禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

なぜ「主客未分」ということを言うのか?

2018-10-17 05:18:23 | 哲学

道元禅師は「正法眼蔵」において、「自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。」と述べている。また、西田幾多郎は「善の研究」において、「意識現象が唯一の実在である。」と述べている。一見、前者は無主を、後者は無客を、主張しているようだが、実はどちらも同じこと「この世界は無主無客の一元的世界である」ということを指摘しているのである。

それがいつの間にか、他者とのコミュニケーションをとっていくうちに主客二元の世界観に慣らされてしまう。共同社会を営むためには、自他を同等の人間と見なす「架空の超越的視点」から、自分をも客体としてとらえなおす必要があるからだ。この「架空の超越的視点」とは即ち「客観的視点」のことである。それがなければ科学も成立しない。この客観的視点から世界を把握することを、フッサールという哲学者は「自然的態度」と呼んでいる。しかし、「自然的態度」という命名は現実にはそぐわない。「架空の超越的視点」という超自然的な条件をひそかに忍び込ませているからである。

デカルトは「私は考える、ゆえに(考える)私が有る」として、この世界の中心の不動点としての「私」を措定した。これ以降西洋哲学では、主体(私)が客体を認識するという構図が出来上がってしまう。「私が有る」とした時点で、「私」を俯瞰する視点が導入されている。

問題は、「私が有る」とする前に、初めから「私は考える」と言ってしまうところにある。すでに論点が先取されている。考える前から「私」があることを前提としているのは言語の罠である。そこに「考え」があるということは間違いない。しかし、その「考え」を起こしたのは「私」であるかどうかは即断できない。

「私は考える」というからには、それは「私」が意志して「考える」ということでなくてはならない。しかし、「私」が考えようと思った時は既に考えているのである。ちょっとわかりにくいかもしれないので、少し話をずらしてみよう。

ウィトゲンシュタインは「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようと意志することは意志できない。」と言う。私は手を上げようと思えば自由に手をあげることはできる。束縛さえなければ私の体は私の自由意志で動かすことはできる。しかし、その自由意志がどこからやってくるのかは分からないのである。同様に、「私は考える」と言っているが、その考えがどこから湧いているのかはそれほど自明ではない。

その考えがどこから湧いてくるところを、ひとまず<私>と名付けることにしよう。そうすれば「<私>は考える」ということは問題ない。だが「<私>は有る」と言えるかどうかは問題である。というのは、<私>が無い」という事態が想定できないからである。それは有るということが所与である。有無の両極がなければ、それは実は有るとも無いとも言えないものである、哲学用語で言えば存在者ではない。禅仏教ではそのことはよく理解されていて、<私>は「無」と名付けられた。無門慧開は「無」を有でも無でもないものであると、わざわざ解説している。

「自己を忘るる」とは、はじめから「主客」なるものなど無いと気付くことに他ならない。

マゼラン海峡の街 プンタアレナス

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語りえぬものについては沈黙すべし

2018-10-15 10:29:23 | 哲学

「語りえぬものについては沈黙すべし」というのは、天才哲学者ウィトゲンシュタインが生前著した唯一の哲学書「論理哲学論考」の結びの言葉である。なんとなく格好いいので哲学愛好家にはよく知られているが、なかなかその真意というのは分かりにくい。

ウィトゲンシュタインは「我々は論理に従ってしか考えることはできない」と言う。非論理的なことは考えることも想像することもできないというのである。というのを聞いて、「いや、俺なんかいつも非論理的なことを考えているぞ。」と言う人もいるかもしれないが、哲学者の言う「論理」というのは日常語と少しニュアンスが違う。ここで言う論理に背いて考えるというのは矛盾のあることを考えたり思い浮かべたりすることを意味する。

例えば、「円い三角」を思い浮かべることができるだろうか? 鈴木君と山本君が一緒に家に遊びに来たら訪問者は2人である、決して1人しか来ていないと考えることはできない。ソクラテスが人であり、かつ人は必ず死ぬということを信じているなら、あなたはもはやソクラテスが永遠に生き続けると考えることはできないはずだ。

以上のようなことを指して、人の思考は論理に支配されていると言うのである。「豚が空を飛ぶ」とか「太陽が西から昇る」というようなことは非現実ではあるが非論理的というわけではない。頭に思い浮かべることができるようなことは、奇跡的ではあるが絶対不可能というわけではないのである。大隕石が地球と衝突したために、地球の自転の方向が逆向きになれば太陽は西から昇ることも考えられるが、「円い三角」は絶対実現しそうにない。

人間が論理に反して考えられないのであれば、どうして間違ってばかりいるのだろうという疑問がわく。それはおそらく我々が言語を媒介にして思考するからに違いない。お父さんとお母さんから飴玉を一つずつもらえば、私の飴玉は必ず2つあると認識する。「1+1=2 」は必然である。しかし、私達は「1+1=1 」と書き間違えてしまうことはよくある。私達は円い三角を認識できないにもかかわらず。「円い三角がある。」と言葉にはできる。

私達は論理に従ってしか考えることはできないが、言語を誤用することがある。ウィトゲンシュタインは哲学上の問題のほとんどが言語の誤用によるものだと考え、「論理哲学論考」によって哲学上の問題は本質的にすべて解決されたとして、彼自身が本当に一時は哲学をやめてしまった。後に自ら「論考」の誤りを認めて哲学を再開するが、その「論考」は多くの哲学者に今も影響を与え着続けている。

