孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

言葉は文化の礎。

2018年11月16日 | 社会観察
職場の同じグループに一人の女子事務員がいて、彼女がリーダーとなって月に2度、英語の勉強会が企画される。勉強会といっても、英英辞典から、適当に単語を選んで、そこに書かれている意味を読み上げる。

それを聞いて、その単語が何か当てるゲームである。例えば、「構造を表す言葉で、この構造は蜂が作る、六角形をしたもの。」答えは、ハニカム(Honeycomb)。こんな具合である。

初めて私が参加した時、その彼女の英語の発音を聞いて、私はすぐに彼女は帰国子女じゃないか、と直感した。

かなり後になって、知ったのだが、やはり彼女は父親の仕事の関係で、米国で生まれ育ったのだが、中高生時代は日本で過ごし、大学は再び米国に渡って、短大を卒業したそうだ。

彼女曰く、母親が、ずっと米国で暮らすと、日本人らしさが無くなると考え、敢えて帰国させたという。

それは私もまったく同感で、私が滞米中に知り合った日系人は、1,2世くらいまでは日本語を話すが、3世以降になると、家庭の教育方針にもよるが、大半が日本語がカタコトになり、見た目は日本人でも、所作や考え方はまるでアメリカ人である人が多かったようだ。

両親が純粋な日本人でも、暮らしが外国で、家を離れれば回りは外国人だらけ、という環境で育てば、否が応でも徐々に日本人らしさは薄まっていくものなのだろう。そして、その大きな要因となるのが、「言葉」であると思うのだ。

母親が日本人のプロテニス選手が、「日本人初のグランドスラム・シングルス優勝者」になったと、マスコミは手放しで伝えていたが、ろくに日本語を話せない彼女を、「日本人」、「日本人」と大喜びしていたのに、どうも違和感を覚えたのは私だけか。

  国籍は日本でしょう

じゃあ、流暢に日本語を話せば、その人はそれだけで日本人らしい人間性を身に付ける事が出来るのか、と言われれば、きっとそうでもないのだろうが、そのあたりを考え始めると何がなんだか分からなくなってしまう。

2020年から、いよいよ小学校で英語が成績のつく「科目になる。その子供たちは一体どのような日本人に育っていくのだろうか。

大変興味深い実験である。