮処分の申し立てをしたそうです。
その主旨は汚染による営業障害の補償です。それに対する東電の主張は、「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」更に答弁書では、「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」のだそうです。そして更に、「所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者(東電)が放射性物質を所有しているわけではない」
そして、その申し立てに対する地裁の決定は10月31日に下され、「裁判所は東電に除染を求めたゴルフ場の訴えを退けた」のだそうです。このゴルフ場は東北でも3本の指に入るコースなのだそうです。そして放射能の影響による営業被害は甚大で、地元の従業員17人全員も9月で退職とのことです。
無主物とは所有者のない物なのだそうです。当該条文としては民法第239条(無主物の帰属)があります。法律用語の正確な理解は難しすぎますけれど、しかし事柄について凡その理解と全体の流れは分る訳です。そして、ここで報道されている限りでの答弁書の内容には反論できるような気がするのですが、どうでしょうか。とにかくこの争いについては、お付き合いしていけたらと思っています。ただそれにしても、まだ詳細については何も公開されていないのですから、どうしようもないわけです。司法関係に詳しい識者がきっと色々なコメントを出して下さると思います。ネットでも検索してみたいですね。
それからこの記事を読んだ後に判例を読みたいと思って、僕は早速グーグルに取りつきました。でも頑張って検索してみても、該当なしなのです。これだけタイムリーな案件だから絶対に掲載されていると思ったのです。しかししかし、僕はお粗末でした、判例がでてこないので仕方なく東京地裁に電話で問い合わせたのです。親切な広報の方がでて下さって、仮処分の申請は「決定なのです」と。僕は「エッ!判決ではない」。記事には確かに、決定と書かれていたわけでした。当然「決定」は「判例」とは違うので(正確な法律用語の理解は難しいので分りませんが)社会的に注目されている訴訟ではあっても、判例としては掲載されるはずがないという訳でした。そして、記事にはこの後の訴訟の行方はまだ書かれていません。連載はまだ始まったばかりなので、これから記事にされるのだと思います。高裁に「即時抗告」をしたのかどうかということなのですが、いずれにしても本訴訟になることは間違いがないことなのでしょう。
余談の余談ですが、検索の過程での僕のお粗末さはとめどない程でした。というのは、判例は読めるのかもしれないと思ってはいたのですが、判例が検索可能なHPを探すのに法務省から始めたのです。しかし、法務省の組織図を探しても最高裁はでてこないのです。そして僕はそこで初めて、「そうだ、三権分立なのだ!」と気がついた次第なのです。普通だったら、最初から最高裁に行きますよね。それからそこで、いくつかの判例を読んでみたのですが、気になったのはそこに掲載されるかされないかという取捨選択の基準は何か、ということでした。判例全体がHPに掲載されるはずはありませんから。先ほどの地裁の広報にまた電話で問い合わせた結果は、「その訴訟を担当した裁判官の(合議でも単独でも)判断(希望)で掲載が決まる」のだそうです。何だか?という気持ちになりました。とにかく判事さんの中にはその感覚や思考過程が一般人から見て、「エッ!」と言わざるを得ないタイプの方がかなりいらっしゃるみたいだし(無位無能の僕が生意気な言い方でまことに申し訳ない次第です)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dogeza.gif)
、僕が時々お訪ねする司法専門家の方々のブログでは、そうしたことについてよく嘆かれているのを見かけるからなのですが。<仮処分申請に対する裁判所の「決定」も、HPではなく判例集(決定集?)には載るはずですよね。その辺のことはネット調べることもできそうですけど、……>
ところでその原発訴訟の裁判所の「決定」についてなのですが、裁判所は東電側の言い分に理があると認めたことになるのでしょうか。いずれにしてもこれは略式裁判な訳でしょうから、判事さんは面倒くさいので、そして本訴訟になることは間違いがないので、「そちらの方で本格的にやって下さい」などということは、あり得ないですね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dogeza.gif)
。とにかく「決定」の全過程を把握した上ででなければ、本来は何も言えないわけです。
しかし、こうしたこの記事で報じられている東電の主張について、これを読んだ東電の社員さんはどんな受け止め方をするのだろうかと思いますね。恐らく学業成績が抜群に優秀だった大方の社員さんは、「エッ本当に!」と思うに違いないと思うのですが。違うかなあ? 少し前にこのブログにも書いたノンフィクションライターの佐野眞一さんは週刊誌の中で、『東電OL殺人事件』の被害者の女性について思いを寄せていました。この被害者の東電OLは社内でも優秀で、エリートコースに乗っていたのだそうです。そして父親も役員候補の優秀な東電社員だったそうですが、役員を目前にして病没したそうです。またこの女性の特異な性行については、社内の一部では認知されていたようなのです。また佐野さんがこの事件の取材と記事を書き進める中で、確か東電からの圧力や誘惑もあったということです。「東電」という名前を外して欲しい、と。
以上いつも通り、何事についても中途半端な内容といい加減な文章で、勝手な感想を書かせて頂きました。アルコールも切れてきた感じなのでもうやめます。