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桜の花のままだったので、こんどは青葉にしてみました。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」 これは江戸時代中期の俳人山口素堂の俳句だそうです。
カツオと言えば千葉県の水揚げ量は全国でも有数です。とくに銚子漁港や勝浦漁港が有名です。
ところで、皆さんはカツオのお刺身を食べるときに、薬味はなににしますか?
たぶん普通の食べ方としては、根生姜をおろして醤油と一緒に混ぜ合わせて、それにお刺身をから
ませて食べるのではないでしょうか?
それから僕は食べたことはないのですけど、カツオのお刺身にわさび醤油は合わないと思うので
すけど、どうなんでしょうか。こんど、そのうち一度試してみようかと思います。
しかし、千葉県のとくに銚子のほうでは生姜ではなく、にんにくの生をすりおろして醤油にから
めて食べるのが普通の食べ方のようです。じつは僕も子どものころから、こうした食べ方をして
ていました。ただこの食べ方で気を付けないといけないのは、胃を荒らしてしまう可能性がある
ことです。お刺身を食べる前後に牛乳を飲んでから食べるとか、水分をおおめに飲むとかしない
と胃痛の原因になる可能性があるわけです。
でも、カツオの食べ方としては、脂の多いカツオを火であぶって食べるのが美味いと思うのです。
作り方は簡単です。僕よりも皆さんのほうがご存知だとおもいます。ようするに三枚におろして、
皮付きのまま、身の全面をお好みの焼き具合に焼き上げればいいわけです。だと思いますけど?
ネットで調べれば、いろいろな調理方法が紹介されているのだとおもいます。
しかし、平成がまもなく終わりだそうです。
年号関連の番組を、NHKを中心にしてテレビをちらちらと見ていたのです。番組表を見ると一
目瞭然なのですが、とにかくNHKがほとんど途切れなくという感じでの特番の編成なのですね。
NHKの歴史を考えれば当たり前の話なのかもしれません。なにせNHKは国営放送であったわ
けです。いや正確には公共放送というべきなのかもしれません。でも予算は国会の承認が必要だ
し、株式会社の取締役に相当する経営委員の選任は、その時の内閣総理大臣の意向が反映される
結果になっている現状があるわけです。その他、国家予算の中から政府の補助を受けている部分
もあったり、何よりもNHKの定時ニュースなどの報道内容を考えてみた時に「これって放送法
によって不偏不党性を課されているはずなのにおかしくない」と思わざるを得ないニュース内容で
あったりすることが多いと思うのです。たとえば民放各局が丁寧に報道している問題について、
なぜかNHKだけがそれを無視していたりとか、あるいはその逆の場合であったりとか、といった
問題がままあると思うのです。
むかし「一億総白痴化」という言葉が流行語になった時代がありました。今、キーボードで打ち込
んでも「白痴」という言葉が出てこないのであれっと思いました。これは差別用語なのでという
ことなのだとは思うのです。でもこれは、このパソコンの入力ソフトであるマイクロソフトIMEの
問題なのですよね。
それはともかく、ウイキぺディアで一億総白痴化とは「社会評論家の大宅壮一が生み出した流行
語である。『テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の
想像力や思考力を低下させてしまう』という意味合いの言葉である」とありました。
しかし、この大宅さんのご意見はかなり極端だと思いますけど、でも子どもさんがチャンネルを
親の選択というフィルターを通さずに見続けたりする場合を想定すると、心配になるわけです。
また中・高校生くらいからでも、番組の意識化という関門を意識化するというプロセス抜きに
視聴を続けることの弊害はあるのだと思うのです。ここでも、学校教育が果たす役割は大きいと
おもったりもします。
しかし大宅さんのお名前も懐かしいです。もちろんこの一億総白痴化ということばも懐かしい。
この言葉は今では死語になっていることばなのでしょう。でも、白痴という差別語についてみれば
ドストエフスキーの『白痴』という小説などは、そのまま今でも流通していますね。
余談ですけど、僕はこの本を読んでいません。ただこの小説の主人公のモデルは聖書のイエス・
キリストなんだと言うことを、なにかで読んだような記憶があります。まあ、『罪と罰』『カラ
マゾフの兄弟』にしても、ドフトエフスキ―の小説は聖書の影響下にあることは確かなわけです。
しかし、またまた僕の悪癖が始まってしまいました。なにを言いたいのかがじぶんでも分からな
なくなってきました。すみません、と言いながらなにも反省などしてはいないことも確実です。
ようするに、テレビの番組の編成が気に障るということなのでしょうか?他ならぬ僕のことなの
ですが、ただ僕自身でもじぶんの気持ちがよく分からないのです。じぶんの思いがまとまらない
わけです。ただ、すこしばかり違和感があることだけは確かなことです。民放も含めて全部が同
じであってはいけないのではないか?
あの、先の大戦の戦時下では、国民に知らされる情報は大本営発表の一つのみであったというこ
とだそうです。むろん戦争についてだと思いますけど。まあよく分からないので調べてから発言
しなさいとお叱りを頂くことになりそうです。
しかし、平成天皇ご夫妻の憲法や原発や民主主義に対するお考えは、僕の推測ですけど、安倍さ
んをはじめとする現在の内閣とそのお取り巻きの方々とは明らかに異なると思うのです。こうし
たことはSNSの世界ではそれなりに、ある範囲のひとびとには共有されている情報だと思います。
もうお風呂の時間なのでやめます。
吉本隆明さんの著書に『共同幻想論』というのがあります。僕にとっては限りなく難しい本なの
です。でも、ふっとなのですけど、そこで言われていることを考えてみる必要があると思うのです。
国、国家というのは何であるのか、なにではないのか。それが問題とされているのだと思います。
たとえば、これは孫引きですけど、あの水俣病で「国」に対して訴えをしに行った患者さんの言葉
が次のように記録されているそうなのです。
「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅ
うもんは、おとろしか。[中略] むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかとこ
ろじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家(オルゲ)の国のあるじゃろか」
ここの孫引きの解説では「水俣という地方にいるから『国』が見えにくいのだと思っていた。しかし、
東京に言っても状況は同じで、それどころか『国』など、どこにもないのではないかという疑念を深
くした」と説明されています。
人間は、幻想を抱え込まずに生きていくことは出来ないわけです。必然性として人間関係のなかでは、
お互いの幻想(関係)が協和したり競合したりし合うのだと思います。それは国家という次元の問題に
しても共同幻想の問題として課題化されなければ、国の成り立ち・本質の解明は出来ない可能性があ
るのだと思うのです。と書いていると、えっ何だっけ?ということになってしまいます。興味のある
方はぜひ直接、吉本さんと対話をしてみてください。よい解説本もできました。僕はそれを読んでも?
明日からは「令和」だそうです。
とにかく、平成さんさようなら、そして令和さんこんにちは、ということになるのは間違いなさそう
です。
しかし、しかし平成さん、ほんとうにおつかれさまでした。
(この写真は無断借用ではなく、ぼくが撮りました)