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news commentary

論理の迷路

2007-10-07 00:10:57 | Weblog
いま開かれている国会の焦点は、インド洋で自衛隊が行なっている給油活動の継続問題だ。小沢一郎率いる民主党はこの給油活動の法的根拠であるテロ対策特別措置法をめぐる与野党の攻防を、衆院解散の突破口にするといっている。

10月9日発売予定の雑誌『世界』11月号に小沢が書いた論文が、まるで攻撃開始の狼煙のといわんばかりに新聞などで話題になっている。雑誌がまだ書店に並んでいないので、筆者はまだ読んでいないが、新聞が伝えるところによると、小沢は、インド洋での給油活動を「国連活動でもない米軍等の活動に対する後方支援」とし、「(憲法が禁じる)集団的自衛権の行使をほぼ無制限に認めない限り、日本が支援できるはずがない」と批判しているそうだ(10月5日付朝日新聞夕刊)。

その一方で、小沢は「国連の活動に積極的に参加することは、たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」とし、「私が政権を取って外交・安保政策を決定する立場になれば、ISAFへの参加を実現したい」と書いているそうである(同紙)。

国連の旗は錦の御旗で、その下であれば自衛隊が海外で武力行使しても憲法違反にはならない、むしろ憲法はそれをすすめているという判断である。

1929年に発効した不戦条約は、「国際紛争に決着をつけるために戦争をしない。国家の政策の手段としての戦争を放棄する」ことをとりきめた。百科事典によると、この条約には期限がないため、理屈上は今日でも有効なのだそうだ。この考え方が、日本の敗戦後、日本国憲法第9条に持ち込まれた。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を虚心坦懐によめば、日本という国は国際社会の中で、この憲法を理由に「良心的兵役拒否」を申請せざるをえない。だが、1929年の不戦条約がいわゆる“ザル条約”となったように、日本国憲法第9条も諸般の国際事情、ありていにいえばアメリカ合衆国の事情で、ザル条項になっていった。

1946年に新しい憲法の審議が始まったとき、共産党の野坂参三が衆議院で9条について「自衛のための戦争は正しい。戦争一般の放棄ではなく、侵略戦争の放棄とすべきだ」と質問した。これに対して首相の吉田茂は「多くの戦争が国家防衛権の名においておこなわれた。自衛のための戦争を認めるは有害である」と自衛権を全否定した。

1950年に朝鮮戦争が起き、アメリカの要請で警察予備隊が創設され、やがて保安隊に成長したころ、政府は、「戦力」とは近代戦争遂行能力に役立つ程度の装備、編成を備えるものをいい、保安隊を「防衛力」として備えることは憲法に違反しないと説明した。

1954年に自衛隊ができた。政府は、自衛のための必要最小限度の実力は「自衛力」であって、これは「警察力」を超えるが、なお「戦力」には至っていないので、憲法に違反しないと説明した。

やがて「自衛力」の定義のシーリングはどんどん高くなっていった。大陸間弾道弾、長距離戦略爆撃機、攻撃機を主力にした航空母艦などは保持できないが、戦闘機程度なら保持しても憲法に違反しないという解釈になった。また、理論的には、核兵器や生物化学兵器を保有しても自衛のための必要最小限の範囲内であれば憲法はそれを禁止していない、戦略核兵器はだめだが戦術核兵器は持てる、というところにまでやってきた。

自衛隊の海外派遣についての議論が高まるのは、1980年以降である。1980年の政府見解は①国連軍の任務や目的が武力行使を伴う場合は、自衛隊の参加は憲法上許されていない②武力行使を伴わない場合は参加が許されないわけではないが、自衛隊はそのような任務を与えられていないので、参加できない、とした。

1990年になると、湾岸戦争を機に政府見解が変化する。国連平和維持軍(PKF)などいわゆる「国連軍」への関与には「参加」と「協力」があり、「参加」は国連軍の指揮下に入りその一員として行動することなので、目的・任務が武力行使をともなう場合、憲法上ゆるされない。一方、「協力」は国連軍に対する参加を含む広い意味での関与形態を示すものであり、国連軍の組織の外にあって行う「参加」に至らない各種の支援を含むと解される。こうした参加に至らない「協力」については、国連軍の目的・任務が武力行使を伴うものであっても、それがすべて許されないわけではなく、国連軍の武力行使と一体となるようなものは憲法上許されないが、国連軍の武力行使と一体とならないようなものは憲法上許される、とした。

では、武力行使の一体化とは何か。1997年の政府見解によると、直接武力の行使または武力による威嚇をしなくとも、他者が行う武力行使への関与の密接さから、自らも武力行使を行ったと評価を受ける行為である。神学問答のようであるが、具体的判断として、政府は、イラク人道復興支援特別法で武器・弾薬の陸上輸送は武力行使の一体化ではないので、可能であるとした。武器・弾薬を運ぶ行為とそれを戦闘において使用する行為とは密接に関与していないと判断されると考えたのである。

自衛権をめぐる政府の憲法解釈は、まるで古い温泉旅館の継ぎ足し増築のように、自衛権の拡大をはかってきた。一方で、最高裁判所は統治行為論をお題目にこの問題に対する判断を避け続けた。

背景にあったのは、アメリカの世界戦略の一翼を担ってくれという、アメリカ合衆国の要望だった。最近の際立った例は、2004年7月、当時のアーミテージ米国務副長官と当時の自民党国会対策委員長だった中川秀直との会談だった。この会談で、アーミテージは「憲法9条は日米同盟関係の妨げだ。国際的な利益のために軍事力を展開できないようだと、日本の国連安保理常任理事国入りは難しい」と、集団的自衛権の行使を禁止している憲法9条の改定を促した。

「国連の活動に積極的に参加することは、たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」という論理的とはいえない解散狙いの小沢節が今後どんなふうに燃え広がってゆくのか。見ものである。

(花崎泰雄 2007.10.6)

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