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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「100分de名著 エチカ」 (スピノザ)

2018-12-06 06:13:15 | 哲学

録画しておいた「100分de名著 エチカ」の一回目を視聴した。 
それによると、スピノザは汎神論を唱えていたのだという。神は絶対的で、無限で、外部をもたない。つまりすべては神の内部である。ということは、すべては神の現れだということになる。スピノザ自身はヨーロッパに生まれ育ったユダヤ人であるにもかかわらず、ユダヤ・キリスト教の神概念からはかけ離れている。 

そもそもすべては神と言ってしまったら、神そのものの意味というのは逆にどこにもなくなってしまう。解説者の国分功一郎さんは「神即自然」であると表現していた。 

おもしろいのは、善悪というのは我々がものごとを比較することから生じてくる、と考えていることだ。この辺は仏教に通じるものがある。自然界には完全と不完全の区別はない。完全と不完全が生まれてくるのは、我々が恣意的に作った「一般観念」との比較によって生じるのだという。無常の世界は常に流動しているのであって、「一般観念」は生じようがない。(固定的な)「一般観念」というものはすべてドクサ(偏見)である。「一般観念」を「概念」に置き換えれば、龍樹と同じになるはずだ。 

なかなか面白い。2回目以降も視てみようと思う。

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言霊

2018-12-05 04:50:53 | 哲学

前回記事(「シューベルト」は‥)では、言葉というのは我々にとって単なる記号以上のものであること述べた。つまり、言葉には何らかの相貌(アスペクト)つきまとうということである。ウィトゲンシュタインは言葉のアスペクトというものを非常に重要視していた。もし、言葉からアスペクトが失われたら我々の会話も文学作品も無味乾燥なものになると考えていたようである。あたかも、それはコンピューター同士が会話しているようなものだろう。

私が思うには、もし言葉にアスペクトが伴わなかったら、無味乾燥どころか会話自体が成り立たないように思う。我々が言葉をマスターするには、その言葉がどのような局面で使用されるかということを経験しなければならない。どのような局面においても、そこで使用される言葉の解釈の仕方というものは極端に言えば無限にある。一つの言葉に対して相当な場面を経験しなければ、その言葉を使用できるようにはならないだろう。コンピューターのように膨大な記憶量とそれらを検索し比較する機能が必要となる。

 

実際には私たちは言葉の意味をそれほど厳格には考えていない。ビジネスの場では、「アジェンダ」、「イシュー」、「エビデンス」、「ステークホルダー」などの言葉が飛び交っているが、辞書などで調べたりしないでなんとなくわかったままスルーしているということはないだろうか。それで大した齟齬も生じないが、時々間違いをすることもある。

私は、「ナイーブ」という言葉を耳にするたびに居心地の悪い思いがする。私達の年配の人間はたいていそれを「繊細な」という人間の性質の意味に受け止める。私も「ナイーブ」はそういう意味だと思っていた。ところが中国の江沢民が来日した時の記者会見で、日本の記者の質問に対して「ユーアーナイーブ」とひときわ大きな声で、しかもなぜか英語で言ったのだ。私はその時初めて、naiveの意味を調べたのであ。辞書には、「純真な、無邪気な」とある。つまり江沢民は、「君たちは無邪気だ(なにも分かっていない)」と言ったのである。アメリカではこの言葉が使用される場合は、どちらかと言うと人を揶揄するようなネガティブなニュアンスがある。

なぜ、それが日本では「繊細な」という意味で使われるようになったか? 日本では純真無垢な人はしたたかではないと言う常識があるのだろう。誰かがある人に対して、「君はナイーブだね」と言ったとする。もしそれが、「君は純真だね」という意味で言ったとしても、そばでそれを聞いた人は言われた方の人を見て、それが「繊細」であるという意味に受け取ってしまうのである。人の性格というのは複雑でいろんな面があるはずなので、性格を表現する言葉については、一度や二度の経験でその意味を決定できるはずがない。にもかかわらず、「君はナイーブだね」の一例だけで、ナイーブに繊細のイメージがまとわりつくのである。強引と言えば強引であるが、私達の内部には「意味に対して親密であろうとする」渇望が確かにある。その渇望が強引にゲシュタルトを構成するのである。またそうでなければ我々はいつまでたっても言葉を使用できるようにはならないのではないだろうか。

そんなわけで、「ナイーブ」という言葉を聞く度に、私の心はざわつくのである。メディアを通じて発信する人は「ナイーブ」を本来の英語の意味で使用している人がだんだん多くなってきた気がする。しかし、受け取る側は「繊細な」の意味で受け取っている人も少なからずいるような気がする。それでも齟齬が生じていないなら、大したことを言っているわけではないのだろう。だが、私の心の中では一つの言葉で2つのアスペクトが生じて落ち着かないのである。ちょうど「アヒルウサギ」の絵のアヒルとウサギが反転し続けているような感じ、と言えばわかってもらえるだろうか‥‥。


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「シューベルト」という名前はシューベルトに完全にぴったりと合う

2018-12-03 10:16:20 | 哲学

タイトルの文言は「言葉の魂の哲学」(古田徹也)の中に、ウィトゲンシュタインの言葉として紹介されていたのだけれど、とても腑に落ちる言葉だと感じた。 

私はあるとき新聞のコラムで「ウィトゲンシュタイン」という名を知った。その時は20世紀を代表する哲学者であるとだけ知っただけで、その他のことは何も知らなかった。もちろんあったこともなければ顔さえ知らない。その後「論理哲学論考」を読み、何となく異彩を放つ哲学者であると感じ、オーストリアの大富豪の息子でありながら相続放棄をしただとか、兄弟が3人も自殺しているだとか、情報はどんどん蓄積されていった。人物像はどんどん変化していく。当然、最初に名前だけを知っていた時と現在ではまったく違う人物像になっているはずなのに、「ウィトゲンシュタイン」という名で指示される人物は一貫してウィトゲンシュタインその人であったという「感じ」がする。 

注意深く反省すると、私達は最初に名前を覚えた時点で、その名前の指示対象を実体視していることがわかる。その人について何も知らなくとも、名前によりその人物枠というものが確保される。後からくる情報はその枠にどんどん充填されるだけなのだ。もちろんそこに実体的なものなどあろうはずがない、名前を知っているだけなのだから。だが、とにかく我々はそのように感じてしまう。いわゆる言霊というものであろう。言葉は単に記号であるに過ぎないが、われわれはそれに対してなんらかの相貌(アスペクト)を読み取ってしまうのである。おそらくそのことは、われわれが言語を使用できるための必須の要請なのだろう。 

上記のような話をしたら、ある方が新聞の歌壇に次のような歌が掲載されていることを教えてくれた。

  しばらくが たてばその名で最初から 
  生まれたように馴染むみどりご 

「ウィトゲンシュタイン」という名前はウィトゲンシュタインに完全にぴったりと合う。

海王丸

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