過ぎさってしまった日を
どうこういうのではないが
なんという
空の蒼さだろう
山村暮鳥「ある時」
(旧かな遣い変換)
上記した詩の作者である山村暮鳥については、その名前以外のことはまったく知り
ませんでした。でも少しまえに何かの関係からウイキペディアを読んでその概略を
知りました。ウイキの内容が、ここでも、どこまで正確かはわかりませんけど、ほかの
記事を読んでみてもそんなには違ってはいなさそうです。
上記の詩は、暮鳥に興味をもって、とくに「十字架」という詩を読んでみたいと思
ったのでさがしているうちに出会った詩なのです。ぼくも空が好きで、鎌倉にいると
きにはよく江ノ島や七里ガ浜にいってよく海や空を眺めていたのでした。
十字架という詩は青空文庫にはなくて、国会図書館でコピペをすることができた
のです。国会図書館など格別の用事があるはずがないわけですけど、ネット上で
一般公開されているものもけっこうあるのですね。
また、暮鳥が洗礼を受けて後に神学について学ぶことになった神学校、東京築地
の聖三一神学校というのは、聖路加病院の隣辺りにあった聖公会の神学校だった
のだと思います。
ご存知の方がほとんどだと思いますが、日本聖公会は「英国国教会」の日本支部
といった位置づけだと思うのです。そして、立教大学、聖路加国際病院、滝乃川学園
をはじめ、日本国内にたくさんの大学や病院を創設しているようです。
ウイキの日本聖公会の項目を読んでみたら、京都にある「平安女学院」や「桃山
学院大学」も系列校なのでそうです。平安女学院短大といえば、上野千鶴子さんが
たしかドイツにいく前に在籍していた学校のはずです。
あの頃、上野さんが書かれた本の題名や内容は、かなり過激なものが多かったよ
うな記憶があります。4文字言葉満載の本とかジェンダー、セクシャリテイといった
問題についての発言だったと思いますけど、難しい理論書は歯が立たなかったので、
そんなような本の印象だけが残っているのかもしれません。
あの頃の上野さんは女性で一番の理論家と言われていたらしく、そんなことも誰か
から聞いたような記憶もあるのです。
冒頭の詩ですが、ここに書かせて頂いたのはこの詩がなんとなくという以上に、
とってもいいな~!と思ったからでした。
過ぎさってしまった日を
どうこういうのではないが
なんという
空の蒼さだろう
昔、国語の教科書に哲学者アランの「遠くを見よ」という文章がありました。
そこでアランは、「思いつめて死まで考えている人には、わたしはたった一つしか
言うことがない、……遠くを見よ」といったようなことが書かれていました
ようするに、人という存在はこの地上から離れて生きていくことができないわけです。
客観的にも主観的にも、人間はこの地上を這いつくばって生きている昆虫たちと
同等の存在であることはたしかなわけです。そういった限定的存在としての人間に
とっては「空を見上げて、空から眺めて~」といった自由な視点がなければ、そこで
自分自身を相対化するための第2の目、第3の目といった客観性がもてなければ、
この惨めなそんざいから超越することはできなさそうなわけです。
なんという 空の蒼さだろう
この句の前段は、
過ぎ去ってしまった日を どうこういうのではないが
過去という時間は万人に平等にあたえられている、ということなのでしょうか。
それとも。
あいかわらず、思いついたことをだらだらと書いてしまいます
Dさんに言ってしまったこの投稿の約束を守ろうとおもい、巻頭言てきにこの詩を思
いついたのです。でも、この詩についてもなにかを書かないとと思って、聖公会など
を検索している間に時間切れになってしまいました。
今日、Dさんと話していて書こうと思ったのは、課題図書ならぬ『日本会議の研究』な
のです。実はこの本、少し立ち読みをしただけで買ってないのです。買うのがもったい
ないと思ってしまったのです。ほかに買いたい本が何冊もあってという現状のわけ
なので、この内容は大事なことだと思っても、カスタマーレビューと評論記事を重ね
合わせたところで何とか判断をしてみるので間に合わせることにしようとおもってい
る次第です。
日本会議については、魚住昭さんがそのブログに何回かにわたって書かれていて
読んだ記事もあります。
ぼくは魚住さんをかなりなところまで信頼しているので、その記事を読んでみようと
思っています。
ウェブマガジン『現代ビジネス』に、魚住昭さんによる「日本会議」に関する記事の
一覧があります。
少しでも興味をお持ちの方は是非とも、お読みください。ぼくも忘れてしまったこと
がほとんどですけど、新たな記事も含めて読み直したいと思うのです。
一覧表のなかの6月5日の記事「安倍政権の黒幕「日本会議」とは何か」では、
この本について書かれています。
<いま話題の『日本会議の研究』(菅野完著・扶桑社新書)をお読みになったろうか。
もしまだなら、ご一読をお勧めしたい。こんなに興味深い本は、そう滅多にあるもの
ではない。本の内容は書名通り。安倍政権の“黒幕”と噂される右派団体・日本会議
とは何かという疑問にわかりやすく応えている。
私も10年前に日本会議を取材した。結果はこの連載でも述べたので覚えておられ
る方もあるだろう(gendai.ismedia.jp/articles/-/44029)。著者の菅野さんは
丹念な取材でそれをさらに掘り下げ、現在の日本会議の姿を赤裸々に描いてみせ
てくれている。> 菅野完さんについてウイキ
Dさん、そのような次第で?今宵はもう寝ないといけません。NHKウインブルドン
錦織圭の第2戦は雨のため開始時間が大幅に延びているようです。録画をしよ
うとセットしておいたのダメになってしまいました。
しかし、MRIは明後日ですね。結果がでるまではケセラセラでしかないと。まあ、
こうした心構えは、ぼくの現在の病気とか終活とかにたいする 基本的な考え方
なのです。いつも話しているとおりなのですが、近藤医師の言われていることに
極めて近しいといった内容にもなるわけです。
肉体的な痛みや苦しみは、心配という範疇から外れた大変な苦悩に結びつく事態
なのだと思います。でも 仏教では”一切皆苦”という教えもあるようなことを耳にした
ことがあります。そして生老病死の四苦は人間の限界状況のわけですが、こうした
苦というのは仏教的には、”思いどおりにはならないこと”という意味なのだとか。
つまり、ケセラセラという言葉に同義的な意味合いもあるのではないかといった
こともあるのではないかと。
このケセラセラという言葉は、あの哲学者ラッセル家の家訓だと聞いたような記憶
があるのですが、ウイキをみてもその他でも無関係なのかもしれません。一説では
ある映画の主人公の伯爵家の家訓だったとか?しかし、ドリス・デイの歌は有名で
すし、聞いていて自由さとか解放感に浸ることができる感じがします。
しかし、上記したことごとは正に、釈迦に説法以外の何ものでもありません
勝手なことごとを書いてしまいますけど、Dさんの根源的・根底的な信条の部分で、
上記したような事柄はどのような位置づけになるものなのか、これからもご教示
頂きつつ、相互検証てきなばしょで関わり合いたいとも思うのです。。
ぼくも残り少ない余命のなかで、最期的なかくごとかについてどのように総括でき
るのか、、どうしたものかと四苦八苦的総括をしなければいけないと痛切におもっ
ているのです。
Dさんはぼくなどとは違って、ほんとうの至高の理念、根源の真理について自覚的
な立場をもたれているわけだと思いますので、もちろん多分なのですが、その辺に
ついてもですね……。