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美濃加茂出直し市長選、上告中の藤井さんが再選

2017-01-29 23:26:23 | 日記



本日、美濃加茂市の出直し市長選で、上告中の藤井さんが再選されました。
本当に、ほんとうによかったです。美濃加茂市民と美濃加茂市議会の議長さんをはじめとした皆さんに、感謝したい気持ちです。主任弁護士の郷原先生もとりあえずほっとされたことでしょう。これからは5月の市長選と、そして、最高裁の審理が待っているわけです。上告審での最高裁は、こうした民意の結果を厳粛に受けとめるべきだと思います。このような美濃加茂市民の判断というのは、通常ではあり得ないケースだと思うのです。だって、名古屋高等裁判所の有罪判決にたいして、否という判断を市民が下したことになるのだと思うのです。これはわが国の伝統でもあり、人類史の遺・異物でもある官尊民卑という神話の一角が自治体・地域市民レベルで少しばかり崩れたということでもあるのではないかと。そんな感じがするのですが、でもよくわからないことを書いてしまっています。そして、さらにまたなのですが、こうしたことは、もしかしたら我が国の選挙史上画期的な事例になるのではないかと思うのです……。でも、残念ながら、たしか田中角栄さんを筆頭にいくつかの事例があったはずですよね。

でも、この選挙は角栄さんのような利益誘導型の選挙とは無縁だし、その事件の質もまったく異なる(そもそもこの事件は事件として成立しえない案件)今回の市長選で、市民がそのような信任の判断を下したことの意味は前述したことからもほんとうに画期的なことで、意義あることではないかと思うのです。そしてまた、全国の高裁の中でもかくべつに不思議でおかしな刑事判決を連発している名古屋高裁にとっては、自己総括をなさるよい機会だとおもうし、そうなりますようにと祈念することでしかないのです。そして名古屋高裁の長官以下の判事さん方は、名古屋地域の市民をはじめとして全国民からそれなりの不思議な眼差しを向けられていることを自覚していただけたら、これはまたほんとうに素敵なことだと思うのですが。

そして問題は上告審、最高裁判所なのだと思います。最高裁の判事方はなによりも、悪しき前例にとらわれることなく虚心坦懐に、裁判官としてご自身の良心にのみ基づき、事件についての事実認定と法の適用を厳密・厳正にしていただきたいと思いますね。最高裁判所裁判官というひとつの頂きにのぼりつめたということの意義を“立身栄達”ではなく、彼岸の世界からの視点で再確認し直していただき、そして、天下の副将軍・水戸のご老公さまのお裁き方に則り、よろしくお願い申し上げる次第なのです。

でもここで、“この印籠が目に入らぬか!”を出してしまったら、官尊民卑・士農工商のさいたることになってしまいそうです。(ぼくはあの水戸黄門の主題歌がわりかし好きなのです「『あヽ人生に涙あり』♪人生楽ありゃ苦もあるさ~♪」。このグループの皆さんは知らない方が多いと思います。ただ歌詞の中で、“追い抜かれたら残念というより、それもよし”ということであったらもっと良かった)。ただ現在、日本国憲法を固守するという人間史の理念を全うするがごとき正しいと思えることを、国政をになうものたちによってではなく全くなく、日本国の象徴である天皇・皇后こそが果たされているということでもあると思うのですね。ぼくは最近、すこし複雑なきもちをもっています。 ……などと、勝手で覚束ないことごとをいつもどおり書かせていただきました。 

今(翌日の朝方)、中日新聞webを読んだら、「事務所には、周辺自治体の首長や国会議員らも祝福に駆け付けた。民進党の今井雅人衆院議員(比例東海)は『最高裁で正しい判断が下されるよう、これからも一致団結して頑張ろう』と声を張り上げた」 と。しかし、NHKテレビのニュースをはじめとして、この選挙と事件についての報道各社の記事を読むと、その記事の客観性や問題意識が欠如した内容にがっかりしてしまいます。これではまた、”大本営発表”方式になってしまいかねないと不安になります。若い人たちや、子どもさんがいる若い大人たちが一言だけでも、そこここで声を上げつづけないとダメだとおもいますね。

◆郷原弁護士のツイート。
郷原信郎 ‏@nobuogohara 32分前
美濃加茂市長選挙、藤井浩人氏が、名古屋高裁の不当判決と戦い続けながら市長職を続けることについて市民の信任を訴えた今回の選挙、藤井氏の圧勝は当然だが、投票率が57・10%と前回52・86%を上回ったことで、「藤井市長への市民の信任」を、改めて確認できたことは大きい。

「美濃加茂出直し市長選、上告中の藤井氏が再選」
岐阜 松下和彦2017年1月29日22時18分 朝日新聞デジタル

◆いつでしたか、上記の事件について投稿したことがあったはずです。
事件の概要について興味のある方は、下記の記事をご覧いただけたらと思います。そこで、事件の概略をご紹介させていただいたと思います。下記の投稿でした。
美濃加茂市長控訴審判決と郷原信郎主任弁護人 (2016-12-09 23:44:59)
美濃加茂市・藤井市長事件とゴッホ展! (2016-12-15 21:53:07)


