禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

この世界に矛盾はあるか?

2018-12-20 09:15:29 | 哲学

ある人に、「我々の世界は無矛盾な世界ではなく、矛盾のある世界であると考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される、という考えはどう思われますか?」と問われた。

私は「その矛盾と言うのはどういう意味ですか?」と問い返したのだが、どうも要領を得ない。「矛盾」という言葉はいろんな意味に使われることがあるので、議論するにも意味をはっきりさせておかなくてはならない。人によっては「平等であるべき人間社会で貧富の差があることは矛盾だ」と言う。西田幾多郎なら、ものがあって運動しているだけで、そこに矛盾があるというだろう。

矛盾の本来の意味は論理的なものである。文字通りの意味は、「すべてのものを突き通す矛といかなる矛も撥ね返す盾が同時に存在する」ということである。矛盾という言葉をそのように解釈すれば、私達の世界は「無矛盾な世界」であると言って良いだろう。円い三角や、青い信号が赤く点灯している、というような事態は起こらないのである。

私達は矛盾することがらを考えることも想像することもできない。「どんな矛をも撥ね返す盾が突き破られる」ことを考えられるだろうか? もし突き破られたとしたら、それは「どんな矛をも撥ね返す盾」ではなかったというだけの話である。「円い三角」を頭の中で思い描くことができるだろうか? どんなに頑張ってみても三角おにぎりを想像するのが関の山である。言うまでもないが、三角おにぎりは円い三角」ではない。

かりに矛盾した事象が起こっていたとしても、我々にはそれを認識する能力はない。トラック一周400メートルの競走で、審判がピストルを構えて「位置について用意!」と言う前に、走者がゴールしたとする。我々にはその事態を「スタートする前の走者がゴールした」と理解することはできないはずだ。空間と時間の秩序に矛盾する事態を我々は認識できないのである。

厳密に言うと、「矛盾がない」ことと「矛盾を認識できない」ということは別のことだが、認識できない世界のことを論じても意味はない。我々にとっての「世界」とは認識できる世界のことで有ったはずだ。この世界は「無矛盾な世界」であると言っても差し支えないと私は考える。

後半部の「矛盾のある世界であると考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される。」という考えははっきり言ってつまらない。数学では矛盾を一つでも許せば、どんなことも証明できてしまう。つまり、矛盾のある世界では何が起こっても不思議ではない、当たり前のことと見なされる。矛盾のある世界では謎(アポリア)も当たり前のこととなってしまう、と言うだけの話である。

素人の哲学談義は言葉の遊びに流れてしまうことが多い。

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コメント (5)
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