禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

充足理由律と仏教の関係について

2016-03-05 14:59:05 | 哲学

充足理由律という言葉には耳慣れない方が多いかもしれない。かいつまんで言うと「なにごとにも十分な理由がある」という原理のことである。

… われわれはつねにアプリオリに、あらゆるものは根拠をもっているということを前提しており、そしてこの前提が、なにごとにつけ<なぜ>と問う権利をわれわれに与えてくれるのであるから、この<なぜ>をあらゆる学問の母と名づけることが許されるであろう。アルトゥル・ショーペンハウアー(1813年)『充足根拠律の四方向に分岐した根について』  (以上、Wikipedia から引用)

つまり、充足理由律という原理があれば、我々は何についても「なぜ?」と問うことができ、そしてもしわれわれの能力が十分で科学が進歩さえすればあらゆることが解明される、ということになる。少なくとも20世紀の初めまでは、そのような信念のもとに西洋文明は発達してきたのである。

「なにごとにも十分な理由がある」というのは一見当たり前すぎるようでもある。あたりまえだからこそ「原理」と言われているのだろう。しかし、それは本当に「当たり前」だろうか?ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」において次のように語っている。

   「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」(6・44)

もし宇宙が斉一な法則に支配されているのだとしたら、科学が進歩すれば自然法則は明らかになっていく。しかしいくら科学が進歩してもウィトゲンシュタインが言うように、「なぜ世界が存在するのか?」という最も根源的な問題は依然「神秘」として残されているだろう。科学によっては、「なぜ私はなのか?」といったような、実存に関わる問題は何一つ解明されないのである。

よくよく考えてみれば、ある事柄の未知の理由が必ず存在することの根拠などどこにも見出せないのである。充足理由律とは原理などではなく、なにごとも「因果性」の枠に当てはめて把握したいという我々の理性の傾向性なのではないだろうか、ということに思い当たるのである。

さて、これからが本題であるが、この充足理由律を前提として受け入れると、どうしても超越的な絶対神というものが必要となる。それなしには「この世界がある」ことの理由が存在し得ないからである。どうしても一番最初の理由としての絶対的な創造神が必要となってくる。そしてそれを措定することは、単なるブラックボックスを設けることに過ぎないのだが、信じる側からすれば論理的な整合性が保障されることになる。一旦信じてしまえば安定した信仰のシステムに住することができる。

2千年以上前にインドに生まれた釈尊は、充足理由律というものが単なる傾向性であることを見抜いていた。だから仏教ではユダヤ・キリスト教のような絶対神を措定しない。そもそも「絶対」という概念そのものを認めないのだ。それは充足理由律を原理としては認めないからである。つまり、「この世界の根拠となるものはない」ということである。この世界が無根拠であるということはこの世に確たるものは何もない、全ては無自性でありすべては変わりうる、つまり無常ということである。

仏教の問題点はニヒリズムすれすれだということだろう。「世界が無根拠、全ては無常。」というだけではニヒリズムそのものである。しかし論理はニヒルであっても、人間自体はニヒルではないのである。ウィトゲンシュタインが「神秘」と呼んだ、その無根拠さに対する畏れを我々は根源的に持っている。それはキリスト者が神に対して抱く畏れと同質のものである。仏教の修行というのは、その畏れを動機として無根拠の中から「妙」を見出すことに他ならない。「妙」とは何かを表現するのは難しいが、西行による次の一首がそれをあらわしているのではないかと思う。

   なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

仏教の経典は膨大なものであるが、釈尊の教えは極めて簡単であると私は考えている。それは、全ては無自性であるから執着すべきではない、ということと妙に対する感受性をもて、という2点につきる。

 「妙」を感じるとは言ってもそれは情緒的なものであるから、厳密に言うと仏教は倫理を導出する原理をもたないことになる。だから相当修業を積んだ高僧と言われる人でもその時代の通俗的な道徳観に左右されることもありがちである。一切皆空を標榜する仏教においては不殺生戒といえども「絶対」ではありえない、キリスト教におけるような神の言葉ではないから、せいぜい努力目標のような位置づけでしかないとみなされがちである。

したがって、戦争になればやすやすと協力してしまうということになる。場合によってはテロリストを讃えることもいとわない。当時の臨済宗の最高位である山本玄峰老師が、血盟団事件の首謀者である井上日召を悟道の人であると、弁護した話は有名である。禅においては「大死一番」とか「死中に活」とか言って、自己犠牲を伴う行為を尊ぶ傾向がある。だから、悟道を極めた高僧が特攻や忠臣蔵を私心を捨てて大義に殉じた「美挙」としてほめたたえるというようなことが、つい最近まで実際にあったのである。

こんなことをカントが聞いたらあきれ果てるかもしれない。「大義のために」とか「祖国のために」というのは私心を捨てているどころか、カントに言わせれば「大義」とか「愛国心」などというものは私心そのものであり、到底普遍的な道徳律にかなう行為とは言えないからである。

このことを仏教者はもっと重く受け止める必要があるだろう。悟りを得て自在の境地を極めたかのような高僧でも、結果的に見れば時代の精神に飲み込まれていたということが多々あるのである。肉体をもつ人間にとって本当の自由自在の境地というのはとても難しいことであることを自覚すべきである。仏教とニヒリズムは紙一重の差であり、ロゴスによる倫理規定の存在しない仏教においては、見性による万能感から極端な倫理観に流れることも考えられる。禅宗とオーム真理教の距離は世間一般に考えられているほど遠くはないと私は考えている。 

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