道元禅師は「正法眼蔵」において、「自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。」と述べている。また、西田幾多郎は「善の研究」において、「意識現象が唯一の実在である。」と述べている。一見、前者は無主を、後者は無客を、主張しているようだが、実はどちらも同じこと「この世界は無主無客の一元的世界である」ということを指摘しているのである。
それがいつの間にか、他者とのコミュニケーションをとっていくうちに主客二元の世界観に慣らされてしまう。共同社会を営むためには、自他を同等の人間と見なす「架空の超越的視点」から、自分をも客体としてとらえなおす必要があるからだ。この「架空の超越的視点」とは即ち「客観的視点」のことである。それがなければ科学も成立しない。この客観的視点から世界を把握することを、フッサールという哲学者は「自然的態度」と呼んでいる。しかし、「自然的態度」という命名は現実にはそぐわない。「架空の超越的視点」という超自然的な条件をひそかに忍び込ませているからである。
デカルトは「私は考える、ゆえに(考える)私が有る」として、この世界の中心の不動点としての「私」を措定した。これ以降西洋哲学では、主体(私)が客体を認識するという構図が出来上がってしまう。「私が有る」とした時点で、「私」を俯瞰する視点が導入されている。
問題は、「私が有る」とする前に、初めから「私は考える」と言ってしまうところにある。すでに論点が先取されている。考える前から「私」があることを前提としているのは言語の罠である。そこに「考え」があるということは間違いない。しかし、その「考え」を起こしたのは「私」であるかどうかは即断できない。
「私は考える」というからには、それは「私」が意志して「考える」ということでなくてはならない。しかし、「私」が考えようと思った時は既に考えているのである。ちょっとわかりにくいかもしれないので、少し話をずらしてみよう。
ウィトゲンシュタインは「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようと意志することは意志できない。」と言う。私は手を上げようと思えば自由に手をあげることはできる。束縛さえなければ私の体は私の自由意志で動かすことはできる。しかし、その自由意志がどこからやってくるのかは分からないのである。同様に、「私は考える」と言っているが、その考えがどこから湧いているのかはそれほど自明ではない。
その考えがどこから湧いてくるところを、ひとまず<私>と名付けることにしよう。そうすれば「<私>は考える」ということは問題ない。だが「<私>は有る」と言えるかどうかは問題である。というのは、「<私>が無い」という事態が想定できないからである。それは有るということが所与である。有無の両極がなければ、それは実は有るとも無いとも言えないものである、哲学用語で言えば存在者ではない。禅仏教ではそのことはよく理解されていて、<私>は「無」と名付けられた。無門慧開は「無」を有でも無でもないものであると、わざわざ解説している。
「自己を忘るる」とは、はじめから「主客」なるものなど無いと気付くことに他ならない。
マゼラン海峡の街 プンタアレナス