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合宿で…?

2013-08-27 11:20:10 | 日記

久しぶりに書かせていただきます

9月の合宿ですが、現在のところ参加者は10名です。
でも、もう少し増えるのではないかと思っているのです。

締切りは20日迄でしたが、月末までは大丈夫です。
といっても、メンバーでこのブログを覘いている方は殆どいないようなので、セージさんに返信ハガキが届いて
いない何人かの方には確認のメールをさせて頂きました。

今回は、浜松のニシムラさんやセキドさん、本当にお久しぶりに懐かしいカマイさんとカオリちゃんも参加されます。
カオリちゃんは高校生なのかな?他の方の子どもたちは皆さん大学生か社会人なんですよね。
ぼくも、…どうでもいいからとにかく、子どもをつくっておけばよかった
などと言ったら、不謹慎な物言いもいい加減にしなさい!、とお叱りを頂くことになります
 
合宿地は、久しぶりの鎌倉です。
正確にいえば住所的には藤沢市です。でもその場所は鎌倉といってもよい場所ですから。

むかし鎌倉で仕事をさせて頂いていた頃、夏の季節にはときどき江の島にいきました。
その頃の住いから江の島には、自転車でもいける距離なのでした。 

晴れた日には富士山が見える場所で、焼きトウモロコシにビールで乾杯するのです。
むろん一人でです。相方は原宿でアルバイトをしていたころでした。
このアルバイト先も、どの様な因果の中でそこに行き着いたのか忘れてしまったのですけど、
その流通関係の研究所の所長さんは、吉本さんのシンパなのでした。
 

           合宿地周辺(拡大可)

 それから、前回このブログに書いた、法政大学での窪田先生のイベントに参加してきました。
参加してとてもっよかったです。何がどの様によかったのか、 よく分からない訳ですけど
でも、先生のお身内の方々の同窓会といった感じのする温かい雰囲気の集まりでした。

出席者した方々は、多くは学生さんだったと思うのですが、僕のような部外者は別としても、窪田先生の
長い教師歴のなかで先生と出会ったであろうそれなりの方々も多数お見かけしたのです。
大教室は満堂といえる盛況でした。 

発起人でもある稲沢先生やイワサキさんもおられて、稲沢先生は発題もされていました。
当日のシンポジストの発言のレジュメ(パワーポイント用)は下記のサイトから見ることができます。
また当日の写真もアップされています。 

  kubota-syuppankinen-event.jimdo.com

にはほんとうに力強さを感じたのです。先生の身体(はらわた)というか魂のような場所から発せられる言葉の持つ力をなのです。

ただ、愛弟子の末っ子といわれていた伊藤先生の発題をお聞きしても、ぼくには理解に届かない点がたくさんなのでした。
したがって、窪田先生の業績についても、同じように分らなさが殆どでありました。 

伊藤先生についても、印象としてしか総括できないわが身を確認する次第なのです。
伊藤先生は実にチャーミングな方でした。発題をお聞きしながら若い学生さんが演壇に立たれているような錯覚をもってしまいました。 
その、ナイーブさとしてしか表現できないのですけど、窪田先生と先輩方を前にして、大変なお気遣いをされていたのが少し違和感を
もたされてしまったというわけでもあったのですけど。 でも、素敵なかただなあという、どうしようもないミーハーな発題への総括で

そして発題の内容では、稲沢先生の「日本における援助関係論の系譜と窪田援助論」には、そういうことでもあるのか
と新たに教えて頂いた次第なのでした。 

上記サイトにある稲沢先生の発題のレジュメはパワーポイント用に作った資料でコピペができないのですけど、
先生のまとめを少しここに抜き書きせていただきます(タッチタイピングを身につけていないので)。

 「日本における援助関係論の系譜と窪田援助論」

・「援助」をめぐっては、「何を変えるか」といったことがメインテーマになる。
 ⇒『福祉援助の臨床』でも、「生の営みの困難」に焦点が当てられ、アセスメントから終結にいたる援助の過程が丁寧に説明されている。