「語りえぬもの」とは言葉の誤用を指すのであろう。具体的にどのようなものかについて考えてみよう。「命題」というのは言語や式によって表した一つの判断の内容のことである。その判断内容が意味あるものであるためには必ず真または偽となるものでなくてはならない。哲学上の言葉が有意味でなくてはならないのは言うまでもない話である。

 【 宇宙には始まりがある 】

上記の文は有意味な命題であると言えるだろうか? そう言えるためにはその内容が真偽判定できるものでなくてはならない。宇宙がある時点で始まったとしたら真であると言えるのは間違いない。しかし、問題はどういう事態を観測すれば『宇宙が始まった』と言えるかということである。その命題の意味を理解しているということは、その命題の真偽条件を知っているということでなくてはならないはずである。もし発話者が、なにをもって宇宙の始まりとするかを知っていなければ、「宇宙には始まりがある」という言葉の意味を彼自身が分かっていないことになる。

一見有意味であるように見えながら、実は誰もその言葉の意味を理解していないということがあるのである。仏教においては経験の到達し得ない形而上の問題には言及しないという原則がある。いわゆる『無記』である。「語りえぬものについては沈黙すべし」というのはそういう意味だと思う。

この世界はあくまで具体的かつ明晰である。( 大雄山最乗寺にて )

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神秘主義とオカルト

2018-10-07 05:05:28 | 哲学

SNSで議論していると、ある人が「鈴木大拙は心霊主義者である。」というようなことを言い出したので驚いた。しかも、心霊主義という言葉をオカルト的なニュアンスで論じている。どうやら、それは鈴木大拙が神智学会の会員になっていることからきているらしい。鈴木大拙が神智学会員であったことは事実である。それは奥さんであるベアトリスが神智学会員であったことが大きな要因として考えられるが、神智学の神秘主義的要素に彼自身が共感を覚えたということではないかと思う。

私はその方面には疎いが、ウィキペディアで神智学について牽いてみると、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想啓示などを通じて、とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。」とある。明らかに神秘主義的要素が含まれている。

ちなみに、神秘主義について、これもウィキペディアで牽いてみると、絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである。」となっている。「禅はいわば宇宙と自分が一体になること、あるいは絶対と相対の解消」とでも表現すれば、禅と神秘主義が近しいものだと分かる。大拙居士が神智学に共感を覚えたとしても何の不思議もないのである。

しかし、前出の神秘主義の定義の「神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて‥」というところを見ると、容易に疑似科学としての心霊主義やオカルティズムに流れてしまう要因をはらんでいることも間違いない。

しかし、禅は偏向を好まない。それはあくまで中庸に徹するものである、幻視や超越的な啓示はいわゆる魔境とか偏差と呼ばれるものであり、単なる異常心理として片づけられるべきものである。禅とオカルトはもっとも遠いところにある。

オカルティズムは「神秘学」と訳されるが、神秘主義と混同されやすい。そして、実際にその垣根は低いが、禅者にとっては峻別されるべきものである。

( 新宿御苑のユリノキ ) 

 

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われらはみなテセウスの船

2018-10-01 10:24:27 | 哲学

テセウスというのはギリシャ神話に出てくるアテナイの王様の名である。テセウスがクレタ島のミノタウロスという化け物を退治し凱旋した時の船を、アテナイでは英雄の武勇伝の記念として長い間保存していた。それは木造船であるから、だんだん朽ちてくる。駄目になった部品を取り換えているうちに、元の材料で作られた部分はすべてなくなってしまった。そうすると、現存する船を果たして「テセウスの船」と呼ぶべきだろうか?

考えてみれば、われわれ人間もテセウスの船とあまり違わない。筋肉は約二カ月、骨は3年周期で細胞が入れ替わっているらしい。心臓の筋肉や脳神経の細胞は入れ替わらないらしいが、原子や分子レベルでは新陳代謝している。要するに、どの人間も10年前と現在を比べてみればほぼ別人といってよい。

無常の世界では、すべてのものは一寸たりとも立ち止まることなく変化している。それだけで独立して存在している個物というものは(厳密に見れば)存在しないのである。個物だけではない、例えば「人間」という一般的な概念(哲学用語では「普遍者」という)についても考えてみよう。「人間」という概念は観念上のものであるから、それは不変のまま固定されて存在し得ると思いがちであるが、そうは簡単に行かない。もともと人間は地球上には存在しなかった、それは進化の過程で偶然生まれたに過ぎない。つまり、人間は人間以外のものから生まれたことになる。親は人間以外で子は人間という境界がなくてはならないことになる。しかも一人では繁殖できないのだから、過渡的に人間と人間以外の交雑もあるという状況の中で、どのようにして人間と人間以外を区別できるというのかが疑問である。つまり、人間の本質というものを客観的に確定できる基準というものは存在しないということにならざるをえない。

結局、個物も普遍者も存在しないということであれば、前回記事で述べたように「すべての存在者は存在しない。」ということになる。「何もない」というような、決して神秘的なことを言おうとしているわけではない。無常観、空観を通して世界を見れば、このような哲学的表現になるのである。

( 横浜 山手 ) 

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