禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

絶対善はあるか?

2018-12-11 08:47:36 | 哲学

絶対善などというものがもしあったとしたら、たぶんそれはつまらないものだろうと思う。ミツバチや蟻の世界ではそれが実現していると言って良い。彼らの行動は一貫して群れ(公)の為である。女王バチはひたすら卵を産み続け、働きバチひたすら蜜を集め、ひとたび外敵に巣が脅かされれば身を挺して戦うことをためらわない。本能と行動が群れ(公)の為という意味で一致している。彼ら自身はおそらく自分の行動を「〜のため」などと意識しない。ただ、そうすべきであるからそうしているのである。これはカントの倫理観とも一致している。 (ただし、ミツバチに理性というものがあって自律的に判断しているという前提ならばの話だが‥)

ミツバチは巣単位に遺伝子を共有しているため、淘汰圧も巣単位にかかる。各個体の本能が群れのためにつくすという一点になるまでに遺伝子が洗練されてしまったのだ。 

人間は社会的動物だがミツバチほど単純ではない。生存競争は群れ単位でもあるが同時に個体単位でもある。群れ同士の闘いになれば、自己犠牲をいとわない個体が多いほど群れの生存確率は高くなるが、群れの中では犠牲的でない方が生存率が高い。そのため人間の本能はアンビバレントなものにならざるをえないのである。国家の危機になれば自己犠牲が美しいものに見えてくる。と同時に潜在意識の中では自分が生き残る道を模索することになる。その結果、滅私奉公を声高に叫びながら、それ以上に他人に同調圧力を加えるようになる。抜け駆けを決して許さないのである。その結果、自分より先に死んでくれる人間には称賛を惜しまない、靖国神社に神様としてまつられもする。その反面、自分より先に死のうとしない人間に「非国民」のレッテルを貼ろうとする行為は苛烈なものとなる。 

ともあれ我々は所詮、きれいごとを口にしながらうまく立ち回ってきた人間の末裔であることを忘れるべきではない。何が善であるかは一概には言えない。偽善に陥りやすいのである。 

今朝の富士(12/11 7:06)

コメント (1)
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