・しかし、援助の展開過程を支えているのは、援助する人と援助される人との間に生まれる「援助関係」。
 そのため、本報告では、日本で援助関係に注目した人々を紹介し、窪田先生につなげたい。 

………ここで、坪上宏先生、久保紘章先生、尾崎新先生、窪田暁子先生についての概略説明など………

「無力さの実感」

・4名に共通する「無力さの実感」は、「~する」主体の成立を阻む、すなわち、「無力である=~できない」ため、「援助する援助される」
 といった「主ー客関係」がそのままでは成り立たず、関係性そのものを根底から問い直させる。

・その結果行き着いたのが、坪上先生の「循環的関係」であり、久保先生の「パートナーシップ」であり、尾崎先生の「現場」であり、
 そして、窪田先生の「臨床」であって、そこにおける「共同作業」であった。

・援助者における「無力さの実感」が援助関係論の背景にひそんでいる。

「敗北の援助論」構想

・窪田理論を継承する一つの方向性としては、「無力さの実感」をたとえば「敗北」としてとらえ、その地点においてどのような援助があり
 得るのかを考察する「敗北の援助論」といったものが構想できるのではないか。

・「~する」とか「~できる」を前提とする援助論ではなく、「できない」地点で、たとえば「存知のごとくたすけがたければ」
 (思いのままに助けることはできないのだから) から出発し、にもかわらず、人は人に対してどのように関わりうるのか
 という問いを立てることも可能。

 もしも、稲沢先生の発題の内容について興味のある方は、先生の下記URLのブログにアップされている「思想としての援助」の正続
をお読みいただけるとよいとおもいます。 有斐閣の『書斎の窓』に書かれたものです。
ぼくは先生の文章もすきなのであります。もちろん方向性もなのです。

 http://gomukh85.jimdo.com/
ぼくは、吉本隆明さんの思想について殆ど理解できないにもかかわらず、吉本さんもすきなのです。
そして、にもかかわらず、吉本さんの基本的な問題意識はぼくと近似的なんだよな、などとかってに思いこんだりしてもいるのであります。

また、上記の稲沢先生が書かれたものの根底を流れる、基底流というか基底音のようなものが、僕が吉本さんから受けとめて
なんだかよく分からないけれど、ほんとうにそうかも!と思ってしまうことがらとある種同根というか通底している感じなのです。 

 吉本さんは、その親鸞を語るなかで、「往きと還り」ということばをとても大事にしています。
そして、親鸞がいっている往相と還相という言葉について、往相の課題については「喫緊の課題」、還相の課題には「永続的な課題」
であるともいえるのではないか、と解説してくれています

稲沢先生が書かれた「敗北の援助論」の眼目も、「存知のごとく助けがたければ、この慈悲始終なし」という親鸞の言葉を引用されて
いるように、吉本さんの上記の言葉でいえば、「永続的な課題」 だということができるように思うのです。

もちろん、お二人とも、その往きと還りのあれかこれかではなく、それもこれもという課題(見方)との取り組みを同時にしなければ解決
(解くことも)できない問題であるといわれているとおもうのです。

吉本さんの著書『未来の親鸞』(講演録)のなかで(親鸞論ですから親鸞に即して浄土という言葉もでてきます。でもこの浄土は、
マルクスやキリストの理念や信仰と同義的に使っても いいとおもうのです)、

「…ですから浄土へ往って、浄土から還ってくる視線といいますか、還ってくる眼を獲得したところから<慈悲>というのを徹底して考えた
ほうがいいです。…」 

「…現在では、往きの過程でみたらそれですんだとか、還りの過程でみたらそれですんだということがらじゃなくて、往きと還りの見方を
同時に行使しなければ、あることがらの本質はわらないという問題がぼつぼつ出てきているということです。なぜ出てくるかというと、
ようするに時代がわからなくなってきているからです。つまり資本主義がどのくらい発達して…」1989年北区での講演。