「沈黙ーサイレンスー」が始まりました

2017-01-22 02:03:51 | 日記

   

◆トランプ大統領の就任式をライブでみてしまいました。
何かが起こりそうな予感があったのですけど、なにもなく無事に終わってよかったです。
しかし、これからのアメリカはもちろん日本や世界との関係がどうなっていくのかは不安です。誰かのコメントで、「2年以内にトランプ大統領の弾劾裁判と罷免が必ずある」と予言していたのには驚きました。とにかく、大統領就任にまつわる一連の事態には、就任時の支持率が過去最低であるとか前代未聞のことごとが多すぎるということです。しかし、就任式では、大統領が聖書に手をおいて宣誓をしたわけです。というlことは、トランプさんもキリスト教徒のわけでしょうか。いや、ただ過去の式典からの流れの中で、恒例の行事としてそのようにしただけなのかとても気になるところです。この宣誓について、日本のキリスト教福音保守派の牧師さんがその概略を報告している記事があります。
大統領はリンカーンの聖書とお母さんからもらった聖書、この2冊の上に手を置いて宣誓をした

しかし、ぼくがここで一番気になることは、トランプ大統領はキリスト教についてどのような認識を持っているのか。また、いつごろからどのような傾向の教会、牧師と関わったのか。その関わりの中でトランプ大統領はなにを希求し、その結果なにを認識することが出来たのか、また他の何を得ることが出来たのか。つまり、その人格形成の過程で、その教会と牧師から影響をうけたことがあるとしたらそれは何か。つまり、ぼくは大統領の精神構造もどきに興味があるので、前述したようなことについて知りたいわけです。こうしたぼくの興味の範囲からすると、次の二つの記事をよんでみるだけで一応、十分ともいえそうです。
一つは、都内にある賀川豊彦によって建てられた教会の一つである日本キリスト教団堀切教会の牧師さんの文章で、オバマからトランプにバトンタッチされるアメリカについて思う」です。これは下記の雑誌記事の内容を簡単にまとめた文章です。ですので、次の雑誌『世界』の記事がぼくなりの、とりあえずのお気に入りという次第です。
雑誌『世界』1月号「ドナルド・トランプの神学ープロタント倫理から富の福音へー」森本あんり(国際基督教大学教授ー哲学・宗教学ー)。記事は9頁。
また、同じ著者による次の本は話題になったと思います。『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』 新潮選書 森本あんり 著者略歴 

   

◆ Iさんが前回のぼくの投稿記事に、次のようなコメントを書いてくださいました。
……「映画『沈黙』・・・沈黙をつき破って、神様が私達の心にどのように声かけて下さるか・・・観に行きます」。

コメントを読ませていただいて、ぼくなりに厳粛な気持ちになりました。
“沈黙”、「沈黙をつき破って」、そして“神さま”、「神さまが私達の心にどのように声かけて下さるか」。
ぼくはこの映画の予告編をみたのです。そして、その画面の流れのなかで場面が切り替わる瞬間ごとに、その画像のなかの登場人物とそこにある自然の情景の激しさに、厳粛な気持ちをもたざるをえませんでした。そして、そこで“厳粛な気持ち”をもたされたということは、自分にとっていったいどういう意味合いのことなのかと思うのです。ここで、改めて自問せざるを得ないわけです。そしてこれは、この映画をみるに際しての、ぼくの「なぜ!」という問いの一つになるはずです。

聖書には印象深いことばがたくさんあります。
例えば、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭のことばは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書かれています(「言、は、ことば、のルビ付き」です。日本聖書協会版ーこのHPのここには無料の聖書本文検索サイトがありますー)。また、大阪の釜ケ崎(東京の山谷地区と同じ)に30年ちかく住み続けて、野宿者の支援活動をされている本田哲郎神父は、この個所を著書『小さくされた人々のための福音ー4福音書および使徒言行録ー』のなかで次のように訳しています。
「はじめから、『ことば』である方は、いた。『ことば』である方は、神のもとにいた。『ことば』である方は、神であった」

すこし余計なことを書いたかもしれませんが、Iさんが言われる「“沈黙”をつき破る」ものがあるとしたら、それはやはりIさんが言われたように、「神さまが……どのように声をかけて下さるか……」というその神からの語りかけとしての“ことば”でしかあり得ないわけです。旧約聖書の冒頭にある創世記でも、最初の発語としての“ことば”は、「光あれ」といわれた神のことば、と書かれています。そして聖書の世界では、上記に引用したような聖書の記事からかんがえても、“ことば”ということについて特別の意味合いがあるように書かれていると言われています。例えば、新約聖書では、キリストが言われた言葉にたいする信頼は信仰、信じることまったく同じことなのだと。また、古代中国では発せられたことばが言霊として霊力をもつなかで実体的な力を持っていたのだと、たしか白川静先生も言われていたように思います。つまりことばにたいする感覚は、現代人と古代人の間ではまったく違うのかもしれません。(すみません、こうして書いていて 、なにを言おうとしているやらわからなくなってきてしまいました。)

