禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

クォリアって何?

2018-10-26 09:29:04 | 哲学

今朝、妻が唐突に「クォリアって何?」と訊ねてきた。最近、妻は恐山の南直哉さんのブログを読んでいる。そこでその言葉を見つけたらしいのだ。

私は、「今、君が見ているもの感じているもの、例えば、そこにある赤い包装紙のそのありありとした赤さを実際に観ているでしょ。その赤そのものがクォリアだよ。」と答えた。 
すると妻は、「うーん、ちょっとわからないわ。それなら、ただ『赤』と言えばいいだけじゃないの、わざわざクォリアなどという必要はないのじゃないの?」 
それで私は、「私達の見ている空の青さは、物理学では説明できない」式の説明をしたのだが、妻は「分かったような気もするけれど、やっぱりわからないわ。」と言う。 

クォリアが分かりにくいのはあまりにも身近過ぎるからだと今まで思っていた。だからあえて、「この赤」というふうに、その身近さを気付かせようと「この」をつけて表現することが多い。 
しかし、「それなら、ただ『赤』と言えばいいだけじゃないの?」という妻の言葉がここで、ちょっと引っかかってきたのである。よくよく考えてみれば、われわれが経験について述べている場合、すべては「クォリア」について言及しているのである。そもそもクォリアの「身近さ」を気付かせる必要などあるだろうか? 

わざわざ「クォリア」と言うのは、私の意識の中にあるものは私秘的なものである、ということを改めて提示したいからであろう。つまり、私達は無意識のうちに自分の意識も他人の意識も同じようなものだと考えているが、実は私は他人の意識の内には入れないし、他人は私の意識の内には入って来れない。そういうことから、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である」というようなことがあり得るのではないかという想定が可能になる。だとしたら、私の今見ている「赤」は単に公共の言葉である「赤」で表現するだけでは不十分で、やはり「この赤」とか「赤のクォリア」というふうに表現したくなるのである。 

しかし、ウィトゲンシュタインは「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である。」ということを言う人はその言葉の意味を理解していない、というややこしいことを言い出した。一般に有意味な命題というものは真かまたは偽のどちらかでなくてはならない。そして、その命題の意味を理解しているということは、どういう場合に真であるか、どういう場合に偽であるかということを知っているということでなくてはならない。例えば、「雪は白い」という命題が真であるとは、雪が白い場合であることをしっていれば、「雪は白い」という命題を理解していることになる。 

ところが、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である。」という言葉の問題点は、私が「他人の見ている『青』」にアクセスできないというところにある。私には、「他人の見ている『青』」という言葉がなにを指しているのかということが根本的に理解できない。「他人の見ている『青』」と言いながら実は「自分の見ている『青』」に置き換えながら想像してしまうのである。つまり、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』かもしれない」というような想定が一見成立するような気はするが、その言葉がどのような事態を意味しているかは誰も知りえないのである。 

恋人たちが海辺で夕日を眺めているとする。彼氏が「夕日が赤いね。」と言う。そして彼女が「そうね、本当に赤いわね。」と答える。この時二人は、同じ世界にいて、同じものを見つめていることを確信しあっている。そして、言葉を通じて、夕日が赤いことの客観性をも確認しあっているのである。この時一方の「赤」が他方の「青」であるというようなことはあり得ない。二人とも間違いなく「赤い」夕日を眺めているのである。公共言語における「赤」の意味はそれ以上でもそれ以下でもありえない。 

以上のように考えてみると、「クォリア」という言葉の存在論的価値というものがかなりあやしいものと言わざるを得ないような気がする。

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