禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

おごらざる人も久しからず

2021-06-07 14:25:57 | 仏教
 太田道灌は若い頃多少傲慢なところがあったらしく、父親がそれをたしなめる意味で「おごれる人も久しからず」とたしなめたところ、道灌は「おごらざる人も久しからず」と答えたらしい。という逸話が小林秀雄の「私の人生論」で取り上げられていることを、小林の実妹である高見澤潤子の「兄 小林秀雄」を読んで知った。

 道潅とその父親のやり取りの仔細はよく分からないが、理屈としては道灌の方が正しいのである。高見澤も「兄は、『諸行無常』という言葉も昔から誤解されていて、一切の現象は、変転して常住でないと解釈されているが、『常なし』というのは心なしということで、全く心ない理法、非人間的な理法ということだ、それを人間が受け入れることは難しい、まともにみる事が出来ないから、目をそらしてしまったというのである。」と述べている。

 ここで「心なし」というのは非情であるという意味である。そこに予定調和的な要素というものはみじんもない。おごれるものだろうがおごらざるものであろうが、無常はそのようなことについては一顧だにしない。つまり、この世界と我々の間にはなんの約束もない。無常観とは、なんの保証もない世界の中に放り出されている実存を意識することに他ならない。

 仏教に関しては、因果応報ということもよく言われるが、これはせいぜい、「タバコを止めたら長生きできる。」というぐらいの意味に解釈しておくべきだろう。因果応報を信賞必罰のように解釈するのは間違いである。仏教には神さまはいないのだから、賞罰を与える主体というものは存在しない。身も蓋もないことのように思えるかもしれない。が、たとえ報われようと報われまいと、常に善い生き方をしなさいと教えるのが仏教である。

 「念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、 また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもつて 存知せざるなり。」 
 
 上の言葉は、歎異抄の第2条の一部である。念仏を進める親鸞自身が、念仏を唱えれば浄土に行けるか地獄に落ちるか、どうなるか分からないと言っている。一見無責任なことを述べているようにも見えるが、親鸞にはもう念仏にすがるしかないという諦念、それが信仰への覚悟となっているのである。第2条の文言は以下のように続いている。

 「たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、 念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふら う。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける 身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すか されたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もお よびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。」 
 
 もともと「地獄は一定すみかぞかし。」とは無常をそのまま受け入れる覚悟のほどを言うのである。その覚悟ができた時、自分が「柳は緑花は紅」という当たり前の世界の中にいることを再発見するのである。当たり前のどこが有難いのか? というかもしれないが、実は当たり前であることは当たり前ではないのである。

 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
                    (ウィトゲンシュタイン)

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