わが家の玄関先のつつじです。今はもう消えかかっていますけど、満開の時はこうして奇麗でした。
しかし、この写真はこの画面には大きすぎますね。こうした写真はUPするときに重さ(大きさ)ではなくサイズが問題なんでしょうか。圧縮とサイズ変換の関係がよく分らないわけです。どちらから変換しても比例的に反映されますよね。分らないことついでに、前回の投稿の写真も何故か二枚アップされてしまって消すことができませんでした。文章をコピーしておいて新規投稿すればいいのかもしれませんけど。バイトとピクセルについて多少は分りますけど。でもこうしたことは中学生でも分ることなんでしょうね
それとまた、以前こんなこともありました。このブログに投稿した後で読み返してみたら文字の間違ったところがあったので、その修整を終えてアップした後だったか途中だったか忘れましたが、そうした過程で何故か投稿記事が消えてしまったことがありました。このブログの最近の機能としてこうした場合の保存性がよくなっているんですよね。でも何故か慌てて新規投稿をクリックしてしまって、おまけにそこからも救済される個所があったにもかかわらずそこもクリックしなかったので、結局せっかく書いた投稿記事を全部パーにしてしまったことがありました。とにかく分らないことが多すぎます。でもボケの防止になるので、これからまた勝手なことごとを書かせていただけたらとおもいます。このブログの品位が落ちてしまいそうですけど、皆さんお忙しいので書いている暇はなくてもときには想いだして読んでくださっているようなので、そうした皆さんの許容範囲の大きさに甘えさせていただきます?
この部分書き直しました
前回書いた歯科のことですが、想い返してみて大事なことのひとつを書き忘れました。その、お金のことなんですけど、30年くらい前に読んだ日本消費者連名でだした本の中で書かれていたことです。つまり、歯科医が本当に患者第一に考えて丁寧に良心的に治療に取り組んだとしたら、経営的には成り立ちにくいということなのでした。例えば、根管治療(神経を抜いた後の処置)を丁寧にやったら時間と労力が大変なのに保険点数が低いためにお金にはなりにくいのだそうです。近頃広告でこの根管治療を売りにしている歯科医院をみかけます。ネットで検索するとたくさんあります。でもどうなんでしょうかよく分らないけど?根管治療といってもいろいろとあるのかもしれません。
今受診中の医師から虫歯の治療で歯の神経を抜く抜かないで僕が判断を求められたときに、歯科のマイクロスコープ(ファイバースコープ)のことをお聞きしたら根管治療には十数万円かかる歯科医院もありますよと仰っていました。多少むずかしくても神経を抜かないのがベストなのは当然なのですし、先生は根管治療の難しさを言われていた訳でしょうか。とにかく、先生方も大変だとおもいます。医療の志をお持ちの先生方がほとんどだとは思うのですけど、友人がインプラントを二本入れたために本当に苦労しているのを聞かされるのも嫌なものです。
そもそもインプラントは科学的な安全性や有効性がホントニきちんと確認されているのかなあと思ってしまいます。僕はインプラントをしている医院には行かないわけですけど。これを読んでいただいた方でどなたかインプラントをされて良かったという方がいたらお聞きしたい気持ちです。でも、これだけ大々的に多くの歯科医院が施術していて誰かがされていても、問題になり表面にでるケースはそんなに多くはないような感じです。僕は意地が悪い性格なので、泣き寝入りが多いんだろうなと思いこんでしまっています。でもこの方式で助けられて有難いとおもわれている方も沢山いるわけなんでしょうね。
良く分りもしないのに勝手なことばかり書いてしまっています
それからついでにもう一つだけ、むかし確か京橋にA歯科という医院があってそこは無保険治療で有名でした。診療は全部自費でしかも一回の診療時間は二時間とか三時間とかで、一連の治療費(多分2~3回の診療)は数十万円。遠方からの患者さんも多かったみたいです。歯を絶対に抜かない!が原則で集中治療をするわけです!保険を扱わずに自費診療だけの歯科医院は珍しいとおもいます。でもお金持ちの忙しい方にとっては神様みたいな先生であることは間違いないですね。少し前に、その先生の医科歯科出身のお弟子さんが同じスタイルで都内で開業されているのを週刊誌の広告で見かけてビックリしました。
お金のことですけど、ですから、僕が受診した都内の歯科医院についても、実は受診後に少し心配してしまいました。まさか先生には聞けませんからね。
それでせめてその先生が書かれた本を(一般向けに)買っておこうかなと思ったんですけど(待合室にご著書も数冊置いてあるんです。そして貸し出しもされているのです)欲しいと思った本は再販待ちでした。
結局、歯科の保険点数が問題なんのだとおもいます。予診とかインフォームドコンセントを丁寧に時間をかけてやっても、点数は上がらないわけです。根管治療もそうみたいです。変な表現をすると、歯をいじくらないと点数が上がらない!みたいですね。結局結論としては、厚労省と歯科医師会と保険者(点数)と患者さんとの、”いたちごっこ”なのでしょうか。医師も人間ですから、お金は稼がないと生きてはいけないわけです。思うことは、もしも僕が歯科医師になっていたとしたら、絶対に良い歯科医師にはなれなかったであろうことは間違いない!そうおもいます。よほどのなにかがじぶんになければ!
