禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

小林秀雄の歴史観について

2018-10-22 04:30:43 | 雑感

【 上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かつて飴のように延びた時間といふ蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思へる。( 無常といふ事) 】  

歴史というものを事実を年表に書き込んだものと考えるというのは確かに浅薄というものだろう。しかし小林自身がのべているように、上手に思い出す事は非常に難しいのである。「蒼ざめた思想」を拒否するということと、主観的になりすぎるということは全く別のことである。  

 小林秀雄に戦争を追随するような発言があったことはよく言われているし、そのいくつかは私も承知している。しかし、誰にとってもその時代精神を乗り越えることは易しいことではないし、自分の属する共同体に忠誠をつくすということは一概に否定しきれるものではない。戦後育ちの私が当時の彼を批判するというのはフェアーではないと思うが、中にはそのまま見過ごすという訳に行かないものもある。

【 日本の歴史が今こんな形になって皆が大変心配している。そういう時、果たして日本は正義の戦いをしているかという様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何ですか。空想の生んだ鬼であります。 (歴史と自分) 】

日本人でありながら「日本は正義の戦いをしているか」という問いをもつ、真に歴史を知るにはそのような視点をもつことはむしろ必須である。自分自身をも相対化することなしには評論だって成り立たないのではないかと思う。「~という様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。」という発言は明らかに言い過ぎである。 

【 僕は、終戦間もなく、或る座談會で、僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいゝだろう、と放言した。今でも同じ放言をする用意はある。‥‥    自分の過去を正直に語る爲には、昨日も今日も掛けがへなく自分といふ一つの命が生きてゐることに就いての深い内的感覺を要する。從って、正直な經驗談の出来ぬ人には、文化の批評も不可能である。(月刊「サロン」昭和24年6月号) 】

敗戦後、手のひらを反すようなことを言い出した知識人に対する反発は理解できる。私も小林に転向して欲しいなどとは思わない。うすっぺらな偽善は小林秀雄には最も似つかわしくないものである。ただ、他人に対して「歴史が分かっていない」と大言壮語したことは反省して欲しいと思っている。戦争を支持したものとしては、日本の敗戦を自分の敗北として受け止めて欲しいのだ。「僕は馬鹿だから反省なんぞしない」と居直ったりしないで、もっと彼には敗北に打ちひしがれて欲しかった、そしてそのことには口をつぐむ。それがインテリゲンツィアとしての矜持というものではないか。小林秀雄の一ファンとして、私は切にそう願うのである。

【 僕が論理的な正確な表現を軽蔑していると見られるのは残念な事である。僕が反対して来たのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或は進歩啓蒙の仮面を被ったロマンチストだけである。 (中野重治君へ) 】

 論理を装ったセンチメンタリズムがくだらないものであるには違いないが、非論理的なロマンチシズムもまた有害である。一部の小林ファンには、まるでカルトを信じたがるように小林の非論理的な部分に惹かれる面が無きにしも非ずである。小林秀雄はある講演の中で、大野道賢(道犬)の処刑の際のエピソードを信じていると述べているが、明らかに当時の軍国主義にあおられた精神主義と批判されても仕方がないような内容である。(=>『小林秀雄とリアリティについて』) あえて、非論理的なものを信じたがる風潮を助長するべきではないと思う。

コメント (1)
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