老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『必死の逃亡者』 ジュール・ヴェルヌ

2007-12-08 10:16:36 | 文学
これはヴェルヌの作品の中ではかなり異質なものだが、同時に最高傑作でもある。二重、三重の厚みのある複雑な話の展開。最後のどんでん返しで作品そのものの意味さえも、裏返しにひっくり返る。サイエンス・フィクションというような枠から大きくはみ出した、文字によって書き表されたゲイジュツの極限点である。
舞台は19世紀の中国。ヨーロッパから見た不思議の国の風景やら生活習慣やらを織り交ぜながら、ヴェルヌ独特の想像上の紀行小説になっている。

莫大な財産を持った若いエリートが、どこに生きる意味などあるかと思いながら空虚な日々を送っている。何一つ不自由ない。世の中のものは全部金で買える。一度は味わってみたい心境だ。
ところがある日、資産を預けているアメリカの銀行が倒産しそうだとの知らせが入る。金があふれていれば何のために生きているのかと思い、金がなくなればもう生きていられないと思う。そういうもんかもしれない。で、婚約者に金を残そうと自分の命に、今的にいえば何百億円もの保険を掛ける。それで友人の哲学者を保険金のいくらかの受取人にして、自分を殺すよう頼む。期限は2ヶ月くらい。ところが哲学者はなかなか自分を殺してくれなくて姿を消す。
そうこうしているうちに銀行が倒産しそうだという知らせがウソだとわかる。破産する心配がなくなって死ぬのをやめようとするが、殺すのを頼んだ哲学者はそのことを知らずに姿を消したままだ。保険会社も保険金が支払われることになったら大損だということで、金持ちの若者に二人の護衛をつけて哲学者を探す旅が始まる。

そこから先は北京から始まって、上海とか南京とか、最後には万里の長城を舞台にした「驚異の旅シリーズ」的名所案内が続く。自分が依頼したジブンを殺す殺人者を捜し求める奇妙な旅が、あるとき急展開して、ジブンが必死になって逃げることになる。
サツジンを頼んだ哲学者が死んだらしいということになって、その「権利」が悪党の手に渡ったと知らされる。悪党は金のために必死にその金持ちの若者を追い求める。保険会社の護衛も必死で若者を守る。そうこうしているうちに2ヶ月の期限が切れて、この辺がやや複雑だが、保険の期限は2ヶ月で切れたが、自分を殺してもらって金を払うのは、悪党に権利が渡った時点で期限がなくなっている。
金のために自分を守ってくれていた護衛は簡単に去っていく。すると残された金持ちの若者はすぐに悪党に捕まって目隠しをされてどこかに連れて行かれる。
で、目隠しを解かれたところで見たものは、、、。

このどんでん返しで物語は、ほかのヴェルヌの作品と同じようにハッピーエンドで終わる。全てが哲学者によって仕組まれた、この若者を生き返らすための芝居。世の中、保険会社の護衛のように金で人は動くが、金とは関係ないところで動くものに本当の価値がある。そんな教訓話しではあるが、そこに至るまでのはらはらどきどきが、今から150年も前に空想されたことに相変わらず驚く。
生命保険というニンゲンが考え出した奇妙な仕組みをヴェルヌらしく突っついている。自分が死ぬことで金が払われるのを当たり前のように思っていたことが不思議に思われる。自分の土台が揺すられるような感覚がする。死ねば水と炭酸ガスといくらかの炭素化合物に変化するだけだったことを時々忘れている。

石川湧訳。原題は「ある中国人の苦しみ」
東京創元社 創元SF文庫版、1972年刊。


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