そうです、Iさんの言われた三つのことばがとても重たいですね、ということなのです。「沈黙、神さま、声(ことば)」
ぼくはこうした場所でも、じぶんの勝手なことばを書き連ねてしまっています。たしか吉本さんは、「言葉の根源は沈黙」なんだよと言われていたと思います。根源という言葉は使われていなくてもそのような意味合いだったと。それと、べつに吉本さんが言ったからではなく、そのように言われてみると確かにハッとせざるを得ないわけです。言葉の問題としての理屈などではなく、例えば、ぼくの日常生活でのことばの表出の問題。つまり、自他関係で発することばの自己覚知の問題一何か恰好をつけて意味不明に書いてますけど、無理な自己表出は自己矛盾でしかないというわけですよね。
「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」ガラテヤの信徒への手紙/06章07節

ウロウロしている続きで、ここでぼくは”沈黙”ということについて思うこととしたら、まず空間をイメージするかもしれません。宇宙、自然、欠如、飢餓、アウシュビッツ、無、死体、闇、死刑、戦争、不条理、歴史、祈り、キリスト、……そして……これから、残されたじかんのなかで考えつづけなければとおもうのです。
また、遠藤さんの「沈黙の世界」の悲惨な歴史、3.11の過酷な現実、先の大戦の犠牲者、自殺死、孤独死……、神の不在、神の沈黙、神とは、世界とは、人間とは、歴史とは、そして、約2000年前に時の権力によって、十字架の上で殺されたイエス・キリスト。そのキリストの生きざまと死にざまの証言集でもある聖書は、ぼくにたいして何を伝えようとしているのか?

遠藤周作さんは、『沈黙』の舞台になった島々をみはるかす記念館の「沈黙の碑」に、こんな言葉を刻んでいます。映画の予告編のさいごに出てくることばです。
人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」 

それから、前回の投稿記事を読み直したら、決定的に間違ったところがありました。ICUで田川さんの講義を聞いたひとは、はらじゅく86のひとではなく、むかし身障授産関係で仕事をしたときの同僚の女性でした。たぶん勘違いなのです。このことはまた書かせていただきます。
 


『沈黙ーサイレンスー』遠藤周作原作 21日全国公開!

2017-01-18 22:52:56 | 日記


写真は友人と行った房総の海です。勝浦の近くだったと思いますが、A4判の写真がこの部屋に飾ってあります。
きょう、この大きさのX社の写真用紙(光沢ゴールド)がなくなったのでアマゾンでみてみたら、50枚で1508円でした。安いのでびっくりです。プロ仕様の画質でなくてもA4レ判レベルの印刷では、ぼくにとっては充分です。また、皆さんはインクをどうされていますか?ぼくはネットで買う格安品を使っていますがこれで十分です。メーカーさんは、プリンターを安くするかわりにインクで利益を得たいということらしいのですね。それで、お使いのかたはご存知と思いますが、純正品を使ってくださいというメッセージがPC画面などでときどき表示されるわけです。

写真用紙は今日注文したのですが、明日には特急便で配送(今回は本と同じ扱いで郵便・ポスト投函)予定です。
アマゾンのプレミアム会員(年間3900円)なのでかなりの商品は送料・特急料が無料です。ちなみに、配達はヤマト運輸がほとんどなのですが、このクロネコの社員さんはアマゾンの配達を受注して以降配達量があまりにも多くなってしまったために、いろいろな労働問題が起きているということをニュースで見たことがあります。ほんとうは、アマゾンよりも国産の各社を愛用したい気持ちはあるのです。でも、便利さを優先してしまっていてすこし気が引ける点でもあります。

◆ところで、前回の投稿では退蔵寺という禅宗のお寺さんを書かせていただきました。それで今回は、ぼくにとってより身近なキリスト教の映画の紹介をさせていただきます。といっても、実はたまたまなことなのです。Webで無料配信されている『CHRISTIAN TODAY』の昨日配信された今週号のトップ記事に紹介されていたので、最初に目に入ったのがこの映画というわけでした。そして目に入って、見た瞬間、これは観よう!と決めた次第です。

映画はこの21日(土)に全国で公開される洋画です。洋画といっても、江戸時代の日本での出来事を描いたものですし、出演者は日本人のほうが多いわけですから和洋折衷映画というのでしょうか。でも、しかし、字幕なのです。
この難しいテーマについて字幕をとおして読み解くというのはまったく無謀な気がしてしまいます。でも、その難しい部分を映像をとおして見解くことと統合させるなかで、なにかを見聞きしてください、ということなのでしょうか。いったいどうなることやら、しかし、ただただ虚心坦懐に見させていただくだけですね。 

