・・・・厚木の男児白骨遺体・・・
神奈川県厚木市のアパート一室で、
5歳の男児が、白骨遺体で見つかった。
白骨遺体は死後、7年経過していた。
父親のトラック運転手の●●●●(36)を、
保護責任者遺棄致死容疑で逮捕。
●●容疑者は
05年ごろに妻が家を出た後、自分で面倒を見ていたが、
仕事で留守にしがちで、週1、2日しか帰らなった。
外出時は子供を部屋に閉じ込めていた。
亡くなる2カ月くらい前は仕事が非常に忙しくて、
子供は、がりがりにやせ細っていた。
●●容疑者の供述・・・・
「この状態が続くと死なせてしまうかもと思った」
「 立ち上がることもできず、か細い声で
『パパ、パパ』と呼んでいた。その場にいるのが怖くなり、
1時間も一緒にいられずに家を出た。
なんとも悲惨な事件です・・・
どれほど苦しかっただろう・・・
どれほど悲しかっただろう・・・・
放置され、餓死した子供のことを思うと、
あまりにも痛たまし事件です。
自分の子供に対して、このような事をする
父親の心境が理解できません。
こんな父親に対して、
瀕死の状態の子供が、「パパ、パパ、」
と呼んだ・・・・・
その状況を思い浮かべると、
涙が出てしまいます。
瀕死の状態において、
子供は、酷い父親に対して、
どういう感情を持っていたのだろう?
怒りとか、怨みを持っていたのだろうか?
そんな感情ではなかったはずです。
それ故、瀕死の状態でも、
「 パパ、パパ、」と呼んだのだろ・・・
これは、怨念を込めて発した言葉ではなく、
父親を頼る想いと、父親を慕う想い、
から出た言葉ではないだろうか・・・
本能的な部分で父親を慕い、すがり、頼った、
にもかかわらず、その思いは満たされなかった。
このときの想い(念)は
言葉を変えれば、「 悲しみ 」である。
「 悲しみ 」とは、
怨みとか・・・怨念とか・・・
そんな攻撃的な想い(念)ではない。
巷の、怪しげな霊能者とか、怪しい宗教の人間が
「 水子の祟り 」と云う意味不明な言葉を発する。
水子の祟り などありません!!!
水子の祟りなど、
私はいままで一度も見たことはありません。
ただ、闇から闇へと葬られた胎児は、
強烈な悲しみの念を発するでしょう・・・
それは祟りなどと表現する事は、
御霊にたいする冒涜です。
例えて言えば・・・
もし、私が、自分の子供に殺されたとします。
殺された私は、あの世に行って、
何を思うか?
自分の子供に対して、
その行為が故意だあろうと、
過失であろうと、
「 悔しい!!! 祟ってやる!!!
呪って不幸ににてやる!!! 」
そんなこと思うでしょうか?
そんなことは絶対にありえません。
それは、子を持つ親なら誰しも同じだと思います。
子供に対して、
まえを見て生きなさい!!!
と願うでしょう。
子供が更正してくれることを願うでしょう。
ただ、ただ、子供の幸福を願うでしょう。
親子の繋がりとは、根本の部分に於いては、
こういう事ではないでしょうか?
その反対で、「あの世」 に行った子供が、
自分の親を、
呪ったり、祟ったりする事などないのです。
ただ・・・
強い、「悲しみの念」だけは持つでしょう。
パパ・・・・パパ・・・
ママ・・・ママ・・・
と、声無き声を発する。
これは、怒っているわけでも、呪っているわけでもない。
この世(現象界)と、あの世 (霊界)は
別の場所にある訳ではありません。
この世と、あの世は、同時進行しているのです。
表裏一体なのです。
自分と霊的な繋がりのある魂が、
「 あの世 」で悲しんでいると、
「 この世 」の自分も、悲しむ状態を引き寄せる。
自分と霊的な繋がりのある魂が、
「 あの世 」で苦しんでしんでいると、
「 この世 」の自分も、苦しいい状態を引き寄せる。
これは、人間の肉体に例えると、
心と、胃袋の関係みたいなものです。
自分の心が、強烈な悲しみの念や、
ストレスを持ったとします。
すると、
胃袋がそれに反応して、胃痛になったり、
食欲が無くなったりします。
慢性的にそれが続くと、胃潰瘍になるでしょう・・・
これは、自分の「 心 」が、
自分の 「 胃袋 」を痛めつけやろうと
思っているのではありません。
なぜなら、心も、胃袋も、別々の存在ではなく。
同じ「自分」だからです。
「 心 」 と 「 胃袋 」 は表裏一体で、
同時進行しているだけの事なのです。
「 この世 」 と 「 あの世 」との関係は
これとまったく同じなのです。
怪しい霊能者に脅され、
水子の祟りを恐れて供養するなどといった事は、
あの世の真実が分かっていない行為です。
祟ってもいない御霊に対して、
祟りを鎮める的な動機で、
供養したり、
訳の解からない霊能者に依頼したり・・・
もちろん供養は大切なことです。
でも、祟ってもいない御霊に対して
「 祟りが恐いから 」
などという動機で、それを前提にした気持ちで、
供養することは、
供養になっていないという事です。
それは単なる駆け引きです。
自由競争の市場経済の枠組みのなかでの
「駆け引き」は健全な「競争」です。
神仏・・・祖霊・・霊魂
目には見えない「真実の世界」の土俵では
「駆け引き」など通用しません。
結果に対する強い執着を、
美化し、それのみに意識を向けた
空回り行為。
その愚かなる行為を助長するのが
怪しい霊能者であり、
全員を「偉い先生」に祭り上げ。
煽てて煽る宗教団体の弊害です。
水子供養とは、
この世に生まれてくる事のできなかった
子供に対して、
愛情と、弔う気持ちを持つことです。
それを通して
「人間の命の尊厳を知る」
そして、目の前に
救える生命があれば例え一人でも!!!
と「感じること」なのです。
それが、自然に手を合せると行為になる。
そういった過程を経て初めて
供養となるのです。
この順番が大切なのです。
このとき、悲しんでいた御霊が、
安らかな気持ちになるのです。
この世とあの世は表裏一体