前回記事(「充足理由律と仏教の関係について」)で、「仏教は倫理を導出する原理をもたない」と述べたことについて、鼻白んだ方もおられるかもしれない。あくまでそれは私の仏教観であることをことわっておこう。仏教では悟りに到達するということが先ず第一の目標であって、善きふるまいというのはその結果としてもたらされるものであるということである。注意しなくてはならないのは、「善きふるまい」が言葉によって厳格に規定されているのではないということである。
墓地に行くと卒塔婆に「大圓鏡智」などと書かれているのを見かけることがある。澄み切った鏡のようにものごとを正しく映し出す智慧という意味である。大圓(円)は幾何学上の円ではなく、「偏りのない」という意味である。禅僧はよく一円相を描くが、それは偏りのない境地を指している。四角や三角には頂点という偏りがある。悟りの境地をあえて幾何学上の図形にすると円のようなものだということなのである。厳密なことを言うと、幾何学的な円にも中心という特殊な点があるので悟りの境地をあらわすにはふさわしくない。それで、「いたるところ中心であるような円」という表現がされることもある。
ともあれ、仏道修行の極致として一点の曇りや偏りもない「大圓鏡智」があり、その境地に立った者は正邪の判断を過たないというのである。果たしてそうか、生身の人間が一点の曇りや偏りもない境地に立てるかどうかという疑問がある。見性には万能感が付随している。小さな悟りにもある種の「完全性」が付きまとう。ともすればあるはずのない「絶対」の境地に立ったと勘違いすることもあるのではないだろうか。
昭和の初期に血盟団というテロ組織による連続殺人事件が起きた。その首謀者である井上日昭の弁護側証人として、当時の日本臨済宗の最高指導者であった山本玄峰老師は法廷で放った第一声が次のような言葉であった。
「第一、井上昭(日召)は、長年、精神修養をしているが、その中でもっとも宗教中の本体とする自己本来の面目、本心自在、すなわち仏教でいう大圓鏡智を端的に悟道している」
井上日昭を大圓鏡智に到達した悟道の人であると言っているのである。だとすると、天皇中心主義にもとづく国家革新を大義とするその行為は大圓鏡智に照らして、仏教的には善行であると述べているに等しい。
自分を犠牲にして迷いのない行為を純粋な美しいと感じるのは我々の本能かもしれない、しかしその「迷いのなさ」を大圓鏡智における自在性に例えるのはいかがなものだろう。そもそも、「天皇のため」とか「国家のため」にいう思い込みそのものが時代の精神に毒されており、大圓鏡智という偏りのない境地からは著しく隔たっている。血盟団事件の残党が5.15事件を起こし、リベラルな風潮を委縮させ、やがて日本を戦争に導いたその罪は大きい。テロを本気で大圓鏡智から出た行為というなら、仏教はカルトと言われても仕方ないだろう。
大乗仏教では一切皆空という。ならば、大圓鏡智もまた空である。絶対の境地に立ち得たと思った瞬間にすでに思い込みにとらわれており、仏教の教えから外れている。大圓鏡智はあくまで観念上の理想である。中道の精神からすれば仏道修行というのは、そこに向かって延々と繰り返す自己否定の繰り返しに他ならないはずである。
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