紹介が遅くなりましたが、その映画は遠藤周作さんの書かれた小説『沈黙』を映画化したもので、『沈黙-サイレンス-』です。この本はむかし、読書会で読んだこともある懐かしい本です。遠藤さんの代表作ともいえる本でしょうか。

ぼくは遠藤さんについて若い頃から興味はあったのですが、本は数冊しか読んでいません。でも読んだ本以上に遠藤さんについての情報のようなものは目に入ってくることが多かったと思っています。カトリックの関係者と身近に接したということもあったし、遠藤さんのフランスへの留学以来の親友であり先年亡くなった井上洋治神父さんの本などをとおして、遠藤さんのことを想像するといった点があったと思います。

遠藤さんについては熱心なファンでも読者でもなかったぼくなのですが、でも、なんといっても、懐かしいという思いが第一ですね。その家族関係なども書かれたものをとおしてもある程度はわかるし、あのざっくばらんな狐狸庵先生としての遠藤さんの一面がかくべつに想いだされます。今、ウイキペディアの遠藤さんを読んでみました(ウイキもけっこう間違いもあるし、ほどほどの信頼レベルなのだと思います。ただ便利なので見させていただき、結局、けっこうな程度でそうなんだと、そのことについて思いこんでしまうのです)。そこには井上神父さんのことは一言も書かれていません。ただそれにしても多事多難というか、ウイキの記事を読んだだけでも大変な生涯を送られたと思います。遠藤さんというと、ぼくの鎌倉時代に医療記事を読むなかでもそこによく書かれていました。また朝日紙で「私の1冊」というような連載欄がありました。遠藤さんの私の1冊は聖書かと思ったらそうではなく、V・フランクルの『夜と霧』でした。これを選んだ理由は、たしか、病気で苦しんだときや心がおれそうになったときにその本を読むのだと言われていたと思います。

すみません、勝手なことばかり想いだすままに書いてしまっています。ぼく以外のかたには興味外のことですね。でも、遠藤さんの想い出で一つだけ。遠藤さんをキリスト教レベルでキチンと批判したのは、田川健三さんという新約学のひとだけだと思うのですけど、でも他の方を知らないからかもしれません。そのうち昔買った雑誌の遠藤周作特集号を読んでみます。田川さんは遠藤さんを、キリスト教文学としては最大の評価をしても、その論理と思想性については、「弱者の論理」ということで断罪的だと思います。いい加減な読み方でしかなかったので、改めて読み直さないと決定的に間違ってしまいそうですが。

神学的な側面はともかくとしてとりあえずなんですけど、田川さんが言っていることは、たぶん、「弱者の論理というのはダメな人間の論理。一人のひとのダメさ加減、その弱さは、結局観念の水準のなかでは思想的甘さとして総括されるものでしかない。もし弱音を吐くことが許容されるレベルがあるとしたら、それは現実レベルの情況・事態に直面し、そこで個別現在的な戦いを続ける過程で一過的にでしかあり得ない。もしも、例外なく誰にでも襲来する怖さや弱さの中に居座り、居直ったとしたら、そこでその人の生きる意味、人間の歴史は終ってしまう」。まだご存命でご自分の課題と格闘されている田川さんに読んでもらったとしたら、「うん、意味不明だけど、きみもそこでひとりの人として、とにかく頑張りたまえ!」と。

ようするに、その頃の田川さんが書かれた本に『立ちつくす思想』とか『批判的主体の形成』があります。この本の題名をみればわかるような、「強者の論理というか戦う主体としての、観念よりも現実に比重をおく思想性・現実性を生き抜かなければこの歴史(弱者の現実の苦痛からの救済)は一歩でも前へとは進まないのではないか」「弱さに居直らざるを得ない程のお互いの厳しく苦痛な現実も事実だが、しかしそこでお互いの弱さを慰め合い許容しあっているようでは、何ごとも始まらないのではないか」「観念と現実の転倒をしっかりと見据えることこそが必須のことでは」……などという、田川さんの筋書きとはかなり違っているはずですけど、そのような印象なのです。
ただそれにしてもぼくは、田川さんの聖書解釈を学ばせていただく以外の点では、よくわかりません。文章自体もあまり好きではないし、ぼくにとっての難しさもあってなのです。ぼくが信頼している数人の人は田川さんの思想性の評価についてはごくごく控えめです。もちろん専門の新約聖書学についてはだれにしても、その判断は別にして田川さんを通過することなくして論じることはできないと言われているほど素晴らしい業績を残され続けている、ということなのです。