 久しぶりの投稿なので、近況を少しなどとも思っていたのですけど、ぐだぐだと書き連ねたかもしれません。

少し前に、久しぶりによった銀座の教文館で、たまたまある本に出会って少しく刺激をいただいたのであります。
『3.11以降とキリスト教』という、岩波の編集者だった方が始めた出版社から出た本なのです。

荒井献(東大名誉教授・新約学) 、本多哲郎(カトリック司祭・新約聖書翻訳等・釜ヶ崎で23年間現在も活動家として在住)、
高橋哲哉(東大教授・哲学)という、3人のかたへの編者によるインタビューと、各自による発題と鼎談なのです。

読んでおもったことなのですが、生きている間に自分の課題とホントにキチンと取り組まないと、なぞなぞばかりを抱えたままで
自分の人生が終ってしまいそうだ、ということなのでした。

この先生方の考え方や生き方はほんとうに刺激的ですね。ことに本田神父の原典に忠実と思える実存的聖書解釈?には。
本田神父はギリギリ神父とでもいえるような、カトリック教会の極限に位置する立場に立たれていて、しかし少数者である
こころあるシスターや信徒に支持されている方に違いないとおもい、感銘を受けました。
カトリックの底力とで言えるような方なのだと思うのです。生意気な言い方で恐縮限りなしなのですが。

荒井先生は一度ある集まりでお目にかかったことがあるのですが、集めてある先生の本をホントに読むしかないのです。
新約と取り組むしかない。ぼくが興味のある方々は皆さん、最後は、東大・西洋古典学科Dr.の出身なんですよね。
そして外でDr.をとられてきた人ばかり。何だかどうしてなのかと思うのです。商業高校出身の意味不明者としては…… 

田川建三さんというかたがいるのです。多数の学生たちの除籍と共にICUを首になった、70年代の懐かしい田川さんにも、
方向性はともかく再度新たにお世話になりながら。そしてこの田川さんは吉本さんとある集まりで数回同席もしています。
そして、吉本さんを批判する本を一冊書かれてもいるのです。 

この田川さんについて興味がある場合は、数年前の季刊誌『考える人』の特集「はじめて読む聖書」がベストです。
今思い出して手に取ってみたのですが、「神を信じないクリスチャン」ということで紹介されています。
とにかく写真なども数枚あって、その語学の研鑽の内容や田川さんの成り立ちの基本が紹介されています。 

新約を読む場合、田川さんを抜きにしては考えられないといわれている方なのです。もちろん荒井先生もなのです。

そして、ビックリしたのは、あの内田樹さんのインタビュー記事「レヴイナスを通して読む『旧約聖書』」と、
内田さんと福岡伸一さんの対談もその季刊誌に掲載されていましたのです。対談は読んだ記憶があるのです。 

専修科の同期生で、田川さんの講義を受講した人がいたのです。僕は彼女からノートをおかりしたこともあるのでした。
いま少しまわっているせいではなく、お名前を失念してしまったのですけど?
アレっ!想いだしました!………

合宿の案内もお届けしてあるはずのⅩさんなのです。その節は有難うございました
といっても、このブログをご存知ないですよね。
でも、ノートをお借りしたのは、むかし社会福祉法人東京コロニーに在籍していた時の仲間のAさんだったかも? 

高橋先生はお名前を目にしたことがあるだけでしたけれど、靖国問題や宗教・キリスト教の本質への視点についてどうして
そんなに深く鋭く精通されているのかと。また、学生時代に荒井先生の講義を受講されたこともあるということなのでした。

やっぱりぼくは、最後のヒロくん!を、的を絞ってやらないとどうしようもない?  
とにかく、はずかしながら、しっかりと立って、自分の足で歩く!…

ということなのですが

なんだか想いで話のような感じになってしまいました