先生方には、「ヒポクラテスの誓い」とか「ジュネーブ宣言」とか大変な使命が課せられているみたいです。むかし鎌倉にいたころ少し読んだことがあるのでいま思い出したんですけど、ネットで見たら、ジュネーブ宣言には、
「医師の一人として参加するに際し、 私は、人類への奉仕に自分の人生を捧げることを厳粛に警う。・ 私は、私の教師に、当然受けるべきである尊敬と感謝の念を捧げる。・ 私は、良心と尊厳をもって私の専門職を実践する。
・ 私の患者の健康を私の第一の関心事とする。・ 私は、私への信頼のゆえに知り得た患者の秘密を、たとえその死後においても尊重する。・ 私は、全力を尽くして医師専門職の名誉と高貴なる伝統を保持する。・ 私の同僚は、私の兄弟姉妹である。
・ 私は、私の医師としての職責と患者との間に、年齢、疾病や障害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、所属政治団体、人種、性的オリエンテーション、或は、社会的地位といった事がらの配慮が介在することを容認しない。
・ 私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることはしない。・ 私は、自由に名誉にかけてこれらのことを厳粛に誓う」
こうした誓いをして先生になられた多くのほんとうの先生方に心からの敬意を捧げさせていただく次第です
明日は用事で上京なので、表題の件はひと言だけ書かせていただきます。遅い時間に夕刊の中のある記事を読んでいて感銘を受けたので、このブログに書きたいなと思っていました。(今日は夕方から1万4千歩速歩しました
)
その記事というのは、朝日紙夕刊の一面に連載されている<ニッポン 人・脈・記>「最後の一葉 ⑨ ”新宿の路上 つながって”」です。
以前このブログで、セーさんが教えてくれた記録映画「今日も焙煎日和」の「NPO法人自立生活サポートセンターもやい」という新宿で活動しているグループについて書いたことがありました。
きょうの記事はこのグループの設立者二人の関係についても書かれていました。その二人は湯浅誠さんともう一人の稲葉剛さんについてです。ここでは湯浅さんは脇役なんです。この記事では、約20年くらい前から新宿の路上生活者の援助活動に取り組んできた3人の軌跡が述べられていました。故・見津毅さんと川崎哲さんと稲葉剛さんです。稲葉さんは湯浅さんと一緒に「もやい」を作ったんですね。僕は山谷と釜が崎はそれなりに知っていました。そして横浜の寿町についても仕事で多少関係したこともあり少しは分っていました。でも新宿でそうした活動に取り組んでいる人たちがいることは全く知らなかったわけです。でも昔のことごとを想い出してみれば、その頃新宿でいろいろな動きがありそのことが報道されていたときに、新聞を丁寧に読んでいたら知ることはできたはずです。
この記事で、三人の関係と、そして湯浅さんも含んだ四人の人たちの人脈(新宿の路上のつながり)その関係性を読んでいて、ほんとうに頭が下がります。毎日ま・い・に・ち僕らは鉄板の!という歌詞でヒットした「たいやきくん」の歌があります。この歌について<私も毎日毎日、ここでうんざりしています。 海に逃げたいと、現実逃避をしています。 生きていくって、本当に大変です>という風に言っている人もいます。毎日だらだらと日常性の中に溶け込んでしまっている自分でも、こうした記事を読ませて頂くと少しは感ずるところもあるというわけです
<人生の岐路>という表現がありますけど、しかしだれにしても、日々刻々今まさにという、そうした帰路に立たされている、というわけでもあるのでしょうね。人間が生きるということは
「右か左かこの分かれ道に立ち良く見聞きしそして決断をしなさい」というわけなんでしょうか。
<存在しない神に祈る>という言葉があります。この言葉は確かシモーヌ・ヴエィユが言ったと思いますけど。存在しないはずの神さまに祈るのは全くの矛盾なんだだけれども、しかしそれでも祈ろうとする、あるいは祈らざるをえないということなのか。ヴェーユにとってその祈りの内容・対象は明確だったわけです。自らその渦中に身を投げ出してかちとろうとした当時のフランスの工場労働者の悲惨な情況の変革とか…。
ヴェーユはカトリックの伝統の中に育ったからそうした神様がでてくるのかもしれないけど、お百度参りをして出征した息子の無事を祈る年老いた母親の姿とか…。
上記の新宿に関わった<新宿の路上でつながった>人たちですけど、むかし聞いたことがある<地の塩・世の光>という言葉を想いだします