また、吉本隆明さんは何かの対談の中で、遠藤さんについてあまり良い評価をしていなかったのを読んだことがあります。遠藤さんよりも、同じカトリックの小川国夫さんのほうが文学としてはよいと思えると言っていたように思いました。どうでもいいことのついでなのですが、田川さんは吉本隆明批判ということで、『思想の危険について―吉本隆明のたどった軌跡』を書いています。69年以降の流れの中で、キリスト教も仏教も若者たちの問題提起とともにその渦中にあったわけです。 そうした場所で、吉本さんと田川さんを囲んで若者たちが集まったことも幾たびかあったわけです。田川さんはその頃講師として在籍していたICUを、数多くの学生とともに除籍処分になったこともありました。そうです、実は、このグループのメンバーにもそうした人がいますのですよ。ぼくはそのひとからはらじゅく時代に田川さんの講義のノートをお借りしたこともあるのでした。すっかり忘れていて今、ふと思い出しました。その節はほんとうに有り難うございました。といっても、このブログを読まれてないですね。もし読まれたとしたら、田川さんについての感想をお聞きしたいですね。

「小説『沈黙』は、遠藤が17世紀江戸初期のキリシタン弾圧について、史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説。実在するイエズス会の日本管区長代理を務めたポルトガル人司祭のクリストファン・フェレイラが登場し、フェレイラの棄教を聞いた弟子のセバスチャン・ロドリゴが真相を求めて日本に潜入。隠れキリシタンへの布教活動に身をささげるが、裏切りにより捕らえられ、踏み絵に足をかけるに至るロドリゴの心の葛藤、神への問い掛けを描き、神の愛、神への愛を浮き彫りにした作品だ。」下記HP解説から

 映画「沈黙-サイレンス-」公式ホームページ
(予告編があります。トップ画面で出ないときはメニューから。スマホでは多分メニューから)

 「映画「沈黙」公開目前 スコセッシ監督、来日記者会見で…」 CHRISTIAN TODAYから

スコセッシ監督、遠藤周作『沈黙』を映画化 20年越しの願いが実現へ2015年2月27日

マーティン・スコセッシ監督

『沈黙』の映画化について一覧的にアップされているグーグルの検索サイト


新年会と京都退蔵院の庭園

2017-01-17 00:15:00 | 日記

新年会が無事に終わりました。
美味しいお酒をたくさんのみました。料理もおいしかったし、酒の肴としても最高でした。
参加者ですけど、急な用事や帰省とかインフルエンザなどで4人が残念ながらおやすみでした。
でも、それ以外の参加者で3時間以上も、たのしい時間を過ごすことができました。 
今年もお酒の特別サービスがあり、いろいろなお気遣いもいただいて、あらためてYさんに感謝です。 

 京都妙心寺「退蔵院」(退蔵院さんから写真掲載の許可をいただいてます)写真はすべて退蔵院さんのHPからのいただき物です。
正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山(1337年創建)
「京都の西に位置する妙心寺の山内には40余りの塔頭がありますが、退蔵院はそのうちでも屈指の古刹として知られています。境内には、国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」(模本)や史跡名勝・枯山水庭園「元信の庭」、そして四季折々の景色が美しい池泉回遊式庭園「余香苑(よこうえん)」などがあります」退蔵院HP

ぼくがこのお寺、退蔵院さんのホームページに寄ったのは、副住職さんの対談記事をよんで興味をもったからでした。その記事は去年、東洋経済webに掲載されていたような気がします。そして、HPのなかの写真がとてもきれいだったので、断られてもいいからとりあえずと思い退蔵院さんにメールで問い合わせたところ、どうぞお使いくださいというご親切な返事をいただけた次第でした。実は、ぼくのこの部屋は写真部屋のようになってしまっているのです。子どもの頃の写真から、想い出の海や山の写真などが、大小の100均の写真立てにおさまっているのです。退蔵院さんの庭の雪景色なども、A4サイズで飾らせていただくつもりです。

副住職さんは、「1978年京都市生まれ。2003年東京大学大学院農学生命科学研究科修了。埼玉県新座市・平林寺にて3年半の修行生活を送った後、2006年より退蔵院副住職」とのことです。京都観光おもてなし大使、京都造形芸術大学講師などもされているようです。

いつの日か、生きながらえて、そしてまんがいちにも京都にいく機会があったら、退蔵院さんも訪ねてみたいと思います。むかし、京都や奈良を1ヶ月ちかくウロウロと歩き回ったことがあるのです。その頃は革靴だったので靴底がだめになってしまったという想い出もあります。京大のまえに、たしか京都教育会館とかがあって何日か泊まった憶えもあります。親鸞にかんけいする京都内外の史跡をまわったり、吉野や奈良・大和の寺めぐりをしたのもほんとうに懐かしい想い出です。

 

また、その昔、モラトリアム時代のさいごに、たまたまなぜか長男ばかり4人で京都の時代祭りを見たあと、お寺巡りをしたことがありました。東京から車で行ったのですが、いま考えたらよくぞ事故を起こさなかったものだとゾッとします。まだ免許を取ってから日が浅い頃だったはずです。車に乗ってから皆に言ったことは“はい、首をまわして”だったことだけは憶えているのです。帰路、東名高速のサービスエリアで車中泊をしたような記憶もあるのです。いったい、ああした日々というのはどういうことだったのか、あれからいまに至る数十年、ほんとうになにをして生きてきてしまったのか。
インターネット寺院「彼岸寺」坊主めくりインタビュー、松山大耕さん
退蔵院副住職松山大耕さんのブログ「京都人のひとりごと」
退蔵院HP

七草粥

そして、この記事の最後に、いつもどおりのです……
ぼくのこの家のトイレには、月刊『文藝春秋』が数冊置いてあります。
すこしまえに、昨年9月号の「戦前生まれから日本への遺言」という特集の中で、作曲家の三枝成彰さんの遺言をよみました。そこでぼくは、三枝さんについてまったく誤解したイメージをもっていたことを知りました。三枝さんは下記のような文章、日本への遺言を書かれていたのです。しかし、他者のほんとうの姿、その実像の近似値をしるということはほんとうに気が遠くなるようなむずかしいことのような気がしなくもありません。誤解をすることはほんとうに簡単なことです。独断と偏見はぼくが得意とするところでもあるようです。でも、そうであっては絶対にいけないというおもいは忘れないように、とも思ってはいるのです。じぶんの他者理解の量・質の限界をわきまえる努力。また必ず扉を開けておくこと。閉めてしまったら終わりだから。そして、教条主義にも、……とも。そして……
 (文章の最後の部分です)


新年会と神社本庁の内実

2017-01-13 00:05:25 | 日記


「ピングイクラ・プリムリフォリ」という花だそうです。(著作権フリーの写真サイトからのいただきもの)
この花、すこし頼りげなくて、でもなんとなく可愛らしくて、なにかを言いたそうな、でもわるいからやめておきます、と、そんなかんじがしませんか。
でも、つぎのようなこの花の説明をよむと驚いてしまいます。 <この花、ピングイクラ属は世界に80種くらいが分布する。属名の読み方はピンギキュラとするものもある。日本にも虫取り菫(ムシトリスミレ)などが分布し、属名の和名をムシトリスミレ属という、葉から粘液を出して虫を捕らえる食虫植物の仲間である>ということです。なんとこの清楚で気の弱そうな、でもほんの少しでもその佇まいを凛とすればさらに素敵な花にもなれそうなのに、しかしなんと食肉植物“食虫花”なのです。ほんとうに見た目だけではわからないものです。なにごともそうなのでしょか。でも、彼女も、この花のことですけど、じぶんでそうなりたくて生まれたわけではないわけです。自己責任ではない。しかし、食物連鎖、生存連鎖、生命連鎖、DNA連鎖?……いったい生命の初源から現在へと続く存在の歴史は自然過程だとして、でも、そもそもこの生存・生命に“意味”はあるのでしょうか?などとあらためてせつじつにおもうのです。が。

Webデザインを変えてみました。 新年早々に変えたほうがよかったのかもしれませんが、設定を変更するのもおっかなびっくりなのです。
テンプレートを試しにいくつも見てみたのですが、これはというデザインがなく、まあこれが最善かなとおもえたので選んでみました。これを
選んだ理由は、10以上のデザインの中でもわりかし品がよくて、記事を読むのに見やすそうな点が気にいったことなどでしょうか。 

14日は新年会の日です。
14日(土)新宿西口の駅隣接ビルの上階で昨年と同じお店です。とても美味い日本酒が楽しみです。
Yさん御用達で、ぼくもいくのは4回目くらいでしょうか。お気が向いた方はぜひ一緒にと思います。突然おもいたっての参加もありということです。
Yさん、またよろしくお願いいたします。 

ところで、このところ書類などの整理をしています。はらじゅく時代のコピーやノートや提出したレポートのコピーなど。また鎌倉時代のいろいろな印刷物なども。またノートの中でも、Hさんにお借りしてコピーしたいくつかの科目のものも出てきました。さらに、Iさんにまとめて頂いた「はらじゅく’86と私」の2冊の小冊子もありました。よくよくとは読んでなかったのでした。これをつくる労力は大変だったと思います。たいへんな貴重な時間も……。
この会のお知らせも、手元に残っているのを読んでみました。ほんとうにあっという間の30年間でした。そして、お互い様にいろいろなことごとがありました。でも、でもまだ、現在進行形です。最年長のぼくも、まだなのです。

◆ いつものとおり、なにかをリンクしたいのです。
ライブドアニュースに以下のような記事がありました。
(記事の出所は内田樹さんのツイッターです。内田さんのリツイートのお孫さんなので最短で3代目のリツイートによる記事ということでしょうか?内田さんのリツイートはツイートの10倍以上あって、リツイートの記事はぼくにとってはとても有益です。内田さんは秘書さんが複数?まったく違うかもしれませんが、文武両道を100%完遂されているなか、どうぞお体のご無事をお祈りいたします。)

記事を読んで、神社本庁といってもその内実は単純ではないことを知りました。 

「伝統ある神社界が生む全体主義の怖さ 現役宮司が日本会議を批判」 2017年1月12日 livedoorNews 
∞ 伝統ある神社界が生む全体主義の怖さについて現役宮司が語っている。
∞ 伝統のみが理想であるという神社本庁の考えを日本会議はうまく利用したそう。
∞ 神社本庁の政治組織委員も日本会議周辺の思想家が中心になったと批判した。
2017年1月12日 livedoorNews 

さらに上記の記事より刺激的な、上記記事の宮司さんのブログ記事です。
「神社本庁(日本会議)の見果てぬ夢」 2016年10月11日  投稿者:宮司
……(前略)かつての神社本庁は、必ずしも同一のイデオロギー一色ではなかった。神社本庁の役員を司る人々は、硬直した戦前復古主義の人々が多かったが、学者たちはそうではなかった。例えば折口信夫氏やその直弟子であった西田長男氏、戦後の神社本庁の思想をリードした小野祖教氏、神社新報の論説主幹であった葦津珍彦氏、國學院大学学長であった上田賢治氏や阿部美哉氏などは、それぞれ独自の視点を持ち、多様性に富んでいた。現在でも、広く神社界を眺めれば、様々な思想の持ち主がいる。かくいう私がそうであるように、多様性は存在しているが、肝心の神社本庁の政策立案の部分を、特定の思想で同志的な連帯感を持つ人々に占有されている。これでは、神社界が現実の社会に即した柔軟な対応ができるわけがない。さて、神社本庁の主張する憲法改正の要点は、すべて日本会議、また自民党の憲法改正草案に盛り込まれている。その内容は、以下の通りである。(後略)……。
上記の全文を掲載のブログ記事です
この宮司さんの神社「清洲山王宮 日吉神社」は、兼務社が30以上もある大きな神社のようです。
兼務社というのは神職が本務の神社以外の神社を兼務する場合、その社を「兼務社」というのだそうです。
 「清洲山王宮 日吉神社」のHP


「中原中也」第1回放送と『日本会議の研究』

2017-01-07 23:57:12 | 日記


前回の投稿で、「明日から中原中也は『100分で名著』でやりますね。担当の指南役はなんと、
太田治子さんで太宰治のお嬢さん」と書きました。
でも、その明日というのは明後日9日(月曜日)で、22時25分~50分までの25分間です。
第1回目の放送です。前回、間違ったことを書いてしまったので訂正させていただきます。 
中原中也や太田治子さんに興味のある方、一緒にみたいですね。 

今日、気になった新聞記事と関連するツイートを下記させていただきます。
また裁判関係の記事になってしまいますが、興味が向いてしまうのでしかたありません。

◆毎日新聞の記事、「ベストセラー『日本会議の研究』販売禁止の仮処分決定」
(毎日新聞2017年1月7日)

◆上記記事「『日本会議の研究』販売差し止め  地裁が扶桑社に命令」について、紀藤正樹弁護士
のツイートと朝日紙の記事です。 紀藤正樹弁護士のツイート 「名誉棄損で販売差し止めとは珍しい」

◆この件について、当事者でもある著者の菅野さんのツイッターでは
菅野完(1月6日) ‏
拙著『日本会議の研究』に対する仮処分申請について説明します。
原告側が修正を求めてきたのは、第6章に登場する特定個人に対する記述のうち6箇所。
そのうち5箇所は裁判所が事実認定し、1箇所だけ「その書き方はない」と裁判所が否定
したと言うのが経緯です。つまり、こちら側は5/6勝ってる。

◆この訴訟の東京地裁での担当は関述之裁判官
『民事保全の実務(第3版増補版)』  関 述之、八木 一洋共著

以前、グーグル削除訴訟で、日本で初めて検索結果の一部を削除するよう命じる決定を
下したのもこの関述之判事のようです。

事実関係の詳細がよく分らないのですけど、この本について興味があるので少し検索し
てみました。確かこの本についてはtさんがこのブログで取り上げられたことがあったと
思います。 この「日本会議」については青木理さんも昨年1冊書かれています。とにかく、
安倍さんをとりまく国会議員のほとんどがこの会の会員のわけですからね。
確か、小池都知事も役職がある有力会員のはずです。ぼくはこの組織のことを思いだす
と、戦時下の大政翼賛会を想像してしまいます。
現在、戦時体制への道筋を着実にすすめているとしか思えない安倍内閣のこれからは、
本当に末恐ろしいことだと心底思っています。

さきほど、地元の図書館にアクセスしてこの本を検索したら、予約者はゼロだったので予約
が可能でした。もしも図書館が判決を忖度する形で自主規制でもしていたらと、あり得ないこ
ととは思ったのですけど気になったので寄ってみました。たしか『絶歌-少年A』のときは自主
規制をした図書館がかなりの数にのぼったはずです。

ついでに、この本の著者などが昨年末にだされた新刊本、『日本会議をめぐる四つの対話 』
が納本予定となっていたので、1番目に予約しておいたのでした。 
共著者は、菅野 完 , 村上 正邦, 魚住 昭, 横山 孝平, 白井 聡で、菅野さんと4人との個別
対談集のようです。  
横山孝平さんは知らないかたですけど、民族派の活動家で菅野さんが私淑されているという
ことです。ここに菅野さんとの対談がありました。

この本について、もしも上記のアマゾンのリンク先にいかれましたら、既にカスタマーレビュー
が1件書かれています。また、この本の内容について興味をお持ちの方は、『日本会議をめ
ぐる四つの対話』に記載されている「はじめに」がアマゾンのサイトにアップされていますので
是非にと思います。
長い”はじめ”の文章になっていますけど。菅野さんのお考えの概略を知ることもできそうです。
そうです、その「はじめ」を⇒ ここにリンクします。なんだかぼくには難しい文章なのですが、
読んでみる価値はあるように感じます。
(PDF版はアマゾンの上記サイトにリンクされています)

 


謹賀新春!

2017-01-03 00:50:08 | 日記

 謹賀新春 
みなさま、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
いつも手前勝手なことをくどくどと書かせていただいてます。
おわびといってもどうしようもなく、そもそも読んでくださっている方は
たぶん3人から4人くらいではないかと思いますし、Xさんには長った
らしくてどうしようもないと、いつもお叱りをいただくという結果です。

しかし、このブログも開設していただいてからもう6年になるんですね。
そんなになるものかと驚いてしまいます。まさに「光陰矢のごとし」
の思いを痛切に感じます。

昨年の終りごろでしたか、このブログへのアクセス数が500IPを越え
ていた日があったのです。確か2日間くらいではなかったかと。普通、
そうしたことはあり得ないことなので、なにか不都合があったのでは
ないかと思い心配なので確認してみました。
すると、その理由はすぐに分りました。その数日前にぼくが投稿した
「今村核弁護士」の記事に、検索サイト経由で多くの方々がアクセス
してくださったということなのでした。 

こうした仲間内の小さなブログであっても見出しに反応して記事にアク
セスしてくださる場合が結構あるわけですね。またその日に多くのかた
が今村核弁護士を検索された理由も分りました。ちょうどその前の日か
に、NHKでその番組の再放送があったようなのです。
その放送をみた多くのかたが番組の内容に感応して検索をされたのだ
と思うのです。 

新しい年、2017年がどのような年になるのか、とにかく”時”は立ち止ま
って待ってはくださらないことだけは確かなことです。 

またこれからも、気が向いたときに気が向いたことを書かせていただき
たいとおもいます。
もしも、ここに立ち寄られる機会があったとき、お気が向いたときには
よろしくお願いいたします。

昨年末、ベートーベンの9番をききました。
一番最初に聞いたのは高校生のときでした。 トスカニーニの指揮で
どこのオーケストラだったかは記憶にないのですが、一応ステレオと
いうふれこみのラジオを3台並べたようなもので、レコード盤はLPとい
っていたのではなかったかと思うのです。現在のデジタルと比較したら
信じられないような音質でも、その頃はそれで充分だったわけです。
いまだって、ほんの少しそれなりであれば十分です。 

ユーチューブでカラヤンの指揮で聴けますね。ぼくはこれでも充分です。
スピーカーはBOSEの最安品がこのパソコンラックの上にご鎮座なのです。

でも、今回はNHKにしました。スピーカーはなんとテレビ接続の3.1ch。
日テレでもやっていましたね。生では、上野の文化会館で芸大の第9を
きいたことがあります。その、むかし昔の想い出になってしまいました。 
それにしてもシラーの詩はいいですね。ベートーベンもその詩に感激して
作曲をしたらしいのです。
それから、どうでもいいことの続きですが、写真で見るベートーベンのお墓は
なにか権力的な感じがして好きではないですね。写真というよりテレビでみた
のでした。シラーの詩を下欄にコピペしてみます。この訳嫌いではないです。 

それにしてもシラーの享年は45歳のようです。石川啄木、宮沢賢治、太宰治、
中原中也にしても、ほんとうに夭逝です。 そうでした、明日から中原中也は
「100分で名著」
でやりますね。担当の指南役はなんと、太田治子さんで
太宰治のお嬢さん。 これはまた録画することにします。こうして書いていて、
なんだか語呂合わせのような不思議な感覚になりました。
(200年前の45歳は夭折ではないのでしょうか?) 

「歓喜に寄せて」

ウイキペディア掲載のシラーの詩
訳者不明のようなのですが?)


おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(ベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
(1803年改稿)
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(1785年初稿:
時流の刀が切り離したものを
物乞いらは君主らの兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄酒と 
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

神の壮麗な計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟よ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
愛する父がおられるのだ

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